-04 花と美

「あそこに見えるのが市庁舎」私は時計塔のある堂々とした石造りの建物を指差した。「レイブンズブルックで一番古い建物だよ。真夏の暑い夜には、なぜか13時の鐘を打たないことがあるみたい。街の人達は、何か悪いことがおきる前触れだって言ってる」

「どんな悪いことが起きるの?」アリシアはエメラルドグリーンの瞳を輝かせた。それはまるで、冒険を前にした男の子のような明るさに満ちていた。私はなぜか少しだけ意地悪をしたくなった。

「分からない。まだ見たことがないもん」

「シス、あなたにはもう少し探求心が必要かしら」

「探求心?」

「『Scientia et potentia humana in idem coincidunt, quia ignoratio causae destituit effectum』※」(人間の知識と能力は同一である。なぜなら、原因を無視することは結果を無視することだからだ)

「分からないよ」

「つまりね、心がわくわくするものを探しなさい!そうしたら私たちは、もっと強く美しくなれるのよ」アリシアは無邪気に微笑んだ。その笑顔を見て、私は胸がちくりと痛んだ。こんな素直な子に意地悪するなんて、私の心はなんて小さいんだろう。


アリシアは街のいたるところに興味を示した。船が出入りする港に吹くしっとりとした潮風。修理工場に響くハンマーやのこぎりの音。子どもたちが走りまわる市場広場。古びているけど、お庭が綺麗にお手入れされている礼拝堂。

彼女の目に映るレイブンズブルックはどんな街なのだろう。私はふと考えた。私の見ているこの街とは、まったく別の世界に見えているのだろうか。



時々、彼女は思いついたように様々な言葉を引用した。

私にはその言葉の意味はほとんどわからなかった。でも、教会で司祭様から教えていただく物語とは違うことだけは分かる。

何が違うのか?私にはうまく説明できない。私たちを取り囲む世界に対する、向かい合い方が違っていた。

彼女はきっと、私よりもとても賢い。


街を回るアリシアの様子は目立っていて、私は最初それが嬉しかった。私も何か特別な存在になれたかと思った。

でもすぐにそれが誤解だと気付いた。


アリシアの服には、襟元にも綺麗な刺繍がたくさんしてあって、スカートはつやつやでふっくらしていた。ボディスはしっかりと体にフィットしていて、まるで彼女のためだけに作られた衣装のようだった。


そう思って自分の服を見返すと、私はとてもがっかりした。サイズが大きくてぶかぶかで、所々ほつれた箇所を縫い合わせた跡がある。


「アリシア嬢、ごきげんよう」声のした方を振り向くと、身なりの整った女性がアリシアへ微笑んでいた。彼女の仕草は無駄が無く洗練されていて、まるでマナーが服を着ているようだった。


「ペンバリー先生、ごきげんよう」

アリシアは丁寧にお辞儀した。私も思わず姿勢を正し、アリシアの真似をして丁寧に頭を下げた。

「先生、こちらはシス、私の友人です」アリシアは答えつつ、顎を上げて姿勢を正した。

ペンバリーは笑顔を作った後、私を見た。彼女の視線が、私の靴、スカート、ドレスと移るに連れ、徐々に表情が冷たくなった。

私は思わず自分のスカートを見返し、そこにシミを発見した。バレンティンのお店で水の入ったバケツをひっくり返した時、付いたに違いない。


「アリシア嬢、慈善は美徳です。しかし交際相手は慎重にお選びくださいませ。人は品位を持って初めて人間となる。分かりますね」ペンバリーは私を一瞥し、静かに微笑んだ。


私はとたんに頬が熱くなった。まるで、暖かい午後に微睡んで見ていた夢を、冷水で覚まされたようなショックを受けた。得意げに街を案内していた自分が急に恥ずかしくなった。私と彼女たちは住む世界が違う。ペンバリーはそう言っている。慈善。アリシアは私に慈善活動をしていたのだ。


私はこの場から走って逃げようとした。いてもたっても居られなかった。しかし、その瞬間腕を掴まれた。アリシアが私の腕を強く握っていた。


「失礼ながら、ペンバリー先生」アリシアは毅然と言った。

「ロック氏は、人は自然において既に人間であると言っています。他人の意思に拠ることなく、自然の法に基づき平等に財産と身体を有すると。友情に富や地位の境界を設けるなど、それこそ品位にもとる振る舞いではありませんか?」

「ロック? あなたはまた、そんなおかしな考えを」

「先生、おかしくなんてありません。ただの自然哲学です」

「哲学は男性の嗜みです、ハント嬢。私たちには慎みという美徳を育てる別の嗜みがあります」

「それでは先生」アリシアはいたずらっぽく笑った。「先生は熱心な教育を御慎みあそばせ。せっかく分別した男女の嗜みも、机上の空論となりかねません。伴侶がいらっしゃらないことにはね」


今度はペンバリーが顔を真っ赤にする番だった。「アリシア嬢!あなたという方は!」


すかさずアリシアは私の手を引っ張って駆けだした。「シス、行こう」

「ハント様に御報告なさいますからね!」ペンバリーの叫びが遠くこだまする中、私たちは手を繋いで全力で走った。


マーケット通りを出て、タウンホールを回って、時計台のある市庁舎前まで戻ってきた。息が切れてもう動けなくなるまで、私たちは走った。

市庁舎の陰になる場所までやってきて、私たちは地面にそのまま座り込んだ。先日の雨で泥がまだ乾いていない。土やほこりがスカートについてしまうが、気にしていられる余裕は無かった。

アリシアはちょっと考えてから、同じように地面に座った。綺麗に整っていたふわふわのペチコートとスカートが形を崩したが、彼女は笑っていた。


「大丈夫なの?アリシア」私はぜいぜいと呼吸をしながら聞いた。質問をしてから気が付いた。この質問には別の意味が隠れている。私はアリシアに、それをはっきりと聞くべきかどうか迷った。

「平気平気。お父様は私のこと怒れないもの」

アリシアも同様に答えた。

「ペンバリーは家庭教師の先生なの。前の町から一緒に着いてきてくれたのよ。小さな頃からああやって喧嘩しているから。それより見た?彼女のあの顔ったら」アリシアは大きな声で笑った。

「でも、ちょっと言いすぎちゃったかしら。後で謝っておかないとね」


私たちは呼吸が整うまで、しばらくの間黙った。


「私のお家はね」ようやく落ち着いたアリシアが会話を再開した。「お父様が貿易のお仕事をしているの。小さい頃から出張に出たり、少しの間だけ別のお家に住んだり、慌ただしかった。お母さんは植物学者。私はいつも独りぼっちだった。今回だって、急に引っ越しのお話がでたの。私には一言も相談無しに」

アリシアの表情は少しだけ寂しげだった。少しの間沈黙の後、彼女は私に向き直った。

「シス、ごめんなさい。嫌な思いをさせたわね。私のわがままのせい。この街に引っ越してきたのが嫌で、私は憂さ晴らしをしたかったの。連れまわしたりして、ごめんね……」

アリシアは丁寧に頭を下げた。


彼女の事情、家の事、育ってきた環境、それらは私とはまったく違う。服、住居、勉強、少しの間一緒にいただけでも、全てがかけ離れている。


それでも心のどこかで、彼女を他人と思えなかった。


私は迷った。さっきから心の内にある疑問を、言葉にするべきかどうか。でもここを逃したらずっと聞けなくなってしまう気がする。聞きたい。でも聞きたくない。


「どうして……どうして、バレンティンのお店に来たの?どうして私に声をかけたの?」

気が付くとアリシアへ質問していた。同時に後悔した。アリシアの答えがもし私の期待と違ったら。そう考えると胸がどきどきした。


慈善は美徳である……ペンバリーの言葉が心に蘇った。本来なら美しいはずのその言葉が、まるでナイフのように、私の胸の奥に突き刺さっていた。

アリシアにとっての私。もしかしてそれは、ただの慈善の対象だったのだろうか。たんなる気まぐれで、惨めで汚らしい小娘に施しを与えただけなのだろうか。

まるで、私という存在を、人から別のものに変えられてしまうような恐怖を感じた。先ほどのペンバリーや、かつて母から向けられた冷たい視線を思い出す。


「素敵なお店よね、お父様のお部屋とちょっと似てたの」彼女は小首をかしげて答えた。質問に答えただけなのに、彼女のかわいらしさがあふれ出るようだった。これは一つ目の質問の答えだ。

「あなたに声をかけたのは……」アリシアは指を顎にあてて、空中を見た。


答えを聞きたいという気持ち、やっぱり聞きたくない気持ち。両者が心でせめぎ合った。やっぱりこんな質問、しなければ良かった。背中に冷たい汗が伝った。スカートを握っていた手に、ぎゅっと力が入っていた。


「看板、かな」

アリシアは何事もないかのように答えた。

「え?」私は思わず喉から空気の出るような声を出した。

「あなた、お店の前で看板を振り回して、店主のおじさんの頭に降り下ろしていたでしょ?」

「ああ、うん……」バレンティンのお店の看板を取り替えようとした時の話だ。彼女はあの光景を見ていたのだ。私は恥ずかしくなった。「でもわざとじゃないよ、看板が重かったの!」

「あれを見てね、面白いな、と思ったの。変な子がいるなって。ほら、私も、お父様の書斎の本ばかり読んで、変な子だと怒られるから」アリシアは指で自分の赤毛をくるくると回した。「変な子同士、友達になれるかなって。あなたの入るお店に着いて行っちゃった」そういって照れくさそうに笑った。

「それだけ?」

「そう」

「その……家庭教師の先生が言っていたのは?慈善とか美徳とか」

「ああ、あれ?私ね」アリシアは辺りを見回してから、小さな声で言った。「私ね、善とか美徳とか、正しい行いとか、そういうのはあまり好きじゃない。だってそうでしょ?善だけを行うのが清い人間だなんて、そんなもの嘘よ。綺麗なのも汚いのも、それを併せて人間なのよ」


アリシアのその率直な言葉は、私の胸の奥でうずいていた気持ちを、優しく打った。

「私は汚い」思わずつぶやいていた。

アリシアは言葉の真意には気が付かず、私のスカートについていた泥を、ハンカチを出して払った。その後、自分のスカートの汚れを同じように拭きながら笑って見せた。

「私も」


彼女の考える汚れと、私の考える『汚れ』は、きっと意味が違う。

それでも、私は心が軽くなっていくのが分かった。今まで悩んでいたことが、取るに足らない些細なことに思えてきた。

たとえそれが真実のほんの一部だとしても。たとえその後ろに、遥に巨大な嘘を隠していたとしても。


まもなく午後の鐘が鳴るほどの時間になった。

「私、バレンティンのお店に戻らなきゃ。休憩時間が終わっちゃう」

私は目に滲んだ涙を気付かれないように、慌てて顔をこすって立ち上がった。

「待って」アリシアは私の手を掴んで止めた。「さっきはあなたに了承を得る前に言っちゃったけど。これ以上迷惑をかける前に、改めてちゃんと言わせて」アリシアはかしこまって言った。「シス嬢、私とお友達になってくださる?」


もったいぶった言い方だったが、私はそれが照れ隠しであることに気が付いた。

「アリシア嬢、一つ条件があるわ」私もアリシアの真似をして、できるだけかしこまって言った。「マーケットストリートに私の好きなパン屋さんがあるの。次はそこに付き合ってもらいますからね!それでこそロックさんの言う『自然』な状態というものでしょ?」

アリシアは一瞬固まってから、笑い出した。「ちょっと違う気もするけど、それで良しとしましょう!楽しみにしておくわ」


私たちは顔を見合わせてお互いに笑った。腕を組みながら店へ戻った。周囲からは相当変な視線で見られていたが、それが余計におかしくて、私たちは笑いをこらえながら歩いた。


バレンティンの店の前に着いた。私たちは別れの挨拶をした。

アリシアは最後に、また周囲を見回してから、私にこっそりと耳打ちする素振りをした。


「ところで、シス。笑わないで聞いてね」今度はどんな面白い言葉が飛び出すのだろう?私はわくわくした。

彼女のその言葉を聞くまで。


「レイブンズブルックには魔女はいるの?」


---


※ Bacon, Aphorism III

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