第3話 私の住む街(2)
小麦畑。ぶどう園。四方に広がる険しい山脈。深い谷間。足元には農地が広がっている。だけどその土地は元気が無さそうで、枯れかけているのが分かる。曇った空。遠くに見える牛も痩せている。場面が変わる。森の中、地面に剣で模様が描かれている。その中に置かれる金だらい。呼び声が聞こえる。「フランチェスカ……フランチェスカ…」違う、これは、私が発している声?「フランチェスカ……フラン……ス……シス!」
私は唐突に我に返った。スカーフに囲まれた小さな箱。羊皮紙の匂い。ここはレイブンズブルック。心配そうに私を見つめるバレンティンの顔。
私は心臓がどきどきしていた。背中に冷たい汗がつたっている。どこか分からない、別の場所の映像を見ていた。
「大丈夫か、シス。少し疲れてるんじゃないか?看板なんか持たせてごめんな」バレンティンの瞳には不安と心配の気持ちが窺えた。
「ううん、違うの。ごめんなさいバレンティン。ちょっと……」自分の異変に気付かれないように、私は必死に言い繕った。「そう、寝ちゃっていたの。夢を見ていたみたい!」
バレンティンは帽子の位置を直しながら驚いた。
「寝ちゃったって、お前、『まかせて!』って言ってた次の瞬間にか!?早すぎないか!?」
「そうなの!私、最近寝るのがすごく得意なの!だから大丈夫、まかせてバレンティン」
私はとにかく話題を変えようと、明るく振る舞った。
「無理しなくていい。奥の部屋で少し休んで眠ったらどうだ?」バレンティンは困ったように髭をいじった。
「ありがとうバレンティン。でも大丈夫平気!まだ朝だから、全然眠くなんてないよ!」
「ええ!?お前、たった今、寝てたって言ってたよな?大丈夫か、むちゃくちゃだぞ。頼むから商品を壊したりしないでくれよ……」
その時ベルが鳴った。お店の入り口、ドア上のベルだ。お店に新しいお客さんが入ってきたのだ。私はバレンティンとの会話から逃げるため、急いでドアへ向かった。
そこ佇んでいた少女を見て、私は思わずため息をついた。
背中まで伸びた赤い髪は、炎のように赤い。緩やかなウェーブは、まるで海の潮騒のように滑らかだった。
小さな鼻と、ふっくらとした唇、細くしなやかな指、仕草をする度にさりげなく輝く爪。顔立ちから指先まで、全てが繊細で洗練されていた。
上品で細くて繊細な外見なのに、その中には隠しきれない炎のような力強さが宿っているかのよう。矛盾しているかもしれないけれど、彼女はそれくらい美しくて魅力的だった。私は、一瞬で彼女に心を奪われてしまった。
「ごきげんよう」
少女が陶器人形のように美しい唇を動かした。美しい発音だった。
「こ、こんにちは」私は慌てて返事をした。
「昼には未だ少し早いかしら。おはようございます、の方がいいわね」
ドレスを少しだけ揺らして、少女は上品に笑った。上等そうな服装だが、いくらするのか、何でできているのか、想像も着かなかった。
「この町で一番大きくて、珍しいもののあるお店はここ。そう聞いて来たのだけど」赤毛の少女はそう言って店内を見回り始めた。「思ったより狭いのね」
私はたっぷり数十秒かけて彼女の言葉の意味を考えた。口ぶりからすると、レイブンズブルックの外からやってきたのだろうか。もしかして、田舎の小さな雑貨屋くらいに思われて、バカにされたのだろうか?
そう思うと、だんだんと腹が立ってきた。
私にとってこのお店は、狭くなんてない。私をこの町の外へ連れて行ってくれる、世界で一番広い場所なんだから!私は彼女にそう言ってやりたかった。
しかし、臆病な私はそんなこともできず、「商品を壊さないよう注意してくださいね!」と言いながら辺りの掃除を始めるが精一杯だった。
東洋の国の木彫りや布織物の埃をはたきながら、チラチラと彼女を覗き見た。腹が立っていても、私は彼女の一挙手一投足を見放せなかった。
「The human mind is not a tabula rasa. Instead of an ideal plane for receiving an image of the world in toto, it is a crooked mirror, on account of implicit distortions」 (人間の心は白紙ではない。世界全体像をそのまま受け入れる理想的な平面ではなく、潜在的な歪みがあるゆがんだ鏡だ)
「え?」彼女の言葉を聞いて、私は口を開けた。彼女は立ち読みしていた本を棚に戻し私ににっこりと微笑んだ。
「私はアリシア・ハント。あなたはここで働いているの?」
アリシアからの突然の問いかけに私の心臓は大きく鳴った。同時に母の警告が心に響いた。
「う、うん。私はシス・クマイル」
「おいくつなのかしら?」
「14歳」
「私と同じね」
さっきまでの怒りはどこへ言ってしまったのだろうか。彼女との共通点を見つけて、私は少し嬉しくなってしまった。
アリシアは私をじっと見つめた。
「あなたの瞳、森のように深い緑色。すごく綺麗ね」
私は全身の体温が上がって、耳の先まで赤くなるような気分だった。誰かから綺麗と言われたことなんて、生まれて初めてだった。
「私は家族でレイヴンズブルックに引っ越してきたばかりなの」アリシアが髪の毛を指でくるくると回しながら言った。「この町のことが知りたいわ。案内してくださらない?もちろん、あなたのお仕事が終わってからね」そう付け加えて、いたずらするように片目を閉じて見せた。
まるで魔法だった。アリシアには明るく歓迎的で、完璧すぎるほどの何かがあった。彼女の中にある暗い何かを、残らず照らして消し去ってしまうような、不思議な共鳴を感じた。
考える間も無く、私は何度も頷いていた。その後の仕事も、頭がぼーっとして、いつもの半分くらいしか手に着かなかった(それでもバレンティンは「いつもありがとう」と褒めてくれた)。
仕事の休憩時間になって、ヴァレンティンに許可をもらってから、私は店の外へ出た。そして、彼女との待ち合わせ場所へ向かった。
見慣れたレイブンズブルックの街並みが、日の光が、私のまったく知らない別の世界になったように感じた。
石畳をならす私のブーツも、いつもよりいい音を鳴らしている気がする。まるで新品になったみたいだ。もちろん、足元を見るといつもの私のブーツだけど。
ヴァレンティンのお店は、私を守る聖域だった。じゃあ彼女との出会いはなんだろう?別の世界という意味では似ているけども少し違った。
彼女は入り口だった。私が知っているようで、知らなかった世界への。
この出会いが、私の人生を永遠に変えるような、何か特別なことの始まりだという予感。
それでも、目の端で彼女をちらりと見たとき、奇妙な考えが頭をよぎった。母にいつも言われている言葉だ。「危険よ、シス」。危険?危険なのは私?それとも……。
美しいアリシアと、小さくて綺麗でない私。これが私たちの出会いだった。
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