アリシア

-02 私の住む街(1)

朝日が海をオレンジ色に染める。霧が晴れて市庁舎の時計塔が見えてきた。古風だけど賑やかな市場の街並み。私の住む街、レイブンズブルックが目を覚まし始める。


石畳の通りを駆けると、履き古したブーツがリズムを刻んだ。馬のひづめの柔らかい音、港から遠く聞こえるカモメの鳴き声、町の人々の陽気なおしゃべり。私が毎日聞いている、おなじみの音楽。


角を曲がってマーケット・ストリートに出る。どこからか焼きたてのパンの香りがした。この香りはきっと、ソーンベリーおばさんのパン屋さん。この町の名物、塩漬けパンを焼いているに違い無い。外側は薄いビスケットのようにバリバリで、中はふんわりと暖かい。


そういえば私は、今日の朝食がまだだった。でも、立ち止まっている暇はなかった。バレンティンが私を待っている。


「おはよう、シス」ストリートの途中で、深い笑いジワのあるおじさんが手を振ってくれた。シワをさらに深くし、顔いっぱいに笑顔を作っている。

「フラナリーさん、おはようございます」

私は手を振り返した。袖が捲れないように、手首の上で下ろすよう注意した。


軒先にはローズマリーやタイム、ラベンダーが華やいでいる。

爽やかなハーブの香りに気が付いた瞬間、私は肌の奥で、体がビリビリするようなしびれを感じた。一瞬だけ体が固まりかけた。

フラナリーさんから不思議に思われないように、できるだけ明るい声を出した。


「素敵なお花ですね」

「また新しいのを買ってしまったよ。うちは果物屋さんだっていうのにねえ」

フラナリーさんは、花に丁寧に水やりしながら優しく笑った。言葉とは裏腹に、ちっとも反省しているようには見えない。きっと、本当にお花が好きなのだろう。


その表情を見ていると私の体のしびれは治まってきた。

私にとって、町の人たちの温かさは、花に注ぐ太陽と同じだ。このお陰で、前向きに空へ向かって顔を上げることができる。


フラナリーさんと別れ、仕事に急ぐ普通の女の子のように、早足で進んだ。

バレンティンの店が見えてきた。その窓は、遠い国々から集められた様々な珍品で埋め尽くされている。私が近づくと、バレンティンがドアの上に新しい看板をかけようと奮闘していた。お気に入りの新品の帽子が、手入れの行き届いて髭とよく似合っている。彼は最近髪の毛に白髪が交じってきたのを気にしていて、作業中も帽子のかぶり具合が気になっていたようだった。


「手伝うよ!」私は歩みを速めた。

「ああ、!ちょうどいいところに来た。気をつけろ、見た目より重いぞ!」

バレンティンは私をちらりと見下ろし、厳しい顔を温かい笑みに変えた。


私は看板を受け取って、所定の位置に取り付けようとした。また少しだけ、腕に馴染みのあるピリピリとした感覚が走った。小さな静電気のような感覚。今度はすぐに消え去ったが、少しの間、空気中にかすかな揺らぎを残していた。


急いで仕事を終わらせよう……焦った私は、看板を持ち上げるために思い切り前に踏み込んだ。

その瞬間、私の足は水たまりに踏み込んで、スカートに大きな水しぶきを上げた。

「あれ!?」

私は恥ずかしさで頬が紅潮するのが分かった。水たまりから抜けようと体を避けると、今度は近くにあった水入りのバケツをひっくり返した。バレンティンの店前に水流が広がっていく。


「ごめんなさい!」

私は慌てた。新品の看板をぬらすわけにはいかない。思い切り背伸びして体を反らした。すると体重のバランスが崩れ、私は看板を持ったまま後ろに倒れ込んだ。


私の持った看板は空中に弧を描き、そのままバレンティンの頭に垂直に激突した。バレンティンの帽子が看板を突き破った。

私は恐怖に青ざめた。しかし、突き破られた看板と帽子で、バレンティンの白髪は見えなかった。それは不幸中の幸いだと思った……。


ほどなくして、バケツを片付けスカートの泥を落とし、私はバレンティンに何度も謝った。


バレンティンは目を輝かせて笑った。

「大丈夫、大丈夫。看板の仕事は目立つことだろう?最高に、いかしているじゃないか!」


看板に開けられた穴には別の板が張られ、そのまま設置されていた。そこには『コルテス・キュリオス・アンド・コレクティブルズ(Cortes’ Curios and Collectibles)』と書かれている。板の色が違うため、Collectiblesの"o"の位置にちょうど大きな穴が空いたのだろうことがすぐ分かる。

確かに目立ってはいた。


私はしばらく謝り続けたが、その分仕事を頑張ってくれればよいというバレンティンの言葉でその場は収まった。


「お店の名前を新しくするの?」

私が尋ねると、バレンティンは顎鬚をなでながらうなずいた。

「大きな町からもっと客が来るかもしれないからな」


店内に足を踏み入れると、嗅ぎ慣れたスパイスや古い羊皮紙の香りが私を迎えてくれた。シナモンやナツメグ、貝殻や珊瑚の美しい標本、遠い国の地図、難しい哲学の本。何に使うのか良く分からない品々が、所狭しと並んでいる。


この店は私にとって聖域みたいなものかもしれない。ここにいると、少なくともしばらくの間は、色々な心配事を忘れられる。


「東国から新しい荷物が届いた」ヴァレンティンはそう言って、隅に積まれた木箱を指差した。「俺が台帳を処理するから、それの整理を頼んでもいいか?」


「まかせて!」私は熱心に頷いた。

先ほどの名誉を挽回するチャンスだ。それに、外の国からの荷物には珍しいものがたくさんある。繊細な磁器の食器や置物や、複雑に織り込まれたタペストリー。これらに触れている間、私はレイブンズブルックの国境をはるかに越えた世界を夢見ることができる。


シルクのスカーフに挟まれた小さな箱に手を伸ばした。

その瞬間だった。不思議な感覚が私を襲った。涼しい風が血管を通り抜けるような感覚と共に、頭の中に様々なイメージが流れ込んだ。

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