第4話 君のいない世界
——そこは、何もない白い空間だった。
地平線の彼方まで広がる空白。
正常な感覚なら、気が狂いそうな光景の中、悠斗は当たり前のように独り立ち止まっていた。
やがて、蜃気楼のように浮かび上がる景色。どこにでもある公園だ。
砂場があり、古墳のような滑り台がある、どこか懐かしい光景。蜃気楼の中に、甲高くも幼い声が響く。
その声が自分にかけられている事を理解しながらも、なぜか聞き取れなかった。
——ただ、そこには二人の小さな女の子が立っていた。
そして、景色は瞬く間に変化する。二人の少女はそのままに、急斜面の階段が続く山の中。
両側を山林に囲まれた呆れるくらい長い石造りの階段だ。小太りの少女が息を切らしながらついてくる。
やがて、また蜃気楼は移り変わり、少女達が悠斗に向かって手を振っている。
その姿は、ゆっくりと遠ざかり……。
※※※
「……夢か」
ぼんやりとする思考が、目覚めた悠斗の口を自然と呟かせた。どこか懐かしいその夢の内容を、思い出そうとするが、意識が鮮明になるにつれて、夢の景色は遠ざかる。
次に飛び込んでくる景色は、いつもの自分の部屋だ。季節外れの羽毛布団が、その心地よい重さと共にまどろみへと誘う。
遮光のよく効いた黒いカーテンの隙間からは、朝日が漏れていた。枕元に置かれたスマホを手に取る——まだ時間に余裕はあるようだ。
そして、あるはずのスマホを確認した時、いるはずのモノがない事に気づいた。
「……あいり?」
思わず羽毛布団を押しのける。そこに彼女が、隠れている事を期待して……。
勢いよくベッドから飛び出して、世界の光を遮るカーテンを開け放つ。光が幻を照らし出すはずもないのに……。
彼女のいない部屋は、ただ静寂に包まれていた。当たり前の事を認識して、当たり前ではなかった事が孤独に温もりを与えていた事実を告げる。
温かみを含んだ、眩しい自然光に包まれた寝室と相反して、悠斗の気持ちは自分でも驚く程、深く沈んでいた。
母親の元を、あの最悪な家庭環境の中から逃げ出すように飛び出し、初めてこの部屋に辿り着いた時と同じ気持ちだ。
——死にたい
そんな感傷が、口から溢れそうになる。その深く落ち込んだ心のまま、習慣的に台所へと続く扉を引いた。
「ゆうちゃん、おはよー!」
台所の中央——そこには、世界の光に照らされた幻がいた。
その屈託のない笑顔は、荒野に咲く一輪の花のように。そして、その眼差しに映し出された荒野は花畑に姿を変えるように。
崖から突き落とされたような気分だった悠斗は、思わず、引いた扉に頭を打ちつける。
その間抜けな光景に、あいりは首を傾げ、その痛みは幻が現実だという事を知らせた。
「ゆうちゃん、何してるの?」
あいりは、テクテクと音がしそうなリズムで悠斗の側へと駆け寄り、可愛らしくつま先立ちで背伸びをすると、魔法の呪文を唱えながら、悠斗の頭を撫でた。
「いたいのいたいのとんでけー」
幻聴が、孤独の霧を晴らしていく。
幻覚が、彼女の手の柔らかさを伝える。
「……おまえ、起きたら教えろよ」
彼女にソレを悟られないように、悠斗は言葉を紡いだ。
「えへへ、ごめんね」
あいりは、どこか気まずそうに苦笑いを浮かべる。また心の霧が晴れていくのを感じた。
「ゆうちゃん、学校は?」
「ああ、行くよ、行くに決まってんだろ?」
朝食のカレーパンを確認して、制服に着替える為、寝室へと戻る。そして、数日前には気にもしなかった視線を意識すると、
「……覗くなよ」
僅かな隙間を残して、寝室の引き戸を閉めた。
※※※
「ゆうちゃん、忘れ物はない?」
「まったく、母ちゃんかよ」
台所から玄関へと続く一本道。その途中にはもう一つの部屋の扉があり、反対側は風呂場へと繋がっている。
それらを通り過ぎて、外の世界の扉に手をかけた。あいりの見送りの声が、背中を押す。
——登校2日目、空は快晴、友人の兆しはなし
呆れる程、長い階段を降りながら、エレベーターがないから家賃が安かったのかと、納得する。
ただ不思議と今日は溜息が零れない。
「いってらっしゃい」
そんな何気ない一言が、自分を迎えてくれる人がいるだけで、世界の景色が一変する事を、無意識に実感していた。
——例えそれが、幻であったとしても
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