第38話 別世界
その日は日勤だった。
あれからナガオカさんは症状が再燃することもなく、無事に退院を迎えた。
「モリミヤさん! わし今日退院やから!」
朝一番、ナガオカさんはナースステーションのカウンターから声をかけてくれた。
その表情は入院当日とは比べ物にならないくらい穏やかだった。
娘さんが付き添い、車椅子を押している。
「おめでとうございます。お大事にしてくださいね」
私は立ち上がり、挨拶をした。
「ちょっと」
ナガオカさんは私に手招きをし、小声で話をした。
「モリミヤさんは、わしが一番しんどかった日、夜中も何度も様子を見に来てくれとった。肺炎が治ってからも、わしが左手で物を取りやすいように、部屋を出る前にコップなんかもちゃんといい場所に置いてくれとった。またぶり返した時は担当ナースに指名させてもらうわな」
ナガオカさんは人差し指を自分の口に当てて、内緒のジェスチャーをして笑った。
私がナガオカさんに力を使ったことは今でも正解だったかはわからない。
でも、ナガオカさんは看護師としての私を認めてくれた。
そのことが嬉しかった。
「ありがとうございます。でも、ずっと元気でいてくださいね」
私がそう伝えるとナガオカさんも娘さんも笑ってくれた。
ナガオカさんとの会話に心温まり、褒められたことに少し浮足立つものの、気持ちを切り替えて、今日の自分の担当患者さんのカルテを確認し、一日の計画を立てた。
あれ⋯⋯アダチさんの処方が今朝で切れてる。
お昼までに続きの処方を出してもらわないと患者さんに薬を渡せない。
主治医は⋯⋯アカマツ アキト
午前中の忙しい時間帯、他の患者さんの急ぎの処置に回りつつ、アキトに連絡するタイミングを伺っていた。
そうこうしている内に、ナースステーションにアキトがやってきた。
パソコンの前に座ったので、要件を済ませようと話しかける。
「若先生、お疲れ様です。今、よろしいでしょうか?」
「それ止めてって言わなかった?」
アキトはパソコンの画面を見ながら不機嫌そうに言った。
「⋯⋯アキト先生」
他のスタッフも近くにいるので、なんとなく小声で言い直す。
「アダチさんの処方が今朝で切れているので、続きの指示を出して頂けませんでしょうか?」
「あぁ、ごめん。今から出すから」
アダチさんのカルテを開いたアキトは、その場で指示を入力してくれた。
「ありがとうございます」
要件が済んだので、お礼を言って立ち去ろうとする。
「今日、タザキさんの担当もモリミヤさん?」
アキトに引き止められた。
「はい。そうです」
「今朝の採血で炎症が上がってたから、今日の昼から抗生剤を変える。この後本人さんの部屋に行って説明するから、点滴の準備だけは先にしといて」
「分かりました」
私は返事をした後、元々使うはずだった点滴を所定の場所に戻し、新しい抗生剤の点滴を準備した。
休憩時間になり、なんとなく私はまた旧病棟の裏口に来た。
朝にナガオカさんと話をしたことが関係あるかもしれない。
アキトに会えたらお礼を言おう。そう思ったのかもしれない。
けど、今日のアキトはそういう話をしに来たわけではなさそうだった。
既にアキトが座っていたので、私は少し間を空けて座った。
「さっきはどうも。俺たち結構仲良くなったはずなのに、つれないんだな」
「別に普通だと思いますけど。仕事中ですし」
あれ以上どうすれば良いと言うのだろうか。
「なぜ連絡をくれないんだ?」
「すみません。最近ちょっと忙しくって」
実際は頭のいいアキトと話すと、自分のダメさ加減に気づかされて、気分が沈むからだけど。
そんなことを本人に言えるはずもない。
「じゃあ、俺に興味がないわけではないと」
「⋯⋯なんかそういう聞き方をされると、回答に困りますが⋯⋯」
なぜかアキトは徐々に上体を倒して距離を詰めてくる。
なんだかいつもと雰囲気が違うような⋯⋯
さすがに居心地が悪くなってきたので、私は立ち上がった。
「でもここには来てくれるんだ?」
そうだ。アキトのおかげで自分に出来ることを精一杯やれたって、些細なことかもしれないけど患者さんは喜んでくれたってお礼を言わないと。
「あの⋯⋯実はお礼を言いたいことがあって⋯⋯」
「本当にそれだけ?」
私が話し出そうとすると、アキトは立ち上がった。
そして裏口のドアの方へと追い詰められ⋯⋯
――ドン
アキトは私の顔の横に手をついた。
「もっと俺に興味を持って欲しいんだが」
アキトは自信あり気な表情でこちらを見下ろしている。
「⋯⋯それってどういう意味でしょうか?」
「言わないとわからないか? この状況では伝わらないか?」
アキトは私の反応を伺っている。
「⋯⋯そういう意味だとしたら、ちょっと困ります」
そのあまりにも真っ直ぐな視線から逃れたくて、うつむくようにして目を逸らした。
「どうして?」
「どうしてって⋯⋯一回り近く違いますよね」
「一回り違うと対象外?」
「⋯⋯⋯⋯」
なんだかすごく強引に距離を詰められているような気がする。
断りたいけど、とっさに角が立たない返答が思いつかない。
「とにかく一度だけ食事に行かないか? それで潔く諦めるから」
正直、その気は全くない。
それに先程からなんとなく波長が合わないのも気になった。
でも、自分の立場を考えると、この人とトラブルを起こすわけには行かなかった。
「まぁ、それくらいなら⋯⋯」
私は流されてしまったのだろうか。
仕事が終わり家に帰ってきた。
お風呂上がり、布団にうつ伏せになりながら今日一日を振り返ろうとする。
――コツンコツン
シロちゃんが窓ガラスを叩いている。
私が窓を開けるとシロちゃんは私の手のひらの上に乗り、ぺんぺん草をくれた。
「ありがとう。シロちゃん」
いつものように指で頭を撫でると、シロちゃんは気持ちよさそうにしている。
「実は今日は嬉しいことがあってね⋯⋯」
私はシロちゃんに今朝の嬉しかった出来事を話した。
鳥相手でも、もちろん患者さんの個人情報は伏せて。
シロちゃんは私がアキトに聞いて欲しかったことを、最後まで静かに聞いてくれた。
そのままシロちゃんと遊んでいると、スマホが震えた。
差出人はアキトで、内容は食事会の詳細についてだった。
「はぁ⋯⋯」
私がため息をつくと、シロちゃんは私の腕に身体を擦り寄せて来る。
「私の職場にちょっと強引な人がいてね。たぶん高校生くらいの時は、ああいう強引な人に憧れてたと思うんだよね。一回りくらい離れてて、知的で、眼鏡が似合って、自信家で⋯⋯何かの漫画に出てきたんだったかな⋯⋯」
私が首をかしげると、真似をしているのかシロちゃんも首をかしげた。
「あははっ! シロちゃんにも昔、話したでしょ? 覚えてない?」
シロちゃんは今度は反対向きに首をかしげた。
「えぇっ! 私の言葉がわかってるの? お利口さんだね!」
シロちゃんはその後も私の言葉に反応して、左右交互に首をかしげていた。
数日後、とうとうアキトと食事に行く日がやってきてしまった。
いいお店に行くから、おめかしするようにと言われたので、頭を悩ませながらも準備をした。
友だちの結婚式で着たネイビーのドレスに、お母さんが成人のお祝いにプレゼントしてくれた真珠のネックレスとイヤリングをつけることにした。
待ち合わせ場所は私の最寄りの駅だった。
約束の時間より少し早めにその場所に立っていると、目の前に高級そうな車が止まった。
「可愛いからすぐに分かった。さぁ、乗って」
アキトはドアを開けて私を助手席に乗せた。
「俺のためにお洒落してくれたんだ。ありがとう」
アキトは運転をしながら、柔らかい笑みを浮かべている。
「いえ。いいお店に行くと言われたので、きちんとしようと思っただけです」
私は即座に否定した。
「サクラちゃんはつれないな」
さり気なく下の名前で呼ばれた。
こういうタイプの人は遊び慣れているんだろう。
弟のミズキも相当遊んでいるようだけど、こんなことをどこかのお嬢さんにしているんだろうか⋯⋯
けど、ミズキは去るものは追わないタイプだよね。
そう思うとこの人はよっぽど自分に自信があるのかなんなのか⋯⋯
気がつけば私は自分なりにこの状況を楽しもうとしていた。
そうだ。今まで関わったことがないタイプなんだから観察して勉強しよう。
看護学校でも、色々な人と接して多種多様な価値観を学んだほうがいいと講義で教えてもらったんだから。
人間観察に切り替えると決め込んだにも関わらず、アキトは一言も話さなくなった。
「着いたよ」
アキトに案内されたのは、高級ホテルのレストランだった。
窓からはきれいなビルの夜景が見える。
「とっておきの場所なんだ」
アキトは微笑んだ。
お料理はどれも美味しかった。
けど、慣れない雰囲気に緊張してゆっくり味わうことは出来なかった。
アキトは私が食事をしている所を満足そうに見ている。
料理人のお母さんに育ててもらったんだ。
テーブルマナーも出来ていると信じたい。
「楽しんでもらえたかな?」
アキトは自信ありげに聞いてきた。
「はい。ありがとうございます」
私は素直に答えた。
帰りの車の中、アキトは寄りたい場所があると言った。
しばらく街中を走った後、小高い丘に車が泊まった。
車から降りると、そこには先ほどとは違った雰囲気の街の夜景が広がっていた。
「俺とのこと、真剣に考えてほしい」
アキトは箱を取り出し、蓋を開けたあと、こちらに差し出した。
中身は高価そうなネックレスだった。
「そんな⋯⋯受け取れないです」
失礼だとは思ったけど、私は箱を手で押し返した。
私はこの人のことをそういう目では見れない。
これを受け取ってしまってはいけない。
たぶん目の前のこの人は、見る人が見たら王子様みたいなんだろう。
女の子の夢を叶えるのが得意で、幸せにしてくれるのかもしれない。
私だって、学生の時は高級車で迎えに来てもらったり、ホテルのディナーにエスコートされたり、夜景がきれいに見える場所でネックレスをプレゼントされながら告白されたりするのに憧れていた。
この状況はまさにドンピシャだ。
でもそれはただ憧れていただけで、シチュエーション以上に相手が誰かということが大事で⋯⋯
「そうか⋯⋯」
アキトの声は消え入りそうだった。
今まで見たことがないくらい落ち込んでいるようだったけど、私にはかける言葉が見つからない。
アキトが帰りも最寄り駅まで送ってくれると言うので再び車に乗った。
あんなやり取りの後だ。気まずさから緊張状態を保っていた。
それなのに、私は気がついたら深い眠りに落ちていた。
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