第37話 鍵
昨晩、サルビアとじっくり話をしたからだろうか。
久しぶりに夢にサルビアが出てきた。
「わたし、サルビアのお嫁さんになる! わたしの全てをサルビアにあげるから! サルビアもわたしにくれる?」
「いったいどこでそんな言葉を覚えて来られたのでしょうか⋯⋯男に、悪魔に、そう簡単に全てを差し出してはなりません⋯⋯それに悪魔の全ては重すぎますので、まだ幼いサクラ様にはお渡し出来ませんね⋯⋯」
「おいおい、待て待て。サクラが⋯⋯サルビアを⋯⋯」
「レン! しっかりして! 気を失わないで!」
その日の朝、私はお父さんとお母さんにしばらくの間は回復の力は使わないと伝えた。
あくまでも、"しばらくの間"だ。
それでもお父さんとお母さんは、ひとまずはホッとしたような表情をしていた。
その後、いつも通り出勤した私は、ナガオカさんの検温に行こうとしていた。
――コンコン
ノックをしてから病室の入口の引き戸を開ける。
ドアの内側に引かれているカーテンに手をかけた時、話し声が聞こえてきた。
「お父さん良かったやん。先生、奇跡やって言うてはったで」
ナガオカさんの娘さんが面会に来られているのだろうか?
私の声に気がつかなかったようで、話を続けている。
「確かに息は楽になった。それでも結局のところ、身体は自由に動かんままや。やっと母さんのところに行けると思うとったのに。早く母さんの所に行きたい。また、わしだけ生き延びてしもうた⋯⋯」
ナガオカさんは泣いていた。
「そんなこと言わんといて、お父さん⋯⋯」
ナガオカさんの言葉を聞いた娘さんも泣き出してしまった。
カルテに書いてあった。
ナガオカさんは奥さんと事故で死別していると。
その時の事故の影響で、ナガオカさんの右半身には今も麻痺が残っていると。
私はナガオカさんが回復することを望んでいると勝手に思い込んでいた。
苦しそうにしている姿を見て、助けてあげたいと思った。
そうか。私がナガオカさんを回復させたのは、人助けなんかじゃなくて私の自己満足だったんだ。
私の回復の力では、今回の入院の原因になった肺炎は治せたけど、障害までは治せなかった。
私の力はそこまで完全なものではなかった。
全盛期のストロファンツスなら治せたのかな。
その妹のベラドンナなら治せたのかな。
それでもきっと、心の傷までは治せない。
私は神にでもなったつもりだったのかもしれない。
また後で来よう。
私はナガオカさん親子と向き合うのが怖くなり、先に他の患者さんの検温に行ってから戻ることにした。
休憩時間。一人きりで考え事をするために、今は倉庫代わりに使われている旧病棟に来た。
屋外から旧病棟の裏口へと続く段差に座り、鬱蒼と生い茂る雑草が風に揺れているのを眺めた。
「はぁ⋯⋯何やってんだろ」
ここは病院だ。
治療を目的にここに来られた患者さんに対しては、基本的に可能性がある限りは命を救うために全力を尽くすのが当たり前だ。
しかし、患者さんには自分で治療や検査を選択する権利があるし、望まない医療を拒否する権利もある。
ナガオカさんが本当に助かりたくなかったのか、あの場では娘さん相手だから弱音を吐いたのか、私には分からない。
どうしたら良かったんだろう⋯⋯
「すごいため息をついているな。悩み事か? 先輩ナースにいじめられたのか?」
声の方を振り返ると、三十代半ば位の男性が立っていた。
白衣を着て、眼鏡をかけている。
黒い髪をセンター分けにしているが、軽くパーマがかかっているのか、どこか垢抜けている印象だ。
彼は、アカマツ アキト⋯⋯この病院の跡取り息子だ。
「若先生⋯⋯お疲れ様です」
私は立ち上がり挨拶をした。
「その呼ばれ方は好きじゃないんだ。名前の方で呼んでくれないだろうか?」
「すみません⋯⋯アキト先生」
「そうだ、その方がまだ堅苦しくなくていい」
アキトはさっき私が座っていた段差に腰かけて、自分の隣に座るのを促すように、手で段差をポンポンと叩いた。
私は促されるまま、そこに座った。
「せっかくの美人が台無しだぞ? 皆のアイドル、モリミヤちゃん?」
アキトはいたずらっ子みたいな表情をしながら、顔を覗き込んでくる。
「やめてくださいよ。患者さんたちが勝手に言ってるだけですから」
「スタッフの間でも噂なんだが⋯⋯まぁこれでお互い様ってことで」
アキトは私の目をじっと見つめてくる。
先ほどの質問の答えを待っているようだ。
私はアキトから目を逸らして、再び雑草を見ながら答えた。
「いじめられたとかそんなことはないです。勝手に一人で失敗して反省していただけですから」
「失敗って⋯⋯どんな?」
「いえ、あの、医療ミスやインシデントではありません。患者さんの気持ちを上手く汲み取れなかったというか⋯⋯」
「ほーん」
アキトは顎に手を当てながら考え事をしているようだ。
跡取り息子にとって、この病院の看護師のミスの内容は気になるところだろう。
事の経緯は正直に言えないからぼかしたけど⋯⋯
叱られるだろうか。
けどそれは余計な心配だった。
「医療者が患者さんの気持ちを汲めないと失敗になるんだろうか?」
アキトは問いかけてきた。
「それは⋯⋯看護師は身体、精神、社会的側面から患者さんの欲求を理解して援助するのが役割ですから。相手の立場になって考えろとずっと教えられてきましたから」
私は学生時代から叩き込まれてきたことをそのまま答えた。
「まぁ、確かにベテランナースの中には、相手の気持ちに敏感に気がつき、痒いところに手が届くような人も存在する。けれどもそれが出来ないことが失敗とまで言われてしまうと、俺なんかは毎日失敗しているだろうな」
「⋯⋯先生も患者さんの気持ちを汲めないことがありますか?」
「汲めていることの方が少ないだろう。それは君たちが一番よく知っているはずだ。医者と上手くコミュニケーションを取れなかった患者さんのフォローを君たちがしてくれているんだから。後でカルテを見て驚くことも多い。こんなにも患者さんとすれ違っていたんだってね」
確かにそうだ。
人の気持ちなんて分からないことの方が多い。
分からないことの方が多いけど、それでも考え続けるのが私たちのはずだ。
ましてや、意識のない患者さんの気持ちを正確に理解するなんて、家族だって容易なことではない。
私が反省するべき所はもっと違うところにある。
ナガオカさんに限ったことじゃない。
自分で意思表示ができない患者さんに対して私の判断で力を使うことは、患者さんの権利、尊厳を侵す行為⋯⋯
「なんだ? 余計に落ち込んだのか? 励ましたつもりだったんだが」
アキトは心配そうにこちらを見ている。
「いえ、すみません。大事なことに気づかせてもらえたので、もう一度反省しています⋯⋯」
「ふーん」
アキトはそれ以上は何も言わなかった。
「先生は、もし医学が進歩して全ての病気の患者さんを助けられるようになるとしたら、どう思いますか?」
私は自分の疑問をこの人にぶつけることにした。
この人なら何かしらのヒントをくれるんじゃないかと直感したから。
「それはすごいことだ。誰も死ななくなる。医者としては理想の世界かもしれない。でも、言い換えれば⋯⋯死ねなくなる。そのことを喜ぶ人もいるだろう。けれども、終わりの来ない人生にどれだけの人が今ほどの価値を見いだせるんだろうね。少なくとも俺は逆に恐ろしいかもしれない」
アキトは自分の考えを教えてくれた。
「あとは、肉体の限界がなくなったとしても、魂はどうなんだろう⋯⋯とか」
魂の限界か⋯⋯
「魂はたぶん何百年でも保つんじゃないですか? 生まれ変わりとかいう概念があるくらいですから」
私の身近には何百年も転生を繰り返している人がいる。お父さんだ。
「ふーん。まるで知っているような口ぶりだな」
アキトは再び私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「知らないですけど。そういう映画も流行ってるから言ってみただけです」
私は誤魔化すようにアキトから目を逸らした。
それから私は、時々休憩時間に旧病棟に通うようになった。
アキトも元々そうだったのだろうか、時々そこに来ていた。
アキトは私のことを気に入ったと言って、個人的な連絡先を渡してきた。
私は、アキトと話すと自分の考えが整理されるからか、もっと彼と話したいと思った。
けど同時に、自分の未熟さに気づかされることが苦しくもあった。
プライベートな時間までアキトと会う勇気が持てなかった私は、いつまでも連絡せずにいた。
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