第32話 番外編② 春の朝日


 春、あっという間にもう年度末だ。

 エリカは四月から調理師専門学校への入学が決まっている。

 これから一年間で調理師免許を取得し、この期間に就職先も探すという。


 俺にとっても大学二年生の一年間が終わろうとしている。

 そろそろ進路について、ある程度方向性を決めなければならない。



 エリカと俺の力が覚醒し、エリカが悪魔像から解放されてから一年が経過した。

 俺たちは、普通の女の子として暮らすことに憧れていたエリカの行きたい場所に、順番に出かけてきた。

 エリカは忙しくなる前に、もう一つ夢を叶えてほしいと言った。




 俺たちはバスに揺られ温泉宿に来た。

 ここの宿は海が近く、遮蔽物も無いことから、露天風呂から朝日がきれいに見えることで有名だ。


 エリカは昔から旅行に行くのが夢だったそうだ。

 行き先の候補は複数あった。

 身の安全を考えて、あまり遠出は出来なかったが、エリカの入学祝いを兼ねているので、旅館や料理のランクは少し奮発することにした。

 俺はこの二人での初旅行をずっと楽しみにしていた。


 カップルで温泉旅行と言うと、熱い夜を想像してしまいがちだが、今回の旅行の目玉は朝日を温泉の中で見ることだ。

 早起きをしないといけないし、そういったことは控えるべきだろう。

 しかし、こんな余裕ぶっていられたのも、最初の内だけだった。



「すごーい! 海があんなに遠くまで続いてるのが見える! あ! ヨットに乗ってる人がいる! あの人は釣りをしてるみたい!」


 エリカは早速はしゃいでいる。


 チェックインをして案内された部屋からは海がよく見えた。

 女将さんから夕食の時間、大浴場の利用時間、貸し切り露天風呂の予約方法を説明してもらった。

 

 貸し切り露天風呂の予約をした後は、早速男女分かれて大浴場に行くことにした。



 大浴場にある露天風呂からも海がよく見えた。

 温泉に入るのは、俺もずいぶんと久しぶりだ。

 いつもより熱いお湯、広々とした浴槽に浸かりゆっくりと疲れを癒やした。


 自分たちの街とは違う、港町の風景を見下ろしながら、ふと考える。

 エリカは自分の夢を見つけることができた。

 これから目標に向かって突き進もうとしている。

 じゃあ俺は⋯⋯

 将来やりたいことは何だろうか?


 色々な職業を思い浮かべるが、必ず同時に思い浮かぶのはいつだってエリカのことだ。

 ずっとエリカの側にいたい。

 エリカと出会い、共に暮すあの街で、これからもずっと暮らしたい。

 エリカと幸せな家庭を築いて、この手で守りたい。

 それを叶えるためには、どうすればいいだろうか⋯⋯



 大浴場を出た後は、エリカはそのままエステのコースを受けに行くと言ったので、俺は部屋に戻り、畳の上でゴロゴロしていた。

 しばらく寛いでいると、エリカが帰ってきた。


「ただいまー! すっごく良かった! どう? 変わったの分かる?」

 

 満足そうに微笑むエリカの肌は、潤いツヤが出たように見える。

 

「あぁ、肌が光ってる。それに白くなったんじゃないか?」


 エリカに近づきながら答える。

 それになんだかいつもと違ういい匂いもした。



 その後は館内のお土産屋さんに行った。


 俺は早速、友人やバイト関係、エリカのお祖父さんやサフランたちへのお土産を選ぶことにした。


「このクリーム良さそう!」


 エリカは温泉の成分が入っているという、保湿クリームに興味を持ったようだ。

 

「ちょっと試してみよっと」


 エリカは保湿クリームの試供品のチューブを手に取り、クリームを指に出す。

 しばらく動きが止まったかと思ったら、なぜか俺の手の甲にクリームを塗り始めた。


「⋯⋯っ、自分で試さないと意味がないんじゃないか?」


 いきなり何なんだ?

 突然の出来事に戸惑い、言葉に詰まる。


「だって、私はエステでもう潤ってるから、塗っても分からないじゃないの」


 確かにエリカの発言には筋が通っている。

 しかしこちらはエリカの手つきに心臓がバクバクして、変な気分になってくるわけで⋯⋯

 

「良さそうね。これにする」


 エリカは俺の両手を手にとり、効果を見比べた後、保湿クリームを買うことにしたらしい。

 どうやら狙ってやっているわけじゃなさそうだ。


「あとは、お祖父ちゃんとサフランとサルビアと⋯⋯あと、カフェのみんなと⋯⋯」

 

 エリカは、どぎまぎしている俺をほったらかしにして、お世話になっている人へのお土産を選んでいた。




 そうこうしている内に、貸し切り露天風呂の時間がやってきた。

 そして、俺の頭の中では大問題が発生していた。


 貸し切りということは、他のお客さんがいないということだ。

 露天風呂ということは、お湯に浸かるということだ。

 その二つが両立するということは、二人きりでお湯に浸かるということだ⋯⋯


 いやいや、待て待て。

 それはさすがに駄目だろう。

 いくら恋人同士だからって、風呂に一緒に入るのは、まったく別の話だ。


 どうやら俺は、貸し切りと露天風呂の二つの単語を別々に脳内で処理していたらしい。

 その事実に気がついた時、俺たちはすでに脱衣所の中だった。



「俺はここで座ってるから、先にゆっくり入るといい。な?」


 その辺にあった椅子を適当に部屋の隅に動かし、壁を向いて座る。


「え、一緒に入るんじゃないの?」


 エリカの反応は予想外だった。

 おいおい。

 そこは、エリカが真っ先に赤面するのが定番のはずだ。

 顔は見えないから分からないが、勘違いでなければ残念そうに聞こえた。

 どうやら焦っているのは俺だけらしい。

 これが温泉の魔法なのだろうか⋯⋯


「じゃあ、浸かったら呼ぶから。それでいいでしょ?」


 エリカはそう言い残し、ガラガラと引き戸を開け、露天風呂に行ってしまったようだ。


 本当は心臓がもたないから勘弁してほしい。

 でもせっかくの温泉旅行なんだ。エリカが一緒に入ると言っているのに、断るのは違う。

 それに、男として、年上として余裕がない姿を彼女に見せるのは考えものだ。 

 自分に言い聞かせている内に、エリカに呼ばれたので、覚悟を決めて中に入った。



 軽く身体を流してから温泉に浸かる。

 お湯は熱いが、肌に触れる空気がまだ少し冷たいからか、丁度良いように感じた。

 しっかりとエリカから距離を取り、浴槽の端へ移動する。


 浴槽の縁に腕を乗せ、外の景色に目を向けると、夜空と真っ暗な海が広がっている中に、港町の明かりが優しく灯っていた。


 

「こんな景色は初めて見た。エリカと一緒に見られてよかった」


「うん。展望台の夜景も綺麗だったけど、こういうのも素敵ね。連れて来てくれてありがとう」


「学校、楽しみだな。でも、忙しくなっても無理しないようにな。エリカは頑張り屋さんだから、俺は少し心配なんだ」


「そうね。無理しないようにする。学校なんて久しぶりだし、正直不安もあるけど、楽しみの方が大きいから」


「ならよかった」


「そういえば、レンは将来の仕事を決めたの?」


「あぁ、まだ決めたわけじゃないが、市役所の公務員試験を受けようかと思っている。そこが駄目でも基本的には近隣の企業を当たりたいと思う。理由は⋯⋯」


 俺はさっき一人で考えていたことをエリカに話した。


「そう。私ってすごく愛されてるのね」

 

「あぁ、そうだぞ」


 俺はずっと外の景色を見ながら、平静を装ってここまで会話をしていた。



「ねぇ、レン。愛してるなら、どうしてこっちを見てくれないの?」


 エリカが少し動いたのか、お湯に波が立ち、それがこちらまで伝わってくる。

 せっかく意識の端に追いやっていたエリカの存在を思い出さざるを得ない状況になる。


「それとこれとは別問題だ。悪いが、ちょっと勘弁してくれないか」


 本当は心臓が破壊される寸前だ。

 年上の男の余裕なんかもうどうでもいい。

 だって、一つしか変わらないじゃないか。

 それよりも下手したらこのまま倒れるかもしれない。

 俺は必死だった。



「はぁ⋯⋯何だか切ないわね。⋯⋯っ⋯⋯っ」


 ⋯⋯え?

 エリカが泣き出した。

 ひどく傷ついたような声だった。

 まずい。俺はさっきからずっとエリカの気持ちをないがしろにして、自分のことばかり考えて⋯⋯

 傷つけてとうとう泣かせてしまったようだ。



「エリカ⋯⋯すまない。そんなつもりじゃ⋯⋯」


 急いで振り向き、謝ろうとすると、目があった。

 エリカは泣いてなどいなかった。


「ふっ。だまされた⋯⋯」


 エリカは小悪魔の時の顔でこちらを見ていた。


「なっ⋯⋯」


 どこかで聞いたことのあるセリフ。

 よっぽど根に持たれていたのだろう。

 数百年前の自分がエリカにした悪戯を、今度はエリカに仕返しされる羽目になったのだった。




 倒れることなく風呂から上がり、部屋に帰ってこれた。

 それから間もなく、料理が運ばれて来た。

 お造りや肉料理、カニ鍋に、デザートまで⋯⋯

 大きなテーブルに乗りきらないほどの豪華な料理の数々に舌鼓を打った。

 エリカはお造りなどの写真を色々な角度から撮って、嬉しそうに研究していた。



 夜、布団の上で今日の写真を見ながら寛いでいた。

 その流れでこの一年間の写真も振り返っていた。


「レン、色々な所に連れて行ってくれてありがとう」


「あぁ。でもまだまだ行きたい所はあるだろ? 俺だって行ってみたい所がある。これからもたくさん思い出を作って行こうな」


 手を繋ぎながら話をしていると、ふと時計が目に入った。


「もうこんな時間だ。明日は日の出前に温泉に入らないといけない。もう寝ないとな」


 俺はスマホを充電し、枕元に水を用意して寝る準備を始めた。



「⋯⋯⋯⋯本当にそれでいいの?」


 その声に振り向くと、エリカは少しむくれた顔をしている。


 本当にそれでいいわけが無いだろう。

 だがいつも疲れて眠ってしてしまうエリカは、朝日を見れずにがっかりするんじゃないか?

 

「今からだと疲れるだろ?」


 一応、一度は断るのがマナーだ。

 いや、それは何のマナーだったか。

 これは、財布を出す出さないの話ではないはずだ。


「⋯⋯⋯⋯じゃあ、今日は私に任せて」


 エリカの表情が初めて見るような人懐っこい笑顔に変わったかと思ったら、勢いよく俺の身体にのしかかってきた。


 おいおいおいおい。

 だから、どこでそういうのを仕入れてくるんだ?


 浴衣を着ているエリカは無防備で、薄い布越しの体温がいつもよりダイレクトに伝わって来て⋯⋯

 とにかく心臓に悪い。

 もう本当に勘弁して欲しい。


 俺が変態悪魔なら、エリカは無邪気な天使なんだろうか。

 この日は微笑みあいながら、じゃれあうように愛を深めた。




 早朝、まだ真っ暗な中、スマホのアラームで目覚めた俺たちは、それぞれ支度をし、男女別の大浴場へ向かった。


 露天風呂から眺める朝日は絶景だった。

 真っ暗だった空に、太陽が昇り始めると徐々に辺りが明るくなる。

 海に陽の光が反射し、キラキラと輝く。

 まるで目の前に広がる海に自分も浸かっているような、不思議な感覚になった。


 エリカも今頃この壁の向こうで、同じ景色を見ているんだろう。

 エリカは何を感じただろうか。

 後で感想を聞くのが楽しみだ。

 

 俺たちは、まだまだ見たことがない景色がたくさんある。

 国内だって、海外だって。

 それにこの朝日も季節が変われば、違って感じられるかもしれない。


 これからも二人の思い出をたくさん増やしていきたい。

 エリカの瞳をずっと輝かせていたい⋯⋯そう思った。

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