第22話 夢の中
「ファンツス様⋯⋯これは問題です⋯⋯」
サルビアは深刻そうな表情で言った。
そう。これは大問題だ。
サルビアの手元には体温計。
示された値は⋯⋯38.9℃
この体温の主は⋯⋯そう、エリカである。
この日、エリカは朝から体調が悪そうにしていた。
それでも無理をして、こっそり家事をしようとしていた所をサルビアが発見し、俺に報告があり少し強引に横にならせて現在に至る。
「大げさね。大丈夫だから」
ベッドに横になったエリカは口ではそう言うものの、顔は赤く、目は潤んで、呼吸はいつもより速い。
「何を言ってるんだ。朝からこんなに体温が高いんだぞ? これから上がって来るかもしれない」
熱が午後から高くなるのはよくあることだ。
油断できない。
「それに、悪かったな。あの日、俺が夜遅くまで連れ出したから」
俺とエリカが恋人になったあの日、寒くなり始めた時期にも関わらず、俺たちは夜遅くまで公園にいた。
あれから日が経っているから関係ないとエリカは言うが、俺は責任を感じていた。
「だから〜関係ないって! もう。少し寝るから出てって」
「あぁ、悪い。そうだよな。ゆっくり休んでくれ。もう出ていく。最後に、今から買い物に行こうと思うが、何か欲しいものはあるか?」
今、この家には救急箱にある風邪薬と少量のスポーツドリンク、アイス枕くらいしかない。
「んー。ごめん。適当に病人ぽいものをお願い」
エリカはそのまま目を閉じた。
「分かった」
俺とサルビアはエリカの部屋を出た。
「ファンツス様⋯⋯お嬢様のことは私が責任を持って見守りいたしますので、恐れ入りますが買い出しの方はよろしくお願い致します⋯⋯」
サルビアが胸に手を当てながら頭を下げる。
「あぁ、もちろんだ。すまないがエリカを頼んだ」
そして俺は近所のスーパーにやってきた。
買い物カゴを持って売り場を歩く。
炭水化物はお粥かうどんが定番だろう。
米は家にあるが⋯⋯一応レトルトも買っとくか。
俺は、レトルトのお粥とゆでうどんの袋とアルミ鍋のうどんをカゴに入れた。
次にタンパク質だ。
お粥やうどんに卵を入れるか。
あと、普通の豆腐と卵豆腐もあるといいな。
ささみやツナの缶詰も使えるだろうか?
取りあえず思いついたものをカゴに入れる。
最後にビタミンだ。
野菜ジュースと果物の缶詰とゼリーと⋯⋯
ひとまずこんなものだろうか。
後、スポーツドリンクも追加で必要かもしれない。
さすがにカゴが重くなってきたので粉末タイプのものを買うことした。
それにアイスも定番だろう。
これもカゴに入れた。
気がつけばカゴはパンパンになっていた。
まぁ、日持ちするものが多いし、今回エリカが食べなければまたの機会に使えるだろう。
こうして買い物は無事に完了し、会計済みの商品をリュックに詰めて背負って帰った。
意外と買い物に時間がかかってしまった。
重い荷物を背負い、急いで家に帰った。
「ただいまー」
エリカが寝ているだろうから小声で言う。
「お帰りなさいませ。ファンツス様⋯⋯」
サルビアが出迎えてくれて、荷物を一緒に持ってくれた。
「エリカの様子はどうだ?」
「はい。今の所はよく眠っておられます⋯⋯」
「なら良かった」
俺たちは買ってきたものを冷蔵庫や棚に片付けた。
お昼時、一旦エリカの様子を見に行った。
⋯⋯⋯⋯よく眠っている。
エリカが覚醒した日の晩も、エリカはよく眠っていたな。
相変わらず、まつ毛が長いな。
柔らかくて白い肌は、今は熱で紅潮している。
ふっくらした唇は薄く開いている。
特に今は出来ることがなさそうなので、すぐに部屋を出た。
とは言え、何も出来ることがないのがかえって落ち着かない。
こんな時、俺はなんて無力なんだ。
そういえば、ベラドンナの方がエリカよりも強力な回復を使える。
ベラドンナを呼んだらいいんじゃないか?
俺の時みたいに協力してもらえるなら、これ以上心強いことはない。
でも、ベラドンナだって夫の同盟のことで大変な状況だろう。
一瞬頭に浮かんだこの案はすぐに不採用になった。
落ち着かないからお粥でも作ってみるか。
エリカが食べれなければ俺が食べればいい。
スマホで検索して、レシピを見つけた俺は、片手鍋を取り出し、作業を開始した。
お粥はそれなりに形になったと思う。
ただ、結局エリカはそれを食べられる体調ではなかった。
案の定、夜になって熱が上がってきた。
39.8℃⋯⋯
先程、寒気がすると言うので1枚毛布を追加したが、治まったのか今度は汗をかき出した。
おそらくこの辺りが熱のピークなんじゃないか?
アイス枕を交換し、もうずいぶんと水分が飛んだおでこの冷却シートを新しいものに貼り替える。
「はぁ⋯⋯」
エリカは気持ちよさそうにしている。
「エリカ、もう次の熱冷ましを飲んでいい時間だ。飲めそうか?」
エリカは俺の言葉に反応し、ゆっくりこちらに顔を向けた。
「うん。飲みたい」
「何か軽く胃に入れてからの方がいい。何か食べられそうか?」
「んー卵豆腐⋯⋯ある?」
「ある。持ってくるから少し待っててくれ」
卵豆腐を買っておいて正解だった。
台所に戻り、皿に卵豆腐を開ける。
タレは⋯⋯エリカに聞いてからでいいか。
「エリカ、食べられるか?」
エリカはゆっくりと身体を起こす、俺は肩を支えた。
「はぁ⋯⋯きつ⋯⋯」
エリカは右手で頭を押さえた。
「大丈夫か? 薬が効いたら頭痛も楽になるといいな」
そう言って俺はエリカに卵豆腐を食べさせた。
エリカの好みはタレなしで正解だったようだ。
「レン、ありがとう」
無事に薬を飲めたエリカは横になりながら言った。
「あぁ、気にするな。早く良くなるといいな」
俺は片付けをして部屋を出ようとする。
するとエリカは小さい声で言った。
「レン⋯⋯大好き」
おいおい、待て待て。
どんなご褒美だ?
抱きしめてもいいのだろうか⋯⋯
いや、エリカは今すごく体調が悪いんだ。
それにそんなに接近して次に俺が感染したら、エリカは責任を感じてしまう。
頭の中で天使と悪魔が会議した結果、"俺も"とだけ返事をして部屋を出ることにした。
あれから、一週間が経った。
三日程度の療養でエリカの熱は完全に下がった。
無理をしなければ、まずぶり返す心配もないだろう。
俺は授業を受けるために講義室にいた。
そして、やけに軽いカバンの中を見て絶望する。
⋯⋯⋯⋯タブレットPCがない。
どこに忘れてきたんだ?
昨日講義で使った後、置いて帰ったのか?
いや、家で開いた記憶がある。
ここに来るまでに開けてないから、家にはあるはずだ。
なくしたわけではないだろう。
俺は浮かれているのだろうか。
エリカと付き合えたことは、まるで夢のような出来事だ。
タブレットも夢の中に置いてきてしまったみたいだ⋯⋯
しかし困ったことになった。
講義に必要な資料なんかは全てタブレットに取り込んである。
講義のノートも全てノートアプリの中だ。
今日一日をどうやり過ごすか⋯⋯
一部の資料だけならバックアップがあるからスマホでも見れる。
不便だがノートは紙の物を買えばいいか。
そんな事を考えていたらスマホが震えた。
エリカから写真が送られてきたみたいだ。
メッセージを開封すると⋯⋯俺のタブレットだ!
"すごく大事な物じゃないの? 届けてあげる"
メッセージにはそう書いてあった。
神様、仏様、エリカ様だ!
"すまない。本当に助かる。門をくぐったら時計台がある。そこで待っててくれ。時間は⋯⋯"
俺はそう返信して、エリカと待ち合わせをした。
何とか最初の講義をやり過ごした俺は、エリカとの待ち合わせ場所に急いで移動した。
エリカは大学なんて初めて来たはずだ。
場所は分かっただろうか。
初めて来た場所で、不安になっていないだろうか。
そんな心配をしながら時計台にたどり着くと、エリカの後ろ姿を見つけた。
「かわいいねー? どこの学部? サークルは?」
エリカは知らない男二人に話しかけられている。
「ここの学生じゃないんです。彼氏と待ち合わせしてて」
エリカは表向きの笑顔で対応していた。
男たちはそれ以上何も言うことなく立ち去って行った。
"こうかは ばつぐんだ!"
モンスター育成ゲーム"パチモン"で言うところの、4倍弱点を突かれた気分だ。
そうだ、俺はエリカの彼氏なんだ。
エリカは俺のためにここまで来てくれたんだ。
その幸せをしっかりと噛みしめる。
俺が立ちつくしていると、エリカはこちらに気づいたようで笑顔で手を振ってくれた。
"一撃必殺!"を食らった気分だ。
「エリカ、わざわざ来てくれてありがとうな。本当に助かった」
エリカに近づき、お礼を言う。
「いいわよ、これくらい。レンにはこの前、看病してもらったし。それに、大学の中に入ってみたかったのよね」
エリカはタブレットを大事そうにバッグから取り出して渡してくれた。
「ねぇ、ここの学食は外部の人も入れるって本当?」
エリカの言うとおりだ。
この大学の学食は学生だけでなく、一般客の利用も可能だ。
「あぁ、せっかくだから食べて行くか? お礼もしたい」
幸い次の講義まで時間がある。
今からなら一緒に行けそうだ。
「いいの? やったー! 学食ってどんなところなのかしら」
エリカは嬉しそうに笑った。
「定食でいいんだな? 後はこの列に並びながらお盆に好きな皿を乗せて、最後に端っこでお会計だ」
エリカにお盆を渡してやり方を説明する。
「わかった」
エリカは珍しそうにキョロキョロしながら好きなおかずを選んでいた。
会計を済ませたところで、レジの近くの席がちょうど空いたので、その流れでそのまま席につく。
エリカはお盆に乗った食事の写真を撮った。
「いただきます! 美味しい! レン! 美味しい!」
エリカは嬉しそうにしている。
「味も美味しいし、この雰囲気もすごいわよね。こんなにたくさんの人がここで勉強してるのね」
お昼のピークから少しズレてはいるものの、学食にはたくさんの学生が来ていた。
エリカは目を輝かせながら辺りを見回している。
「レン、お前⋯⋯」
突然聞こえた声の方を振り返ると、お盆を持ったミナミが立っていた。
まずい。俺はミナミにエリカのことを何も報告していなかった。
「まさか、まさか、まさか⋯⋯」
早口言葉のようにミナミは唱える。
「あぁ⋯⋯⋯⋯彼女だ」
なんて照れくさい瞬間なんだ。
「うわぁぁ〜!」
ミナミは大げさに驚いた。
その後、ミナミは勢いよく俺の隣に座った。
そして、俺たちのことを根掘り葉掘り聞き出そうとしたり、エリカに俺のことをプレゼンしたりしてくれた。
恥ずかしすぎて逃げ出したくなったが、こうやって友達に認めてもらえるのも良いものだなと思ったのだった。
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