2章 17話

「内縁関係で結婚になって、諦めたのか婚姻届にサインをくれてね。嬉しいって舞い上がってた頃の自分の目を覚させてあげたいわ。――その男は、正真正銘のクズ男だ。娘の名前すら考えてくれないで、私の稼ぎを待つヒモになるからってね」


 それは、お母さんが言うようにクズ男だ。いくら俺でも、そこまでのダメ男ではない。

 精々が一緒にいるだけでネガティブな感情になるぐらい。……今はまだ、そこまで腐ってない。


「付き合ってたときは紳士でいい男だったし、境遇に同情するところもあったのよ。大地主で事業家の家に産まれてね。だけどお爺さんの代で事業が大失敗して、残った資産も全て売り払わなきゃでね。何不自由なく、お手伝いさんに全てをやってもらってた我が儘の世間知らず、常識知らず……。そんな男が突然、普通に社会で働けなんて言われてもねぇ」


 想像も付かない。だけど、自分の常識が突然崩れ去ったということだろう。

 持つ者が、突然に持たざる者へなる。

 最初から持たない者より、その苦しみは強いのかもしれない。


「人に謝ることもできないプライドの高さで、すぐ喧嘩とか問題を起こしてクビになってね……。唯一の取り柄だったルックスも、彩楓が産まれる頃には衰えてね。どんどん自分に自信がなくなったのか、やさぐれちゃったのよ。より怠惰で暴力的になっていったわ。……それでも改心して、いつか昔みたいな紳士に戻ってくれるとか信じちゃってた」


 このエピソードを聞いてると、やっぱり親子だなぁとか……。失礼ながら思ってしまう。


 もしかしたら彩楓さんも俺が改心……。いや、昔の俺のように無邪気で自信溢れてた幼稚園生時代に戻るのを信じてくれてるのか? 

 そうだとしたら応えたいけど……。俺は、どうすればあの頃に戻れる?


 競争社会で長く結果が振るわなかった結果、俺も随分と歪んでしまった。


「唯一、感謝してるのは……。あの人がいたから、彩楓が産まれたことね」


 お母さんは、しみじみと言葉を発した。

 そのゆっくりとした言葉からは、深い慈しみのようなものを感じる。


「あの子は、私の唯一無二の宝……。幸せになってほしい、大切な子なの。……凛空さん。彩楓と嘘で付き合うの、嫌なんでしょう?」


「…………」


「その顔、嫌というより……辛いって表情ね」


「……分かるんですね」


 それだけ、顔から滲み出てたんだろうか。全く自覚がなかった。


「経験よ、これも。自分の評価は、簡単には上げられないわ。叔母ちゃんだって、自己評価は凄く低いんだもの。余命に縋ってないで、いっそ今すぐ……。何て言うと、緩和ケアで精神の苦痛を和らげてくれる人たちに失礼よね」


「お母さんは……。優しくて、娘想いで、素敵な方です」


「ふふ……。そういうことよ。自己評価と他者評価は、一致するとは限らないの。それが時に凄く自分を苦しめる」


 分かるかもしれない。

 お母さんのことを、俺は素敵だと思ってる。人格者だと思ってる。だけど本人は、自己嫌悪で自己評価が低くなってるように感じる。


 俺にも、同じようなことが言えるんだろうか? 本当に、俺にもいいところがあるんだろうか。


「どうしても辛ければ――あの子を捨ててね。私は大丈夫だから、嘘は止めてもいいわ」


「え……。でも、約束が」


「叔母ちゃんのことは気にしないで。彩楓のことも大丈夫。……変な男に騙されるぐらいなら生涯一人で幸せを掴みなさいって、あの子には遺言を残していくから」


「…………」


―――――――――――

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