2章 8話

「いや……俺こそ、美穂を見つけてくれてありがとう。急にお願いしたのに。それに……対応も」


 俺だけだったら、この場限りでも母さんや美穂を納得させられなかっただろう。

 正直に話して、せっかく家に帰ってくれそうな妹にも愛想を尽かされたかもしれない。


「ううん、頼られて嬉しかったよ」


「迷惑じゃなかったか?」


「え、迷惑? 好きな人に頼られたら、嬉しいに決まってるじゃん?」


 彼女みたいな人間が、俺を好きになる理由が見当たらない。


「次は私のお母さんに挨拶してね。……夏休みに入ったからさ、いよいよ在宅医療に切り替わるんだ」


「……分かった。俺にできる限り、全力で挨拶をする。それが俺みたいなのにできる、せめてもの恩返しだよな」


「そんなに気負わないでよ。普通に、ね? 凛空君なら、大丈夫だから!」


 直球すぎる好意の裏には、どんな思惑があるんだろうか――。



 夏休み一日目。

 今日は午前中に、彩楓さんのお母さんが退院して自宅へ戻るらしい。

 そんな事情もあり、落ち着いた午後から挨拶をする流れになった。

 何も退院初日でなく、少し休んでから挨拶するのでいいんじゃないかとは思ったけど……。お母さんは「残された時間が少ないから、早く紹介してほしい」と、強く主張したらしい。


「じゃあ美穂。俺は顔合わせに行ってくるから、留守番よろしくな?」


「うん。彩楓お姉ちゃんによろしくね」


 すっかり、お姉ちゃんと呼ぶのに抵抗がなくなってる。むしろ美穂は嬉しそうだ。

 嘘を吐いてる罪悪感と、彼女と俺では釣り合わない現実が……胸を締め付ける。

 美穂や母さんの望むとおり、俺が彼女に相応しい男なら……。いや、無いものねだりをしても、仕方がない。


 彩楓さんには、大切な妹や家族の関係を守ってもらった。

 彼女が何を企んでるかは知らないけど……俺も、彼女の家族関係を守るために全力を尽くそう。


 玄関の鏡で、制服のネクタイが曲がってないことを確かめる。

 親への挨拶なら、本来はスーツがベストとネットで調べたときには書いてあった。

 だけど学生の場合、正装は学生服らしい。

 少し熱いけど、お互いに制服で会うって約束だ。それぐらいは我慢しよう。

 汗を拭くハンカチも忘れてない。後は、嘘を貫く心構えだけだ。

 身形と気持ちを整えてから、絶対に嘘がバレないよう気を引き締め、家を出た――。


 マンションを出て、ナビアプリの案内で彼女から送られてきたアパートへ向かい歩く。

 そうして数十分。


「このアパート……。この部屋番号。まさか、俺が引越バイトをしたときの?」


 俺は送られてきた住所と、実際の建物を何度も見比べていた。

 間違いない。屋外階段の上り下りが辛いと言ってた――あの部屋だ。


 まさか……。彩楓さんの引越作業を俺が担当してたなんて。

 だとすれば、あのときに見た人の良さそうな叔母さんが……彩楓さんのお母さんか?

 秋を迎えられないと言われてたようには見えないぐらい、しっかりしてたけど……。

 あのときの対応に失礼はなかったかなと思い返しながら、緊張に震える手でインターホンを鳴らす。


「はーい! 凛空君、来てくれてありがとう! 狭くて汚い部屋だけど、上がって上がって!」


「お、お邪魔します」


 このアパートが、それ程広くないのは十分に知ってる。

 引越の荷物を運び込んだとき、本の入った段ボール箱を運ぶだけで、通路の壁に当たりそうだったんだから。

 玄関で靴を脱ぎ、置かれたスリッパに履き替える。


 第一声、何て挨拶をしよう。婚約者として疑われないように、お付き合いさせてもらってると挨拶を……。いや、それより退院祝いの言葉が先か?

 胸がバクバクしてきた。今更ながらに、嘘を吐くのが心苦しい……。いや、ここまで来て尻込みするわけにはいかない。


 俺たちは、この罪深い嘘を貫かなければならないんだ。


 少なくとも、お母さんが安らかに旅立つまで。終わりの決まってる期限付き、利用される関係だからこそ――俺は今の関係を許せる。


 そうでなければ、恥ずかしすぎて彼女の隣に立ってられない。逆に言えば、だ。

 この場では偽装婚約の嘘がバレることこそ、更に自分が嫌いになる。全力で、彼女の婚約者のふりをしなければ!


「お母さん、お待たせ! 婚約者の凛空君だよ!」


 先導してくれる彩楓さんがダイニングを抜け、勢いよく部屋への扉を開けた。



―――――――――――

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