第8話 ♡+100と見つめたeye
私が車から姿を消した、その夜。
マンションの自室にて目を覚ました城ケ崎先輩は、うっすらとした意識の中、自分の名前が誰かに呼ばれるのを感じる。
〝城ケ崎先輩――〟
「なんで、アンタが俺の部屋に……って、ここは?」
半ば自分の声で目を覚ました先輩は、意識が覚醒した瞬間に飛び起きた。辺りを見渡すと、自分の部屋。そんな自分の前にいるのは――
「おはようございます、響希様」
「なんで安井がいるの……?」
ここにいるはずのない人物。驚いた先輩は、目を瞬かせる。だけど、本当に驚くのはここから――
「凪緒様にかわって、しばらく私がこちらに住むことになりました」
「は? 凪緒に代わってって……じゃあ凪緒は?」
「出て行かれました」
「へぇ。出て…………、はぁ⁉」
いやに気怠い体にムチ打ちながら、上半身を起こす。そして「何があったか全て話して」と。事実無根の安井さんに詰め寄るのだった。
そして――――――
肝心の私は、どこへ行ったかというと。
ガチャ
「ただいま」
「おかえり~、凪緒。家に帰りたいだなんて、急にどうしたの?」
「え、あぁ……うん」
車から飛び出した直後、実家に連絡を入れ「しばらく帰りたい」と伝えた。お母さんは何も言わなかった。「響希さんとケンカしたの?」とかも一切なし。短い髪が良く似合う小顔に、おっとりしたタレ目。その瞳は、いつものように私を優しく見つめていた。
「お父さん、家にいる?」
「いつもの書斎にいるわよ、行ってみなさい。凪緒の顔を見たら喜ぶわ。顔には出ないけどね」
「うん、分かった」
カバンを使用人さんに預ける。そして広いリビングを出て行く時、飲み物を持ったトヨばあとすれ違った。
「あら、お嬢様。旦那様のところへ?」
「うん。後で飲むから、机に置いといてくれる?」
「かしこまりました」
「あと」
頭上にハテナを浮かべたトヨばあ。この無垢そうな顔に、私はしてやられたんだよねぇ……。
「もう怪しい香水はいらないからね? 変な物を買わないことッ」
「ほっほっほ。もしや追加で取りに来られたのかと思いましたよ」
あっけらかんと笑うトヨばあ。追加で、なんて……。そんな事あるわけないじゃん!
「心配しなくても、そんな雰囲気にすらならないから安心してよ」
「お嬢様……」
「じゃあね」と手を上げて、玄関をちょっと行った先にあるらせん階段を登る。そんな私の後ろ姿を、トヨばあとお母さんが並んで見ていた。
「どう思いますか、奥様」
「う~ん。私はてっきり〝婚約破棄のお願い〟に来たと思ったけど」
「ほっほっほ。なわけありますかい。見て見なされ、お嬢様の顔を。あれは、完璧に恋をされている顔です。むしろ私はてっきり、オメデタの報告かと思いましたよ」
「それは大問題だからね、トヨばあちゃん?」
お母さんの圧にも負けず「ほっほっほ」と飲み物を持ってリビングに入っていくトヨばあ。ため息をついた後。お母さんは再び、私が昇った階段を見た。そして「凪緒、がんばるのよ」と。密かに私を応援してくれるのだった。一方の私は、お父さんの書斎をノックする。
コンコン
「誰だ」
「凪緒です」
「……入れ」
重たい扉を開けて、中へと足を進める。広い窓の前に、大きなデスクがいくつか並んでいる。その真ん中で、静かにキーボードを打つお父さんの姿。年齢に合わせてなのか、それともオシャレなのか。髪がグレーに変わってる。オールバックだから、お母さんとは正反対なつり目が存在感を際立出せていた。
「久しぶり、お父さん。元気そうだね」
「何しに帰って来た。まさか家出か?」
「……」
黙った私に、お父さんは何も言わない。
うぅ、「根性ナシ」とか言われるかな……?
「……」
「……あれ?」
待てど暮らせど、お父さんは何も言わない。ばかりか、口を開く前触れすらなし。
「どうして私を責めないの?」
「お前の目を見れば分かる。未来を諦めたヤツは、そんなギラついた目をしていない。多少は図太くなったようだな、安心したぞ。で、目的は何だ」
「!」
お父さん、さすがだなぁ。たくさんの社員をまとめ、頂点にいるだけある。お父さんの人を見る目は確か。何一つ間違っていない。お父さんの目には、燃えるような私の野心が、ちゃんと写っているんだ。
「城ケ崎家、時山家、そして丸西家の会社の事を教えてほしい。あとは経営に関わる、全般的な事も」
「今まで頑なに〝やらない〟と言っていたのに、どういう心境の変化だ」
「……イヤになったの。何も知らない自分が」
時山先輩に、城ケ崎先輩を奪われて初めて知った。私は無知で、無力だって。
――城ケ崎家を不幸にする力が私にはあるって事、忘れないでね
時山先輩は学生の身でありながら、城ケ崎家を揺らすだけの権限を持っている。城ケ崎先輩だって、そうだ。
――時山家の買っている株に不穏な動きがあったと報告があり、早急に会議を開かせてもらったので
会社に不利益が行く前に、危険を察知して会議を開き、それを阻止した。権力や頭脳がないと出来ないことだ。
だけど、私は?
――社会のことも、会社のことも、生きる術すら分かってない一般人と婚約させられて。今まで頑張って来た城ケ崎くんが哀れよ
時山先輩の言う通りだ。
私は確かに無知で無力で、何も出来ない。
ただの、役立たずだ。
「もう……、嫌なんです」
何もできない自分が嫌だ。
今を変えられない自分が嫌だ。
好きな人を奪われ、指をくわえて眺めるだけの自分が嫌だ。
「私、変わりたい。誰かを幸せにする力がほしいの」
「お前が十六年間さぼってきた事だ」
「それは、本当に反省してる。ずっと後回しにしてきた私が悪い。だから、挽回させてほしいの。誰かの……ううん。大事な人の、役に立ちたい!」
「……」
お父さんは何も言わなかった。何も言わず、私を見つめていた。それは「本当に覚悟はあるのか?」と問われているようで――気づけば私は瞬きするのも忘れるほど、無言でお父さんを見つめ返していた。
「……前は俺と目すら合わせなかったのに。人は変わるもんだな」
「本気なの。だから、もう逃げません」
「……」
お父さんは私を見た後、カレンダーを見た。そして「時間は取れるな」と、小さく呟く。
「今までのツケ、十六年分だ。すぐにすぐ習得できると思うな。それ相応の時間が必要と思え。一週間――この期間で全ての事を吸収しろ。弱音は一切吐くな。いいな?」
「はいっ」
私の返事を聞いた瞬間、お父さんは立ち上がる。そして書斎の奥にある、小さなドアを開けた。
え、あれってドアだったんだ!
壁と同化してて分からなかったよ!
「つまり隠し部屋?」
「そんな大層なものではない。仕事で行き詰った時、私が頼りにしている〝資料室〟だ」
資料室――というのは間違いないみたい。小さな部屋に、一組の机と椅子。壁には一面に本棚が埋め込まれ、難しそうな本がギッシリ並んでいる。
「この資料室に入り、缶詰で勉強しろ。一週間の外出を禁止する。もちろん登校もダメだ、学校には連絡をいれておく」
「学校も!?」
一瞬ひるんだ私に、鋭い視線がささる。うぅ……、まさか学校まで禁止なんて。片手間に出来る勉強量じゃないって事だね。
「講師は俺だ。時間の許す限り付き合ってやる。さっきも言ったが、弱音を吐いた時点で終わりだ。凪緒の覚悟、見せてもらうぞ」
「――はいっ」
すると間髪入れず仕様人さんが呼ばれ、次々に教材が運ばれて来る。私がリビングで飲むはずだった紅茶は、トヨばあが持ってきてくれた。
「応援しております、お嬢様」
「うん。トヨばあ、ありがとう!」
ふぅー……。
椅子に座って、深呼吸。
シャーペンの芯を出して、いざ!
「待っててくださいね、先輩ッ」
先輩の隣にふさわしい私でいたい。だって、私は先輩の婚約者だから。誰のつけいる隙もないくらい、完璧な人間になってやるんだ!
と、意気込んだ日の夜。
「も、文字が頭の周りを回ってる~」
「お嬢様、しっかりなさいませ」
十六年間のツケというのは、本当に恐ろしいもので。会社の〝か〟の字も知らなかった私は、時山家、城ケ崎家、丸西家の御三家(ごさんけ)の事をさらっと習っただけで、もう頭がパンクしそうになっていた。二時間ミッチリ私に勉強を教えてくれたお父さんは「これから会社に行く」と。まるで朝のようにキビキビした動きで、資料室を後にした。
「夜の9時から会社に行くって……。お父さんって、実はサイボーグじゃないの?」
「ほほほ」
勉強は、ちょっと休憩。お腹が減っては何とやら……なので、資料室を出た書斎にて、トヨばあが持ってきてくれた晩ご飯を食べていた。
「私って、こんなに勉強出来なかったっけ? どうして真面目に取り組んでこなかったかなぁ〜」
「昔の事ですが、お嬢様は〝お父さん嫌い〟でしたからねぇ。それが理由で、会社からも距離を置かれるようになったのでは?」
「〝お父さん嫌い〟?私にそんな時期あったの?」
これといった反抗期の記憶が無い。お父さんを嫌った時期があったなんて、初耳。今も、これと言ってお父さんを嫌ってないし……。髪の毛切りなさい、とか細かい事を言われるのは嫌だったけどさ。
「だからって、嫌うほどじゃないよ?」
「ほほ、お忘れになってるだけですよ。お嬢様は、それはそれは可愛い時期があってですね――」
と、トヨばあが何かを言おうとした時。ピリリと、けたたましい音でタイマーが鳴る。癒しのご飯タイム終了のお知らせだ。
「うぅ……。どうして幸せな時間は短いの〜」
手を合わせて「ごちそうさまでした」と泣く私に、トヨばあが同じく手を合わせる。そして目を伏せながら、
「でも今の辛い時間を乗り越えたら、幸せがたくさん待ってるじゃないですか。精進くだされ、お嬢様」
「トヨばあ……」
うん、そうだよね。いま私が学んでることって、城ヶ崎先輩や時山先輩は、とっくの昔に習った事だろうし。遅れを取った私が悪いんだ。基礎を知らなくちゃ、会社の経営なんて出来るはずない。もちろん、先輩のサポートだって。
「先輩が困った時、少しでも力になれたらって……。そう思うの」
「まぁ、お嬢様」
口に手をあて、驚いたトヨばあ。かと思えば、メイド服から手鏡を出して私に向けた。
「恋をされてる顔ですな、ばあは嬉しいですよ」
「か、からかわないでよ、トヨばあぁ〜っ」
「ほほほ」
何枚も上手のトヨばあにおちょくられ、晩ご飯が終わる。そしてお父さんが不在の代わりに別の講師が来て、私の勉強は深夜まで続くのだった。
そして――一週間後。
「……」
「……っ」
カチコチ、と。時計の鳴る音が大きく聞こえる。だけど、それよりも大きく聞こえるのが、自分の心臓の音。ドクドクって、すごい速さで鳴り続けている。
キュッ、キュッ
赤いペンで添削される。お父さんの手が次の問題に移る度、両手を合わせて「正解してますように」と祈った。なぜ、こんな状況になってるかと言うと。今日は一週間勉強の最終日。それに伴い、今までの勉強が身についてるかのテストを行った。もちろん、全問正解しないとダメ。一問でも間違えたら、追加で一週間勉強する約束だ。
キュッ
「よし」
「っ!」
お父さんの手から、赤いペンが離れる。
添削が終わったんだ……。結果は!?
「凪緒」
「は、はい!」
カサッと、答案用紙が返される。どこを見ても赤い○がされてあり、右上には――
「ひゃ、100点……っ?」
「そうだ、よく頑張ったな」
「〜っ!」
ポロッと零れる涙。勉強初日は「本当にやれるかな」って不安しかなかったけど……私、やり切ったんだ。
「うぅ、うぇ〜っ」
「……」
ポンッ
お父さんは無言で、私の頭に手を置いた。そして数回、頭を撫でると……いつもの険しい顔じゃない、優しい笑みを私に向けた。その瞬間、不安な事とか辛い事とか。今まで蓋をしていたものが一気に溢れ、嗚咽が漏れるほど泣いてしまった。
「うぅ、ねぇお父さん……っ」
「なんだ」
「私……少しでも、先輩に近づけたのかなぁ?」
「――」
私の頭を撫でる、お父さんの手が止まる。少し空白の時間があった後、「もちろんだ」と。お父さんは、私の肩に手を置いた。その手の温かさに安心して、また泣いてしまう。そして散々に涙を流した私は……。泣き疲れと勉強疲れで、そのまま寝てしまった。
「すー……」
「……」
私の寝顔を見つめるお父さん。親子のゆっくりした時間が流れ始めた、その時だった。
コンコン
「……どうぞ」
ノック音を聞いただけなのに、お父さんは「これから誰が入って来るか」分かったらしい。まだ見ぬ人物に向けて「君が来るとは珍しい」と。資料室から体を出しながら言った。
「なんの用かな、城ヶ崎響希くん」
城ヶ崎響希くん、と呼ばれた人はカチッとしたスーツを着て、髪の毛も綺麗にセットしていて……。何だかいつもと違う雰囲気。だけど「お久しぶりです、丸西社長」と言った声は、確かに先輩の声で――
「俺の婚約者を、迎えに来ました」
夢みたいなセリフを言ったのも、確かに城ヶ崎先輩なのだった。
❁⃘*.゚
私は今、夢を見ているのかもしれない。
だって……
「俺の婚約者を、迎えに来ました」
先輩が、こんな甘いセリフを言うなんて――
先輩の声がした気がして、目を開けると誰もいなくて。かわりに、隣の部屋から響希さんとお父さんの声が聞こえた。
その中で聞こえたのは、
ウソに決まってる。
きっと冗談なんだろうな。
それとも、私が寝ぼけてる?
でも、でもさ……
「俺の婚約者」って言ったよ?
「迎えに来た」って言ったよ?
これって、もうさ、
「たとえ夢でも、幸せすぎるよ……っ」
なんで先輩が、そう言ってくれたのかは分からない。もしかしたら、「アンタの家族の前だから、あぁ言った」ってだけかも。
だけど――それでもいい。
ウソだとしても、嬉しすぎるよ。
「色々話したいことはあるが、凪緒があの調子だ。悪いが、連れて帰ってやってほしい」
「凪緒さんは?」
「疲れて寝ている。どうして疲れてるかは、凪緒本人から聞くといい」
「……分かりました」
するとお父さんが「こっちへ」と言った後、二人の足音が大きくなる。わゎ、こっちに来ちゃう!
急いで寝たふりをする。口元のニヤつきがバレないよう、髪の毛で顔を覆った。すると「あぁ、こんな所に」と、耳元で先輩の声が聞こえる。かと思えば、ふわりと宙に浮く私の体。え、私……先輩にお姫様抱っこされてる!?
「では、凪緒さんを連れて帰りますね」
「久しぶりに娘と時間を共にできて嬉しかった。また来なさい。その時はスーツではなく、もっとラフな格好で。俺たちは将来、家族になるんだからね。もちろん〝社長〟呼びも禁止だ」
「!」
すると動揺したのか、先輩の体が僅かに揺れた。そして「無理いいますね」と、困った風に笑う。
「社長に〝お父さん〟と呼ぶのは、気が引けますよ」
「構わない。凪緒に言わせりゃ、我が家は〝安定してない成金一家〟らしいからな」
ハハと、お父さんが笑う。楽しそうなお父さんの声を久しぶりに聞いた。それに先輩も、なんだか楽しそう。
「その位の知識でちょうどいいんですよ。会社も社会も、深く知ったってロクなことないんだから」
「子供らしからぬ発言だ、君は小さな頃からたいそう勉強したんだろうな。凪緒なんか、」
――――おとうさんって、いつもきたない! ともだちのおとうさんみたいに、きれいなスーツきてよ!
「って作業着で仕事する俺に言ってな。でもいざ転職してスーツを着ても、十六年間知らんぷりだ。勝手なもんさ」
え!?
小さい頃の私って、そんな事を言ってたの!?
そういえば、いつかトヨばあが、
――昔の事ですが、お嬢様は〝お父さん嫌い〟でしたからねぇ
って言ってた。まさか昔の私が、そんなヒドイ事を言ってたなんて! 反抗期が度を越してるって‼
寝たフリをした顔面蒼白の私。そして、ゲンナリ顔の先輩。
「クソガキ……じゃなくて子供時代の凪緒さんの発言はともかく。ビギナーズラックで会社を大きくし過ぎでしょう。それは天才のする事ですよ」
天才相手に〝お父さん〟なんて……、と先輩。そんな先輩に、お父さんは再び微笑んだ。
「子供は子供らしく、縛りに囚われず自由にしなさい。特に君は、一人で抱える割に突っ走りそうだからな。……そうだな。たまには素直になること。これを忘れず覚えておくことだ」
「素直、ですか……」
目を瞑っていても、目の前が暗くなったのが分かる。どうやら先輩が、私の顔を覗き込んだらしい。き、緊張する……!
寝たふりがバレませんように、と変な汗を流す私とは反対に、先輩はお姫様抱っこしたまま、器用に私の顔にかかった髪をよけた。久しぶりの先輩の手に、先輩の温度に……目の奥が熱くなる。先輩に触れられるのは、いつぶりだろう。
「……〜っ」
「……。貴重なお言葉、覚えておきます。それでは失礼します」
お辞儀をした先輩に、「響希くん」と。お父さんが呼び止めた。
「これを」
カサッと音がする。だけど、それは一瞬のことで……。
「〝頼むよ〟」
「……わかりました」
後は何事もなかったように、先輩は部屋を出て、みんなに見送られながら丸西家を後にした。さっきのは何?と気になったけど……。それよりも、いつまでも私を離さない先輩にドキドキしちゃう。
ねぇ先輩、もう家を出ましたよ?
なんで私を降ろさないんですか?
先輩が迎えに来てくれたこと、本当に嬉しかった。だけど、そう思う一方で……。もしかしたら、私の家族に対するパフォーマンスかもって思った。婚約者らしく振る舞ってるだけかもって。
だから家を出た瞬間、いつものクズ先輩に戻って「起きて自分で歩きなよ」って言われるかと思ったの。だけど――
丸西家を出ても、先輩は私を降ろさない。重たいだろうに、お姫様抱っこをしたまま。寝てる私を起こしもせず、かと言って車も使わず。二人で、ゆっくり歩いて帰ってる。
コツ、コツ
「……っ」
あぁ……なんか、泣きそう。この時間が温かくて、終わってほしくなくて。今すぐ先輩に、ギュッて抱きつきたい。
……ねえ先輩。わがままを言っていいですか?私、知りたいの。先輩の、今の気持ちが知りたいです――
「凪緒」
「は、はい!」
「やっぱり起きてた」
あ、しまった!
つい返事しちゃった!
怒られる!と思って、更にギュッと目を瞑る。だけどコツコツと、先輩が歩く音は続いた。え……、どゆこと?道端に投げ捨てられる覚悟をしてたのに、傷つく覚悟は、とっくに出来ていたのに……。
「先輩、寝たふりしてた事を怒らないんですか?どうして私を降ろさないんですか?」
「さぁ、なんでだろ」
この時、私は初めて目を開けた。瞳に写ったのは、一週間ぶりに見た先輩の顔。会いたくて会いたくて、休憩時間の度に思い出していた人だ。薄茶色の前髪が、切れ長の瞳にかかっている。髪の色と似た茶色の瞳は、前とは違う速度で、前より少し高い温度で揺れてるように見えた。
「重いから離したい、けど……」
「〝けど〟?」
「……アンタは、自分で歩きたいの?」
「え、ぇぇ⁉ め、滅相もございません! こうしてずっと、先輩と引っ付いていたいです!」
「……」
「あっ」
私のバカッ。なに恥ずかしい事をペラペラ喋ってるの!
「ご、ごめんなさい……」
いけない、調子に乗っちゃダメだ。いつ先輩が怒るか分からないんだから、慎重に――と思っていたのに。
「じゃあウソなの?」
「へ?」
「ずっと俺と引っ付いていたいっていうのは、ウソ?」
「っ!」
伏し目がちで、私を見降ろす先輩。まぶたに半分ほど隠れた瞳が、これでもかってくらい優しく私を見つめていて……思わず勘違いしそうになる。もしかしたら先輩、怒っていない?むしろ機嫌がいいのかも、って。それに――
「ずっと私が引っ付いていたら、きっと邪魔ですよ?」
「そうかもね」
「五分もしない内に、先輩は〝鬱陶しい〟って言うと思います」
「ふっ、そうかもね」
目を伏せて笑った先輩から漂う雰囲気が、トゲトゲしくなくて、柔らかい。こんなの、いつもの先輩じゃない。
「先輩、なんか変です……」
「俺もそう思うよ。だって……〝鬱陶しくてもいい〟って思うんだから」
「へ……っ?」
鬱陶しくてもいい?それって、私がずっと先輩に引っ付いててもいいって……そう言ってくれてるの?
「……っ」
甘い言葉を信じればいいのか、それとも先輩の気の迷いだと思えばいいのか。どっちなんだろう。私は、どっちを信じればいいの?
その時、さっきのお父さんの言葉を思い出した。
たまには素直になること――――
「……あのっ、先輩」
私って単純だから、相手の憶測とか策略とか。そんなの全然わからないんです。今の先輩が本気なのか冗談なのか。出ない答えに、ずっと悩んでる。
だから、目の前の先輩を信じることにします。
先輩の言った言葉を、信じます。
だから先輩。
たまに……ううん。
どうか今だけ、素直になって下さい――
「前、私に言いましたよね。〝好き嫌い以前に興味すらない〟って。今は、どうですか?」
「今?」
「私に興味があるならキスしてください。やっぱりないなら……すぐ降ろしてください」
「……」
お姫様抱っこをしたまま、先輩は私を見た。この後すぐ、私は降ろされるのかな。そして一人で歩いて、一人でマンションに帰るのかな。それは、ちょっと……ううん、だいぶ寂しいかも。
「……なんで泣いてるの」
「だ、だってぇぇ〜っ」
未来を想像して、堪えきれない涙が溢れる。一人でトボトボ歩く私が不憫で、自分自身に同情しちゃった。すると「はぁ」と。先輩がため息をつく。
「泣くくらいなら、質問しなきゃいいのに」
「それは、その通りなんですがぁっ」
どうしようもなく興味が湧いてしまって。ほら、怖いもの見たさって言うじゃないですか。
「そういうのに近いんです! 先輩が私に〝興味ある〟なんて、UFOや宇宙人を見るくらいありえない事で、」
と叫ぶ私に、先輩は再びため息をつき「うるさい」と。私に顔を近づけた。そして――
「え、……んっ!」
私に、キスをした。
……へ?
ありえない、ありえない。
だって、
――私に興味があるならキスしてください
って言ったのに、それでもキスしたなんて。
城ケ崎先輩に限ってありえないよ。
そうだ、何かの間違いだ――!
って思ったけど。
「言っとくけど、勘違いじゃないから」
眉間にシワを寄せた先輩が、乱暴に放った言葉とは反対に。熱いものが、グイっと強く、だけど優しく入ってくる。同じものが触れ合った瞬間、気持ちよくてゾクゾクして、思わず声が漏れた。
「んぅ、……っ」
「さっきの質問だけど」
「ひゃっ」
口が離れたと思ったら、今度は耳。聞いた事ない色気を含んだ声で話され、頭の中にモヤがかかる。もう何も考えられないってくらい、頭の中、先輩だらけ。
「こう見えて、俺は怒ってるから」
「ん……、え?」
先輩が怒ってる?
でも……、何に?
先輩の言う事が分からず目を泳がせていると、すぐ悟られた。先輩は不機嫌な顔で、親指の腹を使って私の唇をスイッと撫でる。
「〝ココ〟を俺以外が触ったこと、忘れたの?」
「唇……あ、あぁ!」
笹岡との事故チュー!!そう言えば時山先輩に激写された挙句、城ヶ崎先輩へ写真を送信されたんだった!
あれ?
でも……
「どうして先輩が怒るんですか?」
「……へぇ、自分が婚約してるって忘れたの。左手にはめてる指輪は飾りかな?」
「だ、だって、」
「もっと危機感もちなよ。ねぇ、」
凪緒――
耳元で名前を囁かれて少し経った時、チクリと痛みが走る。それは首のあたりで、蚊に刺されたみたいに一瞬のことだった。
「今、何か、」
「凪緒はコッチに集中」
「あ、……っ」
再び唇を重ねて、キス。食べるようなキスを何度もした先輩は、だんだん蕩(とろ)けてく私を見逃さなかった。
「凪緒のそんな顔を見ていいのは俺だけって、分かってる?」
「先輩、だけ……?」
「そう俺だけ。だから他のやつには見せないこと。凪緒に興味もつのは、俺だけで充分だから」
「――っ!」
今、先輩の顔が赤くなってるのは……私が泣いてて、視界がボヤけてるから?それとも、まさか幻覚だったりする?……ううん。きっと、どれも違う。先輩が赤くなってるのは、たぶん――
「素直な先輩を初めて見ました……。そういう顔をするんですね」
「え?」
「ふふ、新情報ゲットです」
「、! ……はぁ」
すると先輩は「負けた」と言わんばかりに。私の首元に、顔を埋める。
「抱っこしたままなのに、いろいろ器用ですね」
「……うるさいよ。凪緒こそ泣くか笑うか、どっちかにして」
「はい、すみませんッ」
だって、信じられないもん。先輩が私に興味出てきた、なんて。それに、嬉しいんだもん。先輩が素直になって、本音を話してくれた事が。
――今日だって女性と会うつもりだったのに、アンタが……って、言わないからね
――牛肉が嫌いなわけじゃない。嫌いなのは……何でもない。早く食べさせてよ
いつも本音を教えてくれなかった先輩が、私に、
――凪緒に興味もつのは、俺だけで充分だから
なんて。自分の本音を打ち明けてくれた。二つの幸せが一気に来て、幸せすぎて……。笑顔も涙も、両方でちゃう。この先、なにか悪いことが起きる前触れ?ってくらい、今がとっても幸せ。
「それから凪緒。アイツとは、もう会うのも話すのも禁止だから」
「アイツって?」
「笹岡」
ピシャリと言った先輩に、胸が高鳴る。え、まさか先輩……ヤキモチ妬いてくれてる?
「で、でもお互い体育祭の実行委員だし、むしろこれから限りなく会う事になるかと……」
「……冗談でしょ」
明らかに肩を落とす先輩が、可愛くて愛しくて。「やっぱりヤキモチだ!」と嬉しくなって、思い切り先輩に抱きついた。
「先輩、大好きです!」
「……ふっ。あっそ」
私をギュッと抱え直し、また歩き出す先輩。力強く支えてくれる腕が、先輩が……今までより、もっともっと好きになった。
だけど、この時。浮かれた私は気づいてなかった。私が一言も「笹岡」と言ってないのに、その人の名を先輩が口にしたことを。そして――
カサッ
私が忘れた「何か」を思い出させるように、先輩の服から静かに音が鳴ったことを。
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