第2話 ♡-50で知ったtrue
『さすがお嬢様、もう香水を試されたので? お贈りした甲斐があります。え、アレは何の液かって?ふほ、あれはアルコール消毒ですよ。いい匂いがするアルコール消毒が珍しくて、つい』
アルコール消毒?
でも、体がブワッて変に……。
『お嬢様は昔からお酒に弱いですから。お忘れですか?昔、旦那様のお酒を間違って口にされた時。あの時も大変でした。たった一口だというのに、その場に倒れられて……。なのでお嬢様。大人になってもお酒はほどほどに……ですよ。それでは』
プツッ。ツー、ツー
「なにが〝お酒はほどほどに〟よ」
お酒が弱い私の癖を利用したのは、どこの誰!
𑁍𓏸𓈒
「アンタも知ってる通り、俺たちの婚約は政略結婚だよ。今、日本一の権力を持っている時山家に対抗するため、俺とアンタの家が合併したって事」
「つまり、一位の時山家を引きずり下ろすために、二位の城ケ崎家と三位の丸西家が手を組んだ、って事ですね」
「俺が言ったことを繰り返しただけじゃん」
「……」
朝、タブレットでニュースを確認しながら、コーヒーを飲む城ケ崎先輩。涼しい顔で嫌味を言われ、ムカッ。
「だから、俺たちの結婚は形だけだから。昨日も言ったように、俺は俺で好きにするし、アンタはアンタで好きにしたらいい」
「好きにって……」
「いくらお嬢様だからって、好きな奴くらいいるでしょ? ソッチに行けって言ってんの」
「……」
また、ムカッ。口が裂けても言わないけど、私の好きな人って……あなただったんだよ、城ケ崎先輩。悔しいから、口が裂けても言わないけど(二回目)。
「恋なんてしません。虚しいだけだから」
「……へぇ、随分知った事を言うね」
「……」
床は一面、白の大理石。部屋の真ん中に柱があり、その柱を覆うように、グルリと置かれている白いソファ。壁=窓ってくらい、窓が大きい。有名な塔もバリバリ見えてる。景色を見渡せ過ぎて、部屋にいるのに、まるで外にいるみたい。
広い部屋。
壁一面にある窓。
白色が基調の家具。
それらは統一感があって、逆に寂しい。今の私の空っぽの心みたいだ。
「恋が虚しい、ねぇ。あんな変なキャラクターがプリントされた綿百%のパンツを履く奴が、どんな恋愛してきたんだか」
「ブーっ!! み、見たんですか⁉」
すると先輩は「見えたんだよ」と。紅茶を吹き出した私を、苦虫を嚙み潰した顔で見た。
「あんな下着で、よく入居日にノコノコやって来たね」
「あれは、お気に入りなんです……って、私の下着事情は放っておいてください!」
一足先に、椅子を立つ。私はパンと紅茶だったけど、城ケ崎先輩はコーヒーだけ。アレでお腹空かないのかな?
「先輩、パン……」
まだありますよ――
そう言おうとして、やめた。
そうして、もう一度。椅子に座る。いま私たちが話さないといけないのは、パンよりも「二人の事」だ。
「さっきの話なんですけど」
「……なに」
先輩は、タブレットから目を逸らさないまま尋ねた。既に制服に着替えてる先輩は、裏の顔モード。学校でする「王子様スマイル」は、不在中。
「例え形だけでも、婚約したんです。私たち、将来は結婚するんです。だから……他の女の人を呼ぶのは、やめてください」
「なんで?」
「なんでって……普通に傷つきます」
むしろ、こっちが「なんで?」だよ。この人、堂々と不倫宣言しちゃってる。
「私と先輩が住むこの家に、他の人の存在がチラつくのは……嫌なんです」
「……」
先輩は、タブレットから目を離した。そして私を、真っすぐ見てくれる。あ、ちょっとは改心してくれたかな?って思ったのに――
「言っておくけど、この部屋の家賃はウチが払ってる。この部屋の事に、アンタがとやかく言う権利はないよ」
「っ!」
鋭い目。怖い雰囲気……。
なんで、そんなに私を拒絶するの?
そんなに婚約が嫌だったの?
「先輩は、私のことが嫌いなんですね」
「なに言ってんの」
「だって……」
と視線を落とした私の頭上から。冷徹な先輩の声が落ちてくる。
「好き嫌い以前に、アンタには興味すら湧いてない」
「――……っ」
昨日はあれほど私に触れてくれたのに。今は一切も寄せ付けないオーラ。触るなって、先輩の全身から、私に命令が出ている。抑揚のない淡々とした声が堪らない。胸がギュッと、締め付けられた。
「そう、ですか……っ」
ココにいると泣いてしまいそうで、「逃げちゃダメ。話をしなきゃ」って思ってるのに。心がポッキリと折れてしまい、震える足にムチを打ちながら席を立つ。
ガタッ
「……ごちそうさまでした」
「……」
逃げるように部屋を去る私を、先輩が止めることはなかった。
𑁍𓏸𓈒
「性的な目では見てくれたのに、凪緒自身には全くスルーってこと?」
「う……っ。その言い方はダメージを負うのでやめてください、芹ちゃん」
最悪な朝ごはんが終わって、学校に登校。もちろん、
『分かってると思うけど、一緒に登校なんてしないからね』
と先輩に念を押され……。一人で寂しく、トボトボ歩いてきましたとも。
「にしても、あんなにキャーキャー言われてる王子様が、まさかそんな裏の顔を持っていたとはね」
表情を変えずに言う芹ちゃん。先輩の二面性を知ってなお、冷静でいられることが羨ましい。私なんて、キスマークがついた上半身裸の先輩を見た時は、混乱の極地だったよ……。
「私も芹ちゃんみたいにドライになりたい……」
「いや、私はもともと城ケ崎先輩に興味がないだけだからさ。ってか凪緒だって、もう興味ないでしょ?これまで通り好きでいるなんて無理じゃない? 最低でクズな性格って分かった事だし」
「う、う~ん……」
その通り、なんだけど。こうして芹ちゃんと話してる間も、私は違う校舎を見たり、運動場を見たり。そうやって、先輩の姿を探してしまう。先輩の目に私が映ることは、限りなくゼロだというのに。
「城ケ崎先輩ってさ、一緒に暮らしてても私を見ないんだよ。目が合わないの」
「わあー。すっごい壁つくられてるね」
「うん。けどね芹ちゃん、私……」
愛はなくとも、せめて。その「壁」だけは無くしたいって思う。
「いくら形だけの婚約と言えどさ、これからずっと一緒にいるわけだし。お互いを〝いない存在〟と思うのは寂しいもん」
「凪緒……」
芹ちゃんの眉がシュンと下がったのが分かった。そんな芹ちゃんに救われる。今の私には、こうして話を聞いて、私に寄り添ってくれる人がいるだけで充分だ。
「でも、先輩も凪緒を〝全拒否〟まではしてないんだろうね」
「え……どうして、そう思うの?」
「だって本当に顔も見たくない相手だったらさ。わざわざ一緒に朝ごはん食べないでしょ?」
「!」
確かに……。朝、先輩はコーヒーだけだった。タブレットでニュースを見て……。
でも、それなら自分の部屋で出来るよね?むしろ小言を言う私がいない方が、ゆっくり出来たはず。
「あの時、先輩は……どんな気持ちで一緒にいてくれたんだろう」
ギュッ
期待がこもった手に、力が入る。頭の中には……王子様じゃない、家での先輩が浮かんでいた。
「芹ちゃん。私、やっぱり頑張ってみたい。仲の良い婚約者まではいかないだろうけど、ケンカのない私たちを目指したい。って……やっぱり夢を見すぎかな?」
「ううん。いいんじゃない?」
芹ちゃんは、長い髪の毛を耳にかけながら笑った。
「今の凪緒、すごくカッコいいし可愛いよ。いっぱいぶつかる事で理想の関係に近づくなら、いくらでもぶつかればいいと思う」
「芹ちゃん……ありがとう!」
きっと前途多難だと思う。この先にあるのは、障害ばかりだ。だけど諦めない。頑張るんだ!先輩と、心から婚約者になるために!!
――って。そう思っていたのに。
「あ、城ケ崎く~ん」
「時山先輩、こんにちは」
とある廊下にて、私は見てしまった。私の婚約者(二位)が、時山先輩(一位)と話しているところを。
「聞いたよ~、丸西さんと婚約したんだって?」
「さすが、情報が早いですね」
「ニュースでもバンバン出てるしね、気づかない方がおかしいって!」
毛先が内巻きの、黒髪のボブ。小顔な時山先輩に、とても似合っている。目は、小動物みたいな愛らしさ。制服を着ていても分かる、華奢な体つき。だけど、どこか大人のオーラがある女性。それが、時山先輩。
「……っていうか、」
え、ちょっと待って。
時山先輩って、女の人だったの⁉
てっきり男の人だと思ってたよ!
「城ケ崎くん、また背が伸びた?」
「はは、変わらないですよ。先輩こそ、また縮んだんじゃないですか?」
「あー、背が低いのを気にしてるのに!」
っていうか。時山先輩が女性だったって事よりも……今の城ケ崎先輩に衝撃を受ける。だって、だって。あんな風に笑う先輩を、私は知らない。
学校での王子様スマイルでもない。家にいる時のクズな顔でもない。お金持ちとか、権力とか。そんなものを全部取っ払った、普通の男子高校生の顔をしている。
「いいじゃないですか。小さい先輩の方が可愛いし、俺は好きですよ」
「ふふ、ありがとう。いつも城ケ崎くんは優しいね」
優しい目。穏やかな話し方。勘違いなわけがない。アレは――恋している人の雰囲気だ。
「はは……。バカだなぁ、私」
そうか、そうだったんだ。だから先輩は朝、あんな事を言ったんだね。
――俺たちの結婚は形だけだから。昨日も言ったように、俺は俺で好きにするし、アンタはアンタで好きにしたらいい
――アンタには好き嫌い以前に、興味すら湧かないから
どうして、そこまで冷たいのって思った。冷徹すぎて不満だった。だけど今。その答えが分かった。
「そうだ、また今度パーティがあるんだけど来てくれる?」
「もちろんですよ。でも行くからには、俺にエスコートさせてください」
「ふふ、考えとく!」
「今度は逃げないでくださいよ」
先輩の本当の気持ちが、頬を染めた顔に、これでもかというほど現れていた。
城ケ崎先輩は、時山先輩のことが好きなんだ。
𑁍𓏸𓈒
ガチャ
「うわ、なんで真っ暗なの。電気ぐらいつけたら」
先輩は、家に帰るやいなや開口一番。ドン引きした声を、部屋の隅で小さくなる私に放った。
「お気になさらず……夜景を楽しんでいただけなので」
「俺が不便だって言ってんの」
ピッ
リモコン一つで、透明ガラスが曇りガラスへと切り替わる。途端に視界から夜景が消え、白一色の部屋が露わになった。
「いま何時ですか……?」
「時計も読めなくなったの?」
「……」
〝も〟ってなんだ。
〝も〟って。
諦めて、自分のスマホを見る。
現在、午後八時。
「先輩……遅いお帰りですね」
まさか「帰ったら私がいるから家に帰りたくなかった」、とか?
ドクンッ
自分で勝手に、嫌な想像をしてしまう。
でもさ。だってさ……。好きでもない女が家にいても、先輩は嬉しくないよね。時山先輩が家にいたら、先輩は飛んで帰って来るのかな?
「会社に寄ってたんだよ。知ってるでしょ? 学校の近くに城ケ崎の会社がある事くらい」
「あ、会社……なんだ、そっか」
ホッ、と安堵の息が漏れる。
良かった。
私が嫌で、遅く帰ったわけじゃないんだ。
「そうだ。先輩、お腹空きましたよね。すみません、何も用意してなくて……。コンビニで何か買ってきます」
学校から直帰して何も手に着かない状態だったから、晩ご飯の存在を忘れてた。
わ~、しまった。
もう八時だし、先輩お腹すいてるよね?
「すぐ行ってきます。先輩は先にお風呂に入って、」
「いらない。会社の人と食べて来たから」
「あ……、そうですか」
そりゃそっか。こんな時間だもん。あ、でも私の分はどうしよう。冷蔵庫には何もなかったし、朝のパンをまた……って気分にはならない。
「やっぱり、コンビニ行ってきます」
「……今から?」
「明日の朝ごはんも買わないとですし」
制服のままウロウロするのはマズイかな。部屋に行って、丈の長いワンピースに着替える。よし、これでオッケー。
「じゃあ、行ってきます」
「……」
ガチャ、バタン
「ふー……」
閉めた玄関扉に、背を預ける。
私、普通に出来てた?
変じゃなかった?
先輩を見ると、どうしても時山先輩が透けて見える。学校での、二人の会話を思い出してしまう。
――小さい先輩の方が可愛いし、俺は好きですよ
好きな人には、私以外の好きな人がいて。私には見せない顔を見せていた。そんな彼と私は婚約してて、一つ屋根の下で暮らしている――って。
「一体、どこの罰ゲームよ……」
先輩にフラれた私。
私に興味ない先輩。
そんな二人が一緒に住むなんて、お互いにとって罰ゲームそのもの。
「芹ちゃんに〝頑張る〟って言ったばかりなのに……」
ごめん、芹ちゃん。私、もうギブアップしそうです……。
「グス……。あ、っていうか」
ここに越してきて二日目。学校までの道は分かっても、コンビニの場所までは分からないや。
「スマホの地図アプリで検索しよう」
ポケットを探るけど、見事にスカスカ。慌てて出てきたから、スマホを持ってくるの忘れたみたい。
「スマホないのは心細いから……、しょうがない。取りに戻ろうか」
またポケットを探る。だけど、やっぱりスカスカで。どうやら私は、スマホも鍵も、財布すら。持ってくるのを忘れたらしい。こんな状態でコンビニ行かなくて良かった。恥をかくところだったよ……。
「だけど困ったな。中に入れなくなっちゃった」
そりゃさ、普通の人ならピンポンして中から鍵を開けてもらうんだろうけど……。私の場合は、すごく押しずらい。だって「俺の手を煩わせるな」って、怖い顔で怒りそうだもん。
「一晩ロビーで過ごそうかな。あ、このマンションってゲストルームもあるんだっけ。まだ空いてるかな?あした城ケ崎先輩が登校する時、事情を話して鍵を貸してもらおう」
無謀かもだけど、先輩も私の姿を見なくて済むし。ちょうどいいじゃない?私のことに興味ないって言ってたし、私が一晩帰らなくても気にしないでしょ。
「……なんか、虚しくなってきた」
泣きそうになるのを我慢して、とりあえずエレベーターを目指す。数歩あるけば移動完了。部屋とエレベーターが近いのは嬉しい。
ピッ
↓ボタンを押して、エレベーターが来るのを待つ。廊下は身だしなみ最終チェックのためか、両脇に鏡が埋め込まれていた。
「はは……、ヒドイ顔」
その鏡に写る、自分の元気のない顔。目は赤いし、口元も下がってる。髪の毛すら覇気がないように見えるよ……。
「う……っ」
なんで、こんな事になったんだっけ。婚約式の日は、お互いキラキラした瞳を向け合ったはずなのに。
――これからよろしくね、凪緒
――よ、よろしくお願いします……っ!
幸せを感じた、あの日に戻りたい。また先輩に、笑いかけてもらいたい。先輩が時山先輩に向けた顔で、私も見つめられたい。そして「好きだよ」って、言ってもらいたい。
……あぁ私、本当に諦めが悪い。
相手は、あんなにクズ男だって言うのに。
婚約者のいる家に、女性を呼ぶ人なのに。
この頭の中には、常に城ヶ崎先輩がいる。
ただの一目惚れなのに。
イケメンって理由だけなのに。
婚約式の日、真っ直ぐに私を見つめてくれたあの瞳を忘れることが出来ない。先輩の一挙手一投足で胸の内側がぴょんと跳ねる自分を、知らないフリに出来ない。
「悔しいな、諦められないや……」
やっぱり私、まだ先輩が好き。
大好きだ――
「うぅ、城ケ崎先輩~っ」
「なに?」
「ひゃあ⁉」
いきなりの声。
ビックリした……。
え、っていうか。
聞き間違いじゃなかったら……。
「……っ」
ドキドキする心臓を押さえ、鏡をチラリと見る。すると、そこに立っていたのは、
「アンタって、本当に時計が読めないんだね」
「城ケ崎、先輩……っ」
ムスッとした顔を浮かべ、私の腕をつかんでいる城ケ崎先輩。反対の手には、私のスマホが握られていた。
「な、んで先輩がココに……?」
「なんでって。スマホは机に置きっぱなし。財布もキーも玄関にそのまま。なのに取りに帰ってこない、なんて。こんな夜に一人きりで、何かあったのかと思うでしょ」
「っ!」
そ、それって、つまり……っ。
「私を心配してくれたんですか?」
「……」
黙ってしまった先輩。気になって、鏡ごしではなく振り返って直接、先輩を見る。いつも仏頂面の先輩。眉間に寄ったシワも健在。だけど――
「耳、赤い……?」
「!」
廊下の灯りに照らされる先輩。そこに浮かぶ、淡い赤。
「まさか先輩、照れて、」
「あー、もう。うるさい」
グイッ
「え、わ、わぁ!」
先輩が私の腕を強く引っ張る。その時、ちょうどエレベーターが到着した。先輩は「乗るのが当然」と言わんばかりに、私と一緒に乗り込む。中は全面鏡で……再び私たちは、私たちに見守られる形となった。
「なんで先輩まで……って、どこに行くんですか?」
「どこって。アンタが言ったくせに。行くんでしょ? コンビニ」
「っ!」
ウソ、まさか。
先輩が、私と一緒にコンビニに?
これは……夢っ?
「あ、ありがとうございますっ」
「ほんと、アンタって手がかかんね」
先輩が浅く息を吐いたと同時に、エレベーターが下に着く。着いた途端、先輩は私の腕を離して前を歩いた。先輩の大きい歩幅に驚きながら、小走りで後を追う。
その時、月の光で薄茶色の髪をキラキラ光らせた先輩は、「はぁ〜〜〜」と。それはそれは深いため息をついた。
「八時で真っ暗だっていうのに、普通一人で出かける? ついてきて、とか。そのくらい言いなよ」
「だって私のご飯を買いに行く訳ですし……」
モゴモゴ言葉を詰まらせながら言うと、眼光鋭い先輩と視線が合う。
ひぃ!
どこのラスボスですか、先輩はっ!
「〝俺と婚約した〟って忘れたわけじゃないよね?俺はアンタの家からアンタを任されてる。イコール、アンタに何かあったら俺の責任ってわけ。そんな事も分かんないの?」
「いえ、そうではないかなとは薄々……」
「……へぇ。じゃあ何?夜の八時に一人でコンビニに行こうとしたのは、俺への嫌がらせって事?」
「いぃぃ痛いです、ゲンコツやめて下さいっ」
頭頂部に着弾した先輩の拳が、遠慮なく私を攻撃する。重力と相まって、圧がハンパない!
半泣きで許しを乞うと、先輩は「チッ」と舌打ちして離れた。学校で見る王子様は、今や見る影もない。だけど……
「今回は何もなかったからいいものの。アンタがいくら猿に近いからって、自分はお嬢様だってこと忘れないで。何かあってからじゃ遅いんだから」
先輩は立ち止まり、後ろを歩く私を見る。
「今、ここで約束して。俺のそばから勝手に離れるな。っていうか……俺の目の届かない所には、もう行かせないから」
「――っ!」
「分かった?」
……、え?
いま、私、何を聞いた?
俺のそばから離れるな?
目の届かない所には行かせない?
分かってる、分かってるよ。先輩は立場上、私を守らないといけないわけで。
それで、あんな事を言ったんだって。分かってる。
でも、だけどさ。
こんなの、嬉しすぎない――?
「顔、あつ……っ」
「ねぇ、ちょっと聞いてるの?」
「〜っ、ふぁい」
頬をブニッと伸ばされるも、口はにやけたまま。先輩に引っ張られた所が、ちゃんと痛い。ってことは、これは夢じゃなくて現実なんだ。さっきの言葉は、本当だったんだ。
「隣で鼻息荒くしないでくれる? 気味が悪いんだけど」
「今は何とでも言ってくださいッ」
「……変なやつ」
頬を触る先輩の手が私から離れる時。私たちの横を通る車が、ヘッドライトでこの場を照らす。
その時、私は気付いてしまった。私を見る城ヶ崎先輩が、いつものキツイ目つきではないことに――
「これは……〝沼〟だ」
「は? 沼?」
「そう、しかも世界一キケンな沼です……!」
「……本当、アンタって疲れる」
真剣な顔の私を見て、先輩はゲンナリ。「意味不明」と言葉を吐き捨て、私の隣ではなく、一歩前を歩いて行く。
婚約者だというのに、手は握らない。
会話よりも、沈黙の方が多い。
だけど、だけどね。
今は、これで充分だ。
家の外なのに二人で一緒にいるって事が、私にとって一番嬉しいことだから。
「あ、財布を取りに戻らなきゃ」
「俺がいるんだから、いらないでしょ」
「へ?」
「それくらい払うって言ってんの」
「っ!」
「女性と一緒にいるのに俺に払わせないつもり?品位を損なうからやめて。婚約者を立てなよ」なんて。そんな嫌味にさえ反応して、胸の内がぴょんと跳ねる。
「ねぇ聞いてるの? 凪緒」
「は、はぃぃ……っ」
更に。忘れた頃に、いきなりの名前呼び。
あぁ、やっぱり。
私にとって、城ケ崎先輩はキケンな沼です。
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