第3話 忘忘ボックス①

 生徒会室は基本的に散らかっている。

 各学級教室の半分程度の広さの部屋に、長テーブルを2つくっつけて配置し、その周りに木とパイプでできたスクールチェアが取り巻く。

 漫画やアニメのような生徒会長席などという偉そうなものは残念ながら存在しない。

 壁際には木製、スチール製、大型、小型、様々な本棚やキャビネットがわたしたちを取り囲むように佇んでいて、大型本棚の天板上にはダンボールが積まれ、小型本棚の上には、ドッジファイルが山を作っている。

 どう頑張っても収まりきらないんです。そう言って代々の生徒会役員たちは弁明してきた。でもスチール棚の中の役員の私物を退ければ余裕で収まるのが実情だ。何を隠そう、生徒会長のわたしですら所属する演劇部の小道具をいくつか生徒会室に保管している。もちろん先生には内緒だ。


 そんな荒れ果てた生徒会室の端の端。腰高の木製棚の上に厚紙で作られたケースが置かれていた。『忘れ去られた忘れ物ボックス』略して『忘忘わすわすボックス』である。

 正規の忘れ物ボックスは職員室の前の廊下に置かれている。持ち主が現れれば、書類に記入して提出する。生徒会執行部がそれを受理し、教師の決裁を受けて、ようやく物を持ち帰ることができる。

 だが、そんな忘れ物の中には何日経っても一向に持ち主が現れない忘れ去られた忘れ物が一定数存在する。そんな忘れ去られた忘れ物がやって来る終着点こそ、この生徒会室の忘忘ボックスなのだ。

 あまり一般生徒には知られていないが、月末を迎える度に、正規の忘れ物ボックスから忘忘ボックスに何品か移動が行われ、最古参の何品かは廃棄されている。


「どうでもいいんですけど——」と一ノ瀬さんが切り出した。

「忘忘ボックスのアレ、どうにかしません?」


 そういって振り返る一ノ瀬さんの顔は若干赤い。彼女の視線の先、生徒会室の隅に置かれたケース——忘忘ボックスに全員の視線が集まった。

 きた、と思った。センシティブな話題。生徒会室にピリッとした空気が流れる。

 男女間で性的な話題が上がったときの妙な緊張感。自身の品格にもろに影響を及ぼすため慎重に言葉を紡ぐ手探り感。

 だけど、負けちゃダメ。この程度で慌てふためいては生徒会長の格が下がる。スマートに対応しなきゃ。生徒会長にして、演劇部部長のわたしになら、そんなの朝飯前だ。

 わたしは努めて微笑を維持した。


「俺も一男子としては、アレはどうにかしてくれると……その……助かる」

 野崎にしては珍しく歯切れが悪いが、事情が事情だけに無理もないかもしれない。

「あのままでは確かに……公序良俗に反すると言いますか……よくないですよね」

 持田さんが火照った顔を俯けた。耳まで赤い。純粋な持田さんをこんなにして、何故か無性に申し訳ない気持ちに駆られる。


 ちなみに高槻くんは我関せず、といった様子で文庫本を開いていた。背表紙には「男女比1:20の異世界。意外に馴染めてると思っていたら、この生徒会がヤバすぎる!」とある。あれだけ文学性がどうのと講釈を垂れておきながら、読んでいるのはラノベなのか。まぁ趣味嗜好は人それぞれだから、それはいいとして、少なくとも生徒会ものの微エロっぽいタイトルを生徒会室で読まないでほしい。

 不意に高槻くんが文庫本に目を落としながら「なるほど」と呟いた。そしてページをめくる。いったい何がなるほどなんだ。

 わたしは高槻くんはいないものとして、「そうだね」と椅子を引いて立ち上がった。それから、忘忘ボックスから例のブツ——薄桃色の女性用下着を取り出した。


「分かったよ。皆がそこまで言うなら、このパンツは、わたしが責任をもって先生に——」


「パンティ、だ」


 高槻くんが鋭い目をわたしに向け、言下に発した。


「え……?」

「それはパンツではない。パンティ、だ。パンツとは男物の下着、あるいは男女共通でズボンのことを言う。それはどう見ても女物の下着。しかも妙に過激なデザイン。ならば、それはパンツではなくパンティだ」


 また訳の分からないことを。一ノ瀬さんにいたっては、隠すこともなく「は?」と不快感を示していた。


「広辞苑にはそんな男女の差なんて——」

 持田さんの言葉を遮り、高槻くんが文庫本を突き出した。

「このラブコメ小説にもちゃんとパンティと書いてある。女物の下着を『パンツ』と表記するラブコメがあるとすれば、それは間違いなく駄作だ」

「現実と妄想をごっちゃにするなオタク」


 一ノ瀬さんが噛み付いたが、高槻くんは意に介さず、飄々としていた。

 話を元に戻そう、と野崎が割って入る。


「まぁ、パンツでもパンティでも、どっちでもいいが——」

「よくない。パンティと言え」

「——どうすんだよ、ソレ」


 野崎の一言でまた皆の視線がパンツ——もとい、パンティに注がれた。一般的な女子高生が履くパンティよりも、よりT字に近いフォルムをしている。薄桃色の生地に白いレースが添えられた可愛らしいデザインのソレが、蛍光灯の光に照らされて輝いた。


「だから、先生に——」

「先生に渡せば、多分持ち主のもとには戻らないよね」

 一ノ瀬さんは眉根を寄せて、うーん、と腕組みをして言った。

「そうですね。先生は多分、そのまま処分すると思います」

 持田さんも一ノ瀬さんに同意した。

「でも、もしかしたら先生が各クラスに呼びかけてくれるかもしれないでしょ」


 わたしの発言に高槻くんが大きなため息で分かりやすく呆れを示した。それから、ひょいとわたしからパンティを奪い取り、伸ばしたり縮めたり何かを確認する。デリカシーのない行動に眉毛がぴくりと反応するがここは我慢。


「高校教諭がそんな面倒なことするわけないだろ。奴ら公務員だぞ。仮にしたとしても、持ち主が名乗り出る訳がない。羞恥心というものが人間にはあるのだよ。会長にもあるかは知らんがな」


 パンティを指でくるくる回しながら、高槻くんが口を挟んだ。わたしに羞恥心はあるよ。だって今羞恥で体が震えるもの。それともこれは怒りかな?


「そもそもなんで、こんな物が落ちてるんだよ」

 野崎が躊躇いがちに言う。すると、高槻くんが唐突に「そこだよ!」とパンティを引っ掛けた指を野崎に向けた。指さされた当の本人は「は?」とよく分かっていないようだ。

「何故こんな物が落ちているのか。本来、パンティなど着用しているのだから落としようがない。つまり、これを落とした女子はノーパンなのか、と先輩はそう言いたいのだろ?」

「違う。断じて違う」と即座に野崎は否定したが、女性陣は彼を睨みつけた。

「実にラブコメ的発想だ。さすが先輩」

「違うって言ってんだろ」

 野崎が高槻くんの頭をはたく。

「く……ッ、ミリオンセラーのアイディアが消えたらどうしてくれる!」


「まぁ、女子はほら、女の子の日とかもあるから。さしておかしくはないでしょ」とわたしが言うと、「体育で履き替える人もいるしね」と一ノ瀬さんも頷いた。

「そうなると、たとえば体育とかで履き替えて、更衣室からの帰りがけに落とした可能性があるな」


 野崎が一例を提示すると、またしても高槻くんが野崎にパンティを向けた。


「なるほど! つまり、先輩はこれが使用済みのパンティだ、ということを言っているんだな?」

 思いがけない曲解に、ぶふぅ、と野崎が噴き出した。女性陣の軽蔑の眼差しが再び野崎に注がれる。

「言ってねーわ!」

「野崎くん……ちょっとそういうやらしい考えはどうかと思う」と持田さんが伏し目がちに、しかしはっきりと、遺憾の意を示した。何故その非難の先は高槻くんではなく野崎なのか。高槻くんは何か人から標的にされないバリアでも張っているのだろうか。

 野崎は他でもない持田さんに言われたことに深いショックを受けたようで、がっくりと項垂れた。


「先輩の気持ちはおれにも分かる」と尚も高槻くんは止まらない。

「お前は俺を社会的に殺す気か……」

「サイテー……。変態かよ」と一ノ瀬さんが毒を吐いた。

「サイテーでけっこう。だが、使用済みか否か、がラブコメ的にかなり重要なポイントであることは揺るぎようのない事実だ。同時に使用前か使用後かという問題は、どこでパンティが拾われたのか、という問題にも繋がる。そこで——」


 高槻くんはおもむろに立ち上がると、スチール棚の上に置かれたダンボールを慎重に下ろし、中から透明の液体を取り出した。そして、同じくダンボール内にあった霧吹きに液体を移し替えていく。


「……何それ」

 わたしの問いに高槻くんが振り向いて悪い顔で笑った。

「ニンヒドリン溶液だ」

「なるほど」とわたしは見栄を張ってとりあえず頷いた。が、結局疑問の方が勝った。「で、何それ」

「アミノ酸などに反応して青紫色に発色する試薬です」

 持田さんが静かに回答した。相変わらずの博識ぶりである。

「アミノ酸だけじゃない。タンパク質や尿素——つまり、汗や垢に反応する。こいつを吹き掛ければ、そのパンティが使用済みか否か、はっきりするという訳だ」

「え、あ、ちょ、待——」


 高槻くんは言うが早いか、躊躇いも恥じらいもなくニンヒなんとか溶液をパンティに吹きかけ出した。そして、ダンボールを再び漁ると、小型のアイロン台とアイロンを取り出す。アイロンは電源コンセントに繋がれると、すぐに熱くなった。


「ニンヒドリン反応は熱することで呈色する」

 高槻くんはそう言いながら、手際よくパンティにアイロンをかけはじめた。高槻くんの細い指が、パンティの大事な部分に触れる。なんでそのデリケートな部分を持つ! もはや見ていられなかった。


 皆は立って高槻くんを囲むように近寄った。

 パンティの元の色もあって少し分かりにくいが、それでも誰の目にも明らかに変色が見えた。一番大事な部分がより濃く青紫に変色している。


「決まりだな」と高槻くんは片方の口角を吊り上げた。「間違いなく使用済みだ。つまりこれは、ラブコメ性が高い」

「なんだしラブコメ性って。意味分かんない。キモい」と一ノ瀬さんが一蹴して、パンティを高槻くんから奪い返した。「履いてたかどうか、なんてどうでもいいから。知りたいのは、コレがどこの誰の物か、ってことだけだし」


 どうでもいい、とか言いながら一ノ瀬さんは人差し指と親指でばっちい物を触るようにパンティをつまみ上げていた。いくら使用済みだからってそんな持ち方しなくても。


「名前とか書いてないのか?」野崎が訊く。

「いやいや、高校生にもなって下着に名前なんて書く人——」


 一ノ瀬さんがパンティに目を向けて、固まった。


「——なんか書いてあるんですけど!」


 女性陣と高槻くんは即座にパンティに目を向けた。野崎は少し逡巡してから鼻の下を伸ばしてパンティを見る。最低。

 パンティのタグには油性マジックでハッキリと字が書かれていた。


 ——0円


「0円さん?」とわたしは首を傾げて皆を見る。

「そんな名前のやついないだろ」

「タダってことじゃん? タダでもらったパンティ」

 わたしはしみじみ頷いた。「姉妹間のおさがりとか? わたしも妹いるから分かるなぁー。下着のおさがりは流石にないけど」

「いや、それをマジックで書くって、どういう状況だよ」と野崎くんが指摘した。


 ヒントを得たと期待した一同は、そのヒントで、余計に混乱した。高槻くんだけが飽きたのか、文庫本に戻っていった。


「このメッセージも訳が分からないけど、私はこのタイミングで忘忘ボックスに入っていたことも気になります」と持田さんが言う。

「確かに! 昨日まで、こんな物なかったし。まだ月末じゃないのに、忘忘ボックスの中身が増えるなんて変ですよね! 持田先輩」


 忘忘ボックスは月末に、教師の手によって追加あるいは廃棄される。今日は16日。つまり問題のパンティは教師によって追加された物ではない。


「まぁ物が物だけに正規の忘れ物ボックスに届けづらい気持ちは分かるよな。晒し者にするのを避けるために、直接生徒会の忘忘ボックスに届けたんじゃないか?」

「なら、昨日、体育があったクラスに持ち主がいるってことじゃない?」


 これでだいぶ持ち主が絞られた、と喜ぶ一同に、高槻くんの鼻で嗤う息遣いが割り込んだ。


「昨日体育があったクラスが3クラスあれば、候補者は優に100人を越すぞ。絞られたとは言えないな」

「はぁ?! 全く進まないよりかはマシでしょ!」

「いや、全く持ち主を見つけようとしない方が利口な選択だ。そんなちっぽけな情報で見つけられる訳がない」

「そ、そんなのやってみないと分からないでしょ!」と尚も一ノ瀬さんが食い下がる。

「そうか。ならば、やってみるといい。で、どう『やってみる』つもりなんだ?」


 ぐぎ、と奥歯を噛む音が聞こえた。誰もが高槻くんの言うことに理があると分かっていた。

 持ち主が昨日体育があったクラスの女子であったとしても、そこから先の情報がなければどうしようもない。

 収拾がつかなくなれば、わたしの出番である。わたしは満を持して声を上げた。


「そうだね。これ以上は通常業務に支障が出るね。仕方がない。持ち主探しは諦めよう。後でわたしが先生のところに持っていくから」


 一ノ瀬さんは少し不満げだったが、反論する材料が思い浮かばなかったのか、結局は黙って頷いた。

 そして、各々——当然、高槻くんは除くが——通常業務に戻り、夕方になるといつものように解散となった。

 事態が急変したのは皆が帰ってからだった。

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