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「俺、帰ります。お邪魔しました。」
声は多分、揺れていた。自分では上手く認識できなかったけれど。男は少し笑って、また来て、と言った。俺は、誰が来るか、と思った。すると男が、俺の内心を読んだみたいにさらりと口を開いた。
「康一には、彼女がいたみたいだね。」
俺は、黙っていた。亜美花さんのことをはっきりと思いだしていたけれど、それをこの見ず知らずの男に教えてはいけないと思った。けれど、この男が亜美花さんについて知っているということは、兄貴が自分で話したということになる。意外だった。兄貴はその手のことを簡単に口にする性格ではないと思っていた。俺がそんなことをぐるぐる考えていると、男は笑ったままの唇で言った。
「弟も、その彼女のことを好きだって言ってたよ。」
チャンスなんじゃないの。
からかうみたいな物言い。
俺は頭に血が上って、一瞬突っかかりそうになった。でも、突っかかれば男の言った内容をそのまま認めることになる。チャンスなんじゃないの。男の言葉は、嫌な温度で俺の頭に焼きついた。
「康一が戻ってくるまで、待てばいいのに。お母さん、心臓よくないんでしょ。」
さらに男が言葉を続けた。また俺は、そんなことまで話しているのか、と、驚いた。ヒモ、と、この男は自分のことを称したけれど、俺には周りにヒモもヒモと暮らしている人もいないから、ヒモと恋人の違いなんて分からない。でも、こんなに自分の個人情報を明け渡している時点で、それはもう、恋人なのではないだろうか。
「……あなた、ヒモって言ったけど、兄貴の恋人なんじゃないの。」
「康一の稼いできた金で食ってるんだから、ヒモだと思うけど。」
「でも、兄貴は、あんたのこと……、」
「それ、なんか関係ある?」
にっこりと微笑んで、男はそう吐き捨てた。俺は、その問いに答えることができなかった。ただ、兄貴はなんでこんな男と暮らしているのだ、と、内臓が焼けるような気分になっただけで。
俺がアパートを出ようとしたら、男はなぜか、玄関の外まで見送りに来た。俺は、男が送ってくれているのに気が付いていないみたいな顔をして、足早にアパートを離れた。駅までの道のりを速度を落とさず歩きながら、俺はポケットのスマホを取り出す。母親からの不在着信が残る、スマホ。そして俺が電話をかけたのは、母親ではなくて、亜美花さんだった。
チャンスなんじゃないの。
男の声が、脳味噌のどこかうらっかわの方からぼんやり聞こえていた。
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