祖母のメイクポーチ

柊 奏汰

祖母のメイクポーチ

 忘れられない記憶って、もっと幼い頃の幸せなものだと思っていた。でも、あたしにはその「当たり前の幸せ」がなかった。

 母とその両親は、母が結婚するときに絶縁していた。母は結婚するときに両親のひどい反対に遭ったらしく、家出同然で実家を飛び出したのだと聞かされていた。でも、あたしには父がいなかった。母が妊娠している間に、新しい女性を作って家を出て行ったクズ男だった。母の両親はそれを見越したうえで結婚に反対していたのだと後で気付いても、もう遅かった。妊娠を機に寿退社するつもりだった母は、職を失い、夫も失い、あたしが産まれてすぐに夜の店で働き始めた。あたしは母の店に連れて行かれ、母の同僚だという人たちがかわるがわるあたしの世話をしてくれていたんだそうだ。

 そんな母があたしを残して消えたのは、高校生になってすぐの4月のことだった。夜の店で働いている間、言い寄る男をひっかけては別れることを繰り返していたが、ある日再婚してくれる資産家が見つかったということらしい。でも子連れだと知られると断られるかもしれないからあたしは置いて行く、と、たった1枚の紙切れに書かれた手紙には記されていた。あたしは母の人生にとっては重荷でしかなかったのだと、嫌でも悟った。


 しかしその数日後、母の母だという人が、私が一人暮らしをするアパートに訪ねてきた。

「璃々衣(りりい)ちゃん、ずっと会いたかったんだよ」

 私の目の前に現れた祖母は、一言目にそう言った。母以外の親類とは全く関わりのなかった人生だったから、そういう人達にあたしが認知されることも無いだろうと思っていた。あたしは特に会いたいと思ったことはなかった。でも、祖母は母が妊娠しているということをどこからか噂で知り、あたし達のことを調べ、ずっと会う機会を伺っていたのだと言った。しかしそれも、全て母から拒否されてしまったようだけれど。

 その日から、私と祖母の奇妙な関係が始まった。週に1度だけ、大好物だというプリンを持って日曜日にうちにやってくる祖母。彼女を部屋に招き、学校の授業のことや部活のことなんかを1時間だけ話して、一緒に夕飯とプリンを食べると帰っていく。そんな日々がしばらく続いた。特別なことを話すわけではなかったけど、母とは違う雰囲気のその女性に特別な感情を抱くようになったのは、やはり母を失った寂しさゆえだったのだろうか。

「…桜子さんは、毎週うちに来て楽しいの」

 あたしはおばあちゃんと呼ぶのが少し気恥ずかしくて、祖母のことを名前で呼んだ。祖母はそれでもあたしが話し掛けると嬉しそうに顔を綻ばせて、優しくあたしに語り掛けるのだ。

「そりゃあ楽しいよ。ずっと会いたかった孫と一緒に過ごせる時間は宝物なんだよ。本当は毎日でも来たいんだけれど、そこまで近い距離に住んでいるわけではないからねえ」

「え、じゃあどうやって来てるの」

 その時初めて、実は電車を1時間も乗り継いで来なければいけないほど遠くに住んでいるのだと知った。あたしのために。そんなに長い時間を掛けて。そのことが少しだけあたしの心を温めたのは、祖母には恥ずかしくて言えなかった。


 7月のあたしの誕生日。誕生日なんて、ただの365日のうちの1日、そう思っていた。あたしが産まれた日付なんて、母から祝ってもらった記憶はない。母はいつも仕事で必死で、自分を見てくれる男を探すのに必死だったから。誰にも明かされず、認知すらされず、そのままずっと大人になっていくんだろうなんて思っていたその日、祖母は綺麗にラッピングされた包みを1つ、私の部屋に持ってきた。

「はい、璃々衣ちゃん。お誕生日おめでとう」

「…これは?」

「お誕生日プレゼントだよ」

「誕生日にプレゼントなんて、貰ったことない」

「じゃあ生まれて初めてのプレゼントかい?もっと特別なものにすれば良かったかねえ」

 包みの中にはあたしが大好きなキャラクターのメイクポーチと、丁寧な文字で書かれたバースデーカードが入っていた。それが祖母の字だと分かった途端、ぽた、と何かが手の甲に落ちた気がした。それが自分の涙だと気付いたのは、祖母がハンカチで優しく頬を拭ってくれたからだった。

「…どうして。悲しくなんて、ないのに」

「悲しくないのに涙が出たのなら、きっと喜んでくれたってことかねえ」

「…嬉しい、のか」

 ずっと母から必要とされない子供だと思っていた。でも今は、私の誕生を祝ってくれる人が目の前にいてくれている。きっとそれがあたしにとっては、思わず涙を流してしまうほどのすごくすごく特別なことだったらしい。そっか、あたしは嬉しいんだ…そう思ったら、涙はとめどなく溢れてきて、しばらく祖母のハンカチを借りて泣いてしまった。祖母はその日だけ、夕飯が終わっても終電まで一緒に居てくれた。


14年後。

「璃々衣、あんたまだそのポーチ使ってんの?」

「それって高校の時に使ってたやつじゃない?」

 30歳記念の高校の同窓会で、あたしのメイクポーチを見た友人が目を丸くする。そこにはあの日からだいぶ古びてしまった、祖母から貰ったあのメイクポーチがあった。きっと年頃の女性はもっと綺麗でお洒落なメイクポーチを使うのかもしれない。でも、あたしはそのメイクポーチを持って目一杯の笑顔を浮かべた。

「うん、これはあたしの宝物だから!」

 あれから祖母は毎年誕生日を祝ってくれ、色んなプレゼントをくれた。でも、産まれて初めて貰ったこのポーチだけは特別で、一生忘れられないプレゼントなんだ。祖母はもう自分でうまく歩くことができなくなって、施設で寝たきりの生活を送っているけれど、今度は毎週、あたしから会いに行くんだ。

「おばあちゃん、お誕生日おめでとう」

 祖母の大好きなあたしの笑顔と、祖母の大好物のプリンを持って。

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