第13話 汗拭き
古橋主任の作ってくれた料理のお陰でお腹がいっぱいになり、元気が出たような気がした。
そのあと薬を飲んで、また寝ることになるが、本当に何から何までやってもらって……。
今、古橋主任はといえば、キッチンで食器洗いをしてくれている。彼女の後ろ姿はどこか新婚生活が始まったばかりの新妻のようで——って何を考えてるんだ俺は。
昨日だって祈里は同じことしていたじゃないか。いや、昨日の俺はベッドから動くことすら辛かったから、リビングでは過ごさなかったんだった。だから祈里がキッチンで動く姿は見ていない。
祈里もそうだけど、古橋主任も凄いなぁ。仕事が忙しいはずなのに、料理までできるなんてどこまで超人なんだ。
俺が勝てるところなんて一つもないじゃないか……もしかして、こういう何でもできちゃうところが古橋主任が男を寄せ付けない理由になっているのだろうか。
人はどこか抜けているところがあるから良いという話もある。
でも、振り返ってみれば古橋主任だって、食べられない野菜があったり、妹にはめっぽう弱かったりしていた。そういうことがなかなか表にでないから、完璧超人に見られてしまうのではないだろうか。
「古橋主任……今日もお仕事お疲れ様です」
俺は自然と声が出ていた。
「ん、なんだいきなり。言うならもっと先じゃないか?」
「そうですね——でも、今言いたくなったんです」
「ふふ……。そうか、ありがとう」
キッチンに立っているのでこちらには顔を向けていないが、なんとなく声音から嬉しそうにしている古橋主任の様子が伺えた。
「——それと弱っている君に一つだけ報告だ。先週用意してくれた資料だけどな、たくさん不備があったぞ。吉良坂が少し怒ってたな」
「ううぇえっ!? 吉良坂先輩ですか!?」
「ああ、君が今日会社を休んだからな、その分吉良坂にシワ寄せが行ったということだ。次出社した時には礼を言っておくんだぞ」
「わかりました……ああ、やってしまった……」
吉良坂先輩とは、うちの班でリーダーを務める二歳年上の吉良坂凛だ。
彼女は同じフロアでは一番の美人と言われている人物なのだが、いつも何を考えているのか、表情からは全く読み取れない人物でもある。
ただ、なぜか彼女はとても仕事ができる人で次の主任候補でもある。もし古橋主任が上の役職になれば、吉良坂先輩が主任になるだろう。
◇ ◇ ◇
それから落ち着くと、俺はベッドで寝ようと寝室に戻った。
しかしなぜか古橋主任が俺のあとをついてきて、部屋まで入ってきたのだ。
「ええと……今日はありがとうございました」
ずっと俺の面倒を見させるのも悪いし、遠回りに帰った方がいいんじゃないかと伝えた。
「何を言ってるんだ。君の汗を拭く。あと着替えだ」
「な、何を言ってるんですか!?」
ちょっと本当にこの人は何を言ってるのだろう。
だって、汗を拭くって言ったって、俺が上半身裸になるということじゃないか。
「い、いいから早くパジャマを脱ぐんだ! さっき温かいものを食べてまた汗をかいただろう。そのままじゃだめだ」
「そ、そんなの自分で…………」
「まだ体はうまく動かせないんだろう。そのままだと背中を拭くのは大変だ」
なぜか古橋主任は強引に俺の背中を拭こうとする。今までの古橋主任なら、こういうことは恥ずかしがりそうなのに……。
「僕はもう大人ですよ?」
「そんなに私に拭かれるのは嫌か……?」
「嫌なわけ……って、僕がそう言われたら断れないってわかってて言ってません!?」
「そ、そんなわけ……それに、君は私の下着姿を見たじゃないか。私にだって上半身くらいは見る権利はあると思わないか……?」
「なっ……」
なんてズルい返しなんだ。
俺だって脱ぐのは恥ずかしいのに、そんな事言われたら本当に断れないじゃないか。
「こ、今回だけですからね……」
「人はそんなに風邪は引かない。今回だけなのは確実だろう」
「じゃあ……」
体を拭くことが決まってから、古橋主任はタオルをお湯で温めて絞ったものを用意してくれた。
俺はベッドの上でパジャマのボタンを外していき、上半身裸になった。汗をかいたせいか、脱ぐと少しスースーする。
「では、失礼する……」
「ぁ……っ。気持ちいいです……」
「そ、そうか……」
背中に濡れタオルを当てられると、その温かさと汗が拭き取られていく気持ちよさに声が出た。
痛くないように俺の肌を綺麗にしていく古橋主任の手からは優しさを感じられた。
◇ ◇ ◇
私は音無くんの上半身の裸を見て、ゴクリと息を飲んだ。
男の上半身の裸をこんなに間近で見たのは、初めてと言ってもいいくらいだ。
音無くんの背中は思いの外、大きかった。私も女性の中では身長が大きなほうかと思っていたが、音無くんと比べるとそうではないらしい。身長というより体格だろうか。
そういえば、イルカの水しぶきから守ってくれた時も、彼の背中が大きかったお陰で濡れるのを防げたのかもしれない。
もっと痩せているかと思えば、意外と筋肉質で、男の人の体はこうなっているのか……。これが、男らしい……そういうことなのだろうか。
服を脱いだ時に感じた、もわっとした音無くんの汗の匂い。
男の汗臭い匂いは苦手だ。だからうちの会社は女性がたくさんいるせいか、不快な匂いは少ない。
でも、なぜか音無くんの匂いは嫌だとは思わなかった。
「腕を上げてもらえるか?」
「あ……はい」
手から体に向けてタオルを動かし、そして脇から脇腹までを拭いていく。
もう片方も同じく拭いてあげると、私は音無くんの前へと移動した。
というか、自然とベッドの上に乗っているが、私はなんてことを……いや、今はそんなことはいい。
移動すると見える、うっすらと浮き上がっている腹筋。やっぱり多少は筋肉があるんだなあと感じながら、私は彼の首からタオルを這わせていく。
「ちょ……古橋主任……」
「なんだ?」
「て、手つきが……なんだかいやらしいです」
「な、何を言ってるんだ! そんなことは……良いから静かにしてなさいっ」
「は、はい……」
私がいやらしい手つきで音無くんの体を拭いていただと?
そんなわけあるはずがないだろう。
だって、ただタオルで体を拭いていただけなのに、そんなことを思う音無くんの方がいやらしいじゃないか。
何なんだこのうるさい心臓は。
私の心臓はいつの間にか鼓動が早くなっており、どうにかなりそうだった。
音無くんの胸板と腹筋。見たことのない生の男の体を見て、私が興奮でもしているというのか?
彼は妹の彼氏だ。そんな気持ちを抱いていいわけがないだろう。
そもそも祈里があんなメッセージを送ってこなければ——。
なぜ私が、音無くんの体を拭くことになったかと言えば、それは、ご飯を食べている時にスマホに届いていた祈里からの『ルイン』のメッセージが原因だ。
『お姉ちゃん、ゆうくんの様子はどうー? それと、追加でお願いしたいことがあるの。ゆうくん汗いっぱいかいてると思うから体を拭いてあげて? ちゃんと拭いてあげないと、予約してた温泉旅行、一緒に行ってあげないからね〜』
私の趣味とも言える温泉。
私は温泉が大好きなのだ。まさかそれを人質にとるとは……。
大好きなはずの温泉だけど、一人で行くのはどうしても寂しい。だからいつも祈里を誘って行っているのだが、祈里が行かないとなれば行けなくなるも同然だった。
「はい、これでおしまい。あとは着替えを取ってくれるけど、どのタンス?」
なんとか体を拭き終えた私は音無くんの着替えを取りに一度ベッドから立ち上がる。
「わざわざすみません。ええと、すぐそこのタンスの一番上にTシャツが入ってると思います。無地のやつを家着で使ってるので、それでお願いします」
「わかった」
そうしてタンスの一番上の引き出しを開けて見ると、Tシャツが何枚か折りたたんであった。
「…………っ」
しかしその隣に音無くんのパンツも並んでいた。
なぜパンツとTシャツが一緒に? こんなに綺麗に畳んでいるのだから、置く場所もちゃんと揃えておけばいいものの……。
そうは言ってもあまり見たことのない男物のパンツに目を奪われてしまう。
黒やグレーのボクサーパンツが多く、他にはトランクスのようなものも置いてあった。パンツの種類は揃えていないのだろうかと思いつつも、ぴっちりとしたものやゆったりとしたものを使い分けることで開放感が違うのだろうかとも考えてしまった。
「————っ」
今はそんなことを考えている場合じゃない。早くTシャツを持っていってあげないと、風邪をこじらせてしまうかもしれない。
「古橋主任? どれかわかりましたか?」
「あ、ああ——」
『ガチャリ』
ちょうどTシャツを取ろうとした時だった。
玄関の方でドアが開く音が鳴ったのだ。そういえば鍵は閉めてなかったような……。
「ん……?」
「あれ。もしかして祈里が来たんでしょうか?」
「ちょっと待っててくれ。私が迎えに行こう——あ、でもTシャツ……」
「良いですよ。そのくらい自分でとりますから」
「そ、そうか……わかった」
何もさせないつもりだったのに、結局は音無くんに任せてしまった。
そうして部屋を出て玄関に向かったのだが——、
「弟よー! 君の大好きなお姉ちゃんがやってきたぞー!!」
「え…………?」
祈里ではなかった。
それに今、『お姉ちゃん』と言ったか……?
中に入ってきたのは、私の年齢に近いような綺麗な女性。
髪を明るく染めたストレートなミディアムヘアをしている大人っぽい人物。
「ま、まさか……! あなたが悠樹の彼女さん!?」
「え、え……っ!?」
「きゃー! 美人! 美人過ぎる! あいつこんなに可愛い彼女を持っててなんで今まで紹介しなかったのよ! しかもデカい! 胸がデカすぎる! ……こんなものを一人で堪能しやがって……許せん!」
突然一人でマシンガントークをされ、私はついていけなかった。
オドオドしていると、音無くんの姉と思われる人物が、靴を脱いでズカズカと部屋へを入っていく。
「悠樹はどこ?」
「え……寝室にいますが……」
「ありがとう!」
とても元気な彼女は、そのまま私を通り過ぎ、音無くんの寝室へを向かう。
というか、このまま家に入れて良かったのだろうか。姉弟とはいえ、プライバシーもあるだろうし……。
「悠樹ー! いるかー! お姉ちゃんがやってき——って、裸ぁぁぁっ!? ま、まさか彼女と今までナニを!? ナニをしてた!? もしかして私、ヤバいタイミングで来ちゃった!?」
「ちょ……は!? 姉ちゃん!? なんでここに!? ってかなんだよナニって! 絶対勘違いしてるだろ!」
「勘違いって何よ! 彼女と二人きりでしかもあなたは少し汗ばんでて……どうみても事後じゃない!」
「あぁ……声を出したら頭が痛くなってきた。ちょっと休ませてくれ……」
「ちょ……え? あんたどうしたのさ。え、え……っ!?」
そんな問答が繰り返されるなか、私も寝室に向かうと、音無くんがTシャツを持ったまま地べたに座り込んでいた。
「お、音無くん? 大丈夫か? 声を出して頭に血が上ったか? いい、それ着てベッドで休んでろ」
「あ……はい……」
私は音無くんを支えながらベッドに運び、横にならせて、とりあえず寝かせることにした。
すぐ後ろで棒立ちしていたお姉さんは心配そうな顔をしていたが、少状況を理解したのか、音無くんがベッドで横になるまで静かにしていた。そして——、
「あの……良ければリビングの方で話しましょうか……?」
「そ、そうね! なんだか勘違いしちゃってたみたいだし……ごめんねっ」
まさかの音無くんの姉と鉢合わせてしまったことによりあらぬ誤解を受けたが、ちゃんとそれを解かないといけないので、リビングへと移動してお話することにした。
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