第12話 主任の看病

 体が熱くて重くて、頭も少し痛む。ベッドから出る気がしない。

 ただ、水分は大量にとっていたので、トイレにだけは行かなくてはいけなかった。

 重い体をなんとか起こし、壁を伝ってトイレまで行ったあとは、また水分をとってベッドで寝ての繰り返しだ。


 昨日の日曜日は祈里が看病をしにきてくれて、飲み物や軽い食べ物を買ってきてくれたので、外に出なくてもなんとか過ごすことができた。

 

 しかし、月曜である会社の日になっても熱は下がらずにいたため、有給を使って会社を休むことにした。

 祈里も日中は会社なのでもちろん看病には来られない。少し寂しい思いはしながらも、彼女がいるだけ俺は恵まれているのだろう。



 ◇ ◇ ◇



 しばらく寝ていると、既に外は日が落ちてきて夕方になっていた。

 少し回復したのか、朝よりもすっきりとしているような気がした。


 一度熱を測ってみる。……三十七度八分。完全には復調したわけではないようだ。


 再びトイレに行こうとするが、やっぱりまだ体は重い。

 ゆっくりと移動しながらなんとかトイレを済ますと、玄関の方でガチャリと鍵が開く音が鳴った。


 そういえば、もう会社が終わる時間かと思い、合鍵を渡している祈里がまた看病に来てくれたのだと、壁に手をつけたまま玄関へと近づいた。

 鍵が開き、ドアが開いていく。


「お、音無くん……お邪魔しま~す……」


 俺を起こさないようにか小さな声でこっそりと入ってきた祈里。


 …………おとなし、くん?


「あ、あれ……古橋……主任?」


 なぜかそこには祈里ではなく古橋主任がいたのだ。

 しかも俺の合鍵で鍵を使って……。


「……今日は祈里の仕事が忙しいらしくて、代わりに行ってほしいと言われてな……体調はどうだ? 少しは良くなったか?」


 古橋主任は俺の部屋に緊張しながら入ってきて、ことの経緯を説明した。

 ただ、俺は風邪で頭が働いていないせいか、古橋主任が俺の家にいる状況がまだ理解できずにいた。


「え……ええ……あだっ!?」

「音無くんっ!?」


 驚いたこともあり、壁から手を離してしまった結果、うまく力が入らず足をもつれさせて転んでしまった。


「い、いだい……」

「ちょっと音無くん……っ!?」



 ◇ ◇ ◇



 受け身が取れず床に顔面からダイブしてしまった俺は鼻血が出てしまっていた。

 古橋主任が鞄に入れていたティッシュをくれたので、それを鼻に詰め込んだ。


 そのあとゆっくりと自分の部屋まで移動し、そのまま古橋主任もついてくることになった。


 ……なぜ、こうなっているのか。


 その理由はもちろん祈里にあると思うのだが、古橋主任が自分の部屋にいる状況がどうしても緊張して、落ち着かない。


「本当なら祈里が来てくれればよかったんだがな。私も今日は忙しくなかったから、お願いされたこともあり様子を見に来たんだ」


 会社の人が休んでもその様子を見に行こうなどという人はいないだろう。もしいるとすれば好意があるとか、そういったことしか思い浮かばない。

 でも今回の古橋主任は、妹の彼氏が職場の後輩といったなかなかないシチュエーション。その奇跡的な繋がりによって彼女は今ここにいる。


「古橋主任でも嬉しいですよ……人に心配されるのって結構いいもんですね。特に風邪引いてる時って、結構寂しくなるもんですから……」

「そうか。そうだろうな。私も熱を出した時は祈里に看病してもらってな、その時は姉妹のありがたみを感じたよ」


 二人は素敵な姉妹だ。一緒に暮らすくらい仲がいいし、こうやって看病もし合っているのだろう。


「というか音無くん。私のことは良いから、ベッドで寝てなさい?」

「あ……はい。でも、お腹空いたので、何か冷蔵庫から取ってこようかと……」


 俺がそう言うと古橋主任は軽く息を吐いたあと、俺の目を真っ直ぐに見て、


「今日は私が君に夕食を作るよ。卵のお粥くらい食べられるだろう?」

「え……えっ。古橋主任が……ですか?」

「そうだ。それとも私の料理は嫌か?」

「いやっ! 全然です! 前にも祈里のお家で鍋作ってくれましたし!」

「ふふ。ならしばらくベッドで寝てなさい。ちょっとキッチン借りて、勝手に冷蔵庫も開けるぞ? 祈里が食材は置いていってあると言っていたからな」

「あ……はい。ありがとうございます……」


 なんだか、今日の古橋主任はお母さんのような優しさだった。

 どこか儚げな表情だし、やはり相手が弱っていると古橋主任でもとことん優しくなるのだろうか。


 俺は古橋主任に言われた通りにベッドへと入り、お粥ができるまで眠ることにした。



 ◇ ◇ ◇



「んん……」


 ちゃんと眠りに落ちたのか、その感覚から寝たように感じた。

 うちの間取りは1LDKだが、寝室の扉が少し開いており、そこから良い匂いが漂ってきていた。

 俺の胃袋が一気に刺激され口の中によだれが溜まっていく。


「うまそうな匂い……」


 するとちょうど扉が開き、古橋主任がやってきた。


「お、起きてるな。ご飯できたぞ」

「ありがとうございます……」

「どうだ? 動けそうか? 難しそうなら、この部屋に持ってくるが」

「リビングで食べます……」

「そうか。なら、ゆっくり起きがって、あっちの部屋に行こう」

「はい……」


 古橋主任の気遣いが嬉しい。普段はなかなかこういうことをされないから、尚更嬉しく感じてしまう。

 心配そうな顔をしている古橋主任を横に、俺はゆっくりとリビングへと向かい、ローテーブルの前に腰を下ろした。


「わあ……」

「私も一緒にここで夕食をとってもいいか?」

「も、もちろんです!」


 目の前にあったのは、卵やネギや鶏肉、それにほんほりと生姜のような匂いが混ざった美味しそうな卵粥がそこにはあった。

 それにその隣にはもう一品。なんと煮込みうどんが置いてあり、こちらもめちゃめちゃうまそうだった。


「君はお粥で私は煮込みうどんだ。じゃあ、一緒に食べようか」

「は、はいっ」


 俺たちは一緒にいただきますをして、食事にありついた。


 俺はお粥だったので、スプーンで器から掬って口に運ぶ。まだ熱々で少し火傷しそうだったけど、とんでもなく美味しい味だった。今日はずっと食べ物を食べていないからかもしれない。かき込むようにしてどんどん胃袋へと投入していった。


「うまいっ……うまいっ……」

「音無くん、もうちょっとゆっくりと食べなさい? いきなりお腹に食べ物をたくさん入れたら胃袋がびっくりするでしょう」

「でも、美味しいんですもん! 手が止まりませんっ」

「音無くん……」


 体に染み渡るお粥の味。そして熱々の温度によって、俺の体もぽかぽかしていくのを感じた。もう喉は痛くないらしく、次々とお粥が喉を通っていった。


「ほら、水もあるから」

「ありがとうございますっ」


 古橋主任がコップに入った水を前に出してくれて、それを受け取ると喉の熱さを冷却。そうしてまたお粥にありついた。


「…………」


 もう全部食べてしまった。

 お腹が空いていたのと、美味しかったこともあり、すぐに平らげてしまっていたのだ。

 俺は古橋主任の器に入っている煮込みうどんを見つめた。


「はは、なんだ。うどんも欲しいのか?」

「あ、いや……」

「一度ご飯を口に入れたからか、食欲が湧いてきたみたいだな。……いいぞ、食べても」

「ほんとですかっ! ありがとうございます!」

「まだ鍋に残ってるから、それをとって——って、音無くん!?」


 俺は古橋主任に食べても良い承諾をもらったので、すぐにうどんの器をとって口に入れた。


「うわ……なんだこれ! めちゃめちゃうまいぞ……っ」

「ちょっと音無くん……」

「え……あ……?」


 次々とうどんをかき込んでいくなか、古橋主任が少し顔を赤くしてこちらを見ていた。俺は何のことかと思い、よく手元を見てたのだが、答えはすぐに見つかった。


「す、すすすすすみませんっ! 勝手に箸を……っ!」


 俺は自然と古橋主任が使っていた箸に手を伸ばしており、そのまま使ってしまっていたのだ。食べることにしか頭がいかずなんて行動をしてしまったのだ。


「ま、まあ……音無くんなら、いいけど……」

「いいんですかぁ!?」

「ちょっと、変な反応しないでくれ。その器と箸はそのまま使ってくれていい。私は別の器に新しいうどんを入れてくるから」

「あ…………すみません」

「ふふ。謝らなくていいぞ。そのくらいで怒りはしない。……少し恥ずかしかっただけだからな……」


 そう言って古橋主任はキッチンへと向かい、少し温めてから新しいうどんを持ってテーブルに戻ってきた。



 ◇ ◇ ◇



 祈里に言われたとはいえ、まさか私が音無くんの家に来ることになるなんて……。


 音無くんの家は一般的なマンションだが、築浅なのか綺麗な外観をしていた。中に入るとちょうど彼がいて驚きはしたが、私より驚いたのは彼だった。まだうまく力が入らなかったのか、その場で転んでしまい、顔面が床に直撃したせいで鼻血なんて出しまっていた。


 人が鼻血を出しているところなどいつ振りに見ただろうか。ともかく私はすぐにティッシュを取り出して彼に渡した。

 一緒にベッドに向かうと、彼が弱っている様子がよく見て取れた。水族館でペンギンを見て騒いでいたような明るさは見る陰もなかった。


 私は男性が一人暮らししている家に行ったことがない。

 昔、一瞬付き合った人であっても、家に行くことはなかった。家飲みする相手がいたとしても、それは女子であり、男性ではなかった。


 だからこの家はとても新鮮で、男の人の匂いがした……。


 私がなぜ看病に来たかと言えば、もちろん祈里に言われたからである。でも、水族館でイルカの水しぶきから音無くんが私たちを守ってくれて、恐らくそのせいで風邪を引いたから、その恩を返そうとも思っていた。


 力ない彼の顔はどうしてか優しくしてあげたい気分になり、今日は私がいる間は彼にはできるだけ何もさせないことに決めた。


 その後は、元々何かご飯を作ってあげようと思っていたので、彼が眠っているいるうちに作ることにした。


 冷蔵庫を開けると、男性らしいというか、祈里が整理しているはずだが、少し物がごちゃごちゃしていた。冷蔵庫を見ればその人の食生活がわかるというが、彼は納豆が好きらしく、いくつかストックされてあった。それに缶ビールや缶チューハイも常備されていた。


 食器類を見ると祈里と一緒に使っているのか、お揃いのようにセットになっている箸やお皿などを見かけた。私は自分の分を作るのに、祈里のものを勝手に使っては悪いと思い、あまり使っていないようなものを使わせてもらった。


 ちょうどよく冷蔵庫にうどんもあったので、お粥を作るついでに煮込みうどんも作り一緒にご飯を食べることにした。なかなかの出来だとは思ったが、音無くんがあれほど喜んでくれるとは思わなかった。作り甲斐がある子だなとは思ったが、この時、私は彼のことを可愛いと思ってしまった。


 祈里が音無くんのことを可愛いと言っている理由が少しわかった気がする。

 たまに見せる子供っぽいところが、女性からすると母性をくすぐられるような行動に見えているのかも知れない。


 そんなことを考えていると、音無くんはまだ食べたりないようで、鍋に残っていたうどんを入れてこようと思っていたのだが、それを勘違いしたのか急に私のうどんを食べ始めてしまった。


 多分、大人になっていちいち気にする人は少ないのだろうが、私はそういった経験があまりない。だから、たかが箸でも間接キスだなんてことを考えてしまい、顔が熱くなってしまった。


 でも、存外嫌ではなかった。

 多分、祈里が好きだと思っている人だからなのかもしれない。他の男性だったら突き飛ばすくらい怒っていたと思うが、彼なら、まあいいか……なんて思ってしまった。


 これって、どういう感情なのだろうか。

 私は音無くんに心を開き始めているということなのだろうか……。






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