第9話 主任の異変

 翌朝、俺はいつも通りに会社へと出社。

 フロアを見渡してみると、今日は金曜日のためか皆どこか浮ついている気がする。早く仕事を終えて休みを謳歌したい。そんな気持ちが透けている社内。


 そんななか、一人の女性が出社してくる。古橋主任である。


 皆に挨拶をしながら自分のデスクへと向かう古橋主任。そうして俺の近くを通ったので、挨拶をした。


「おはようございます」

「——お、おはよう……」


 俺の顔を見るや、一瞬顔を歪ませ、頬が赤くなったような気がした。挨拶もどこかぎこちなく、不自然。

 俺は昨日のことを祈里から聞いたんだと思いながらもそれを表面には出さなかった。どこまで聞いているのかはわからないが、もし、全てを知ったとするなら、俺も一応謝らないといけないのではないだろうか。


 なぜなら、俺は古橋主任の下着姿を見てしまったのだから。


「ん……」


 するとブルブルとスマホが震えた。

 確認するとそこには古橋主任からのメッセージが入っていた。


『朝礼を終えたら会議室Bに』


 また会議室Bかと思いながらも、俺は緊張で震えた。

 絶対昨日のことで怒られると、そう思いながら朝礼を終えて会議室Bへと向かった。



 ◇ ◇ ◇



 会議室Bに入ると、前回同様にホットコーヒーを用意してくれていた古橋主任。

 こういうところは特に気が利く。


 俺は以前の失敗を繰り返さないように古橋主任の真正面に座り、彼女からの言葉を待った。


「——音無くん……昨日のことは、覚えているんだよね……?」


 古橋主任は小さな声でそう、俺に聞いてきた。


「ええと…………はい。僕が主任の家に送り届けたので……」


 忘れられるわけもない出来事。普段の古橋主任とは違った姿を見てしまい、そして醜態や下着姿までも見てしまった。

 そんなことで彼女に対する仕事の姿勢への評価は下がるわけもないが、普段とは違った目では見てしまう。


「いや……そうだよね。そうなんだろうけど…………」

「ご、ごめんなさいっ!!」


 古橋主任が先に何かを言う前に謝ろうと思い、俺はテーブルに頭を擦りつけて謝罪した。


「……なぜ音無くんが謝る?」

「お、俺は古橋主任のを……色々と、見てしまったので……」

「っ! わ、忘れてくれっ! 私だって記憶が曖昧なんだ。恥ずかしいことをしたのだとは覚えている……責任が私にあることだって、わかっているんだ」

「主任……大丈夫です。忘れる努力はしますから」


 とは言いつつも、人の記憶というものは簡単に消せるものではない。そしてその衝撃度が強ければ強いほど、脳裏に深く焼き付くのだ。


「そ、それは良いとして……謝るのは私の方だ。昨日は色々と迷惑をかけた。本当にすまない。そして家まで送り届けてくれてありがとう」


 今度は深々と古橋主任がテーブルに頭をつけて謝罪をした。

 彼女のこんな姿を見たのもはじめてだった。まさか主任から謝罪される日がくるなんて……。


 そんな古橋主任の姿を見て、俺は思ったことを口に出す。


「いいえ。大切な祈里の姉ですから——それに僕の主任でもありますからね。多分、僕には想像もつかないストレスも抱えていると思います。だから、お酒を飲んだりして発散しても良いんじゃないでしょうか。……たまに迷惑かけても誰も怒りませんよ」

「——音無くん……」


 俺はもう、古橋主任のことを恐ろしいと思っていないのかもしれない。それに、大嫌いという感覚もいつの間にか消えている気がする。

 祈里の姉だと知ってしまったということもあるが、彼女の別の顔を見てしまったからかもしれない。


 仕事人間で、冷徹な鬼上司だと思っていた相手も、結局は一人の人間には変わりない。少し中身を覗いてみると、なぜあんなに怖がっていたのだろうとも思ってしまう。

 ともかく、今の古橋主任には優しくしてあげたいという気持ちが芽生えていた。


「つまりですね……あまり気にしないで、今日もお仕事頑張りましょうってことです」

「はあ……なんだか今日は音無くんが私の上司みたいだな。まさかこんな姿を君に見せることになろうとは……」

「でも、そのお陰で鬼みたいだった古橋主任のイメージが変わってきたので、僕にとっては嬉しいことですよ」

「鬼……だと?」

「あ……お、おお、親……主任?」

「誤魔化せると思うなっ!!」


 まさに古橋主任は今、鬼の形相となって、俺に怒りを向けていた。

 やっぱり鬼上司じゃないか。



 ◇ ◇ ◇



 音無くんとの話を終え、自分のデスクに戻った。


 真面目にパソコンに向かって仕事をしている音無くんの横顔が遠くに見える。


『大切な祈里の姉ですから——それに僕の主任でもありますからね。多分、僕には想像もつかないストレスも抱えていると思います。だから、お酒を飲んだりして発散しても良いんじゃないでしょうか。……たまに迷惑かけても誰も怒りませんよ』


「…………」


 私は音無くんに言われた言葉を思い返していた。

 彼が私のことを嫌っていたのは知っている。そして、祈里の姉だとわかり、少し見方を変えてくれたことにも気づきはじめた。


 だから、あんな言葉をくれたのだと思うが、私はあの言葉を聞いて、少し胸が跳ね上がってしまった。

 祈里以外で——異性に優しい言葉をかけられたのはいつぶりだろうか。正直、覚えていないほどだ。


 音無くんに優しい言葉をかけられてやっと気づいた。私は今まで強くいすぎたせいか、誰も私に優しい言葉をかけてくれなかったということに。


 音無くんは祈里の彼氏だ。だから変な感情を抱くことなど許されない。それが祈里が望んでいたとしてもだ。

 世間一般的に二股などありえないし、音無くんだって、私のことなど女として見ていないだろう。


 でも、もしだ。

 音無くんが、私のことをそういう目で見るようになったのであれば、私はどうするのだろうか……。


「——まさか、この私がそっちのことで悩むことになろうとはな」


 私も恋愛脳とも言える祈里に毒されてしまったのだろうか。

 これまでは妹の話を聞いてあげるだけで満足だったはずなのに、少し、ほんの少しだけ何かを期待している自分がいる。


 私は本当にこれからどうなってしまうんだろう。



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