第6話 居酒屋でしっぽり
腕を天井に上げて伸びをする。大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。
今日の仕事もなんとか終盤。窓の外の景色は日が傾いてきていて、オレンジ色の夕焼けが見えた。
腕時計を見ると時間は午後五時四十分。うちの会社の定時は六時なので、もうそろそろで会社を出られる。
そんな時、スマホのバイブ音が鳴ったため、俺はスーツジャケットのポケットからスマホを取り出してみると、なんと古橋主任からの『ルイン』の通知が来ていたのだ。
その通知に自分の胸が跳ねたのを感じながら、画面をタップして内容を読んだ。
『音無くん、すまない。三十分だけ残業しそうだ。もし、待つのが難しそうなら次回に持越ししよう』
彼女から送られてきた最初のメッセージはなんと謝罪だった。
まさか、古橋主任から謝罪される日が来るなんて思いもしなかった。彼女とはこの会社で三年一緒に過ごしてきたが、こんなことは初めてだった。プライベートではあるが、俺はこのことに感動した。さらにそれに加え——、
「なんだこの可愛い絵文字……」
送られてきたメッセージの語尾には、目がうるうるしている絵文字が添えられていたのだ。ついでにくまさんの可愛いスタンプまで。俺は古橋主任は一切絵文字など使わない人だと勝手に思っていた。だからこのギャップに驚いてしまった。
「音無せんぱーい、どうかしました〜?」
すると隣の席の一つ年下の後輩、三上沙霧が俺の様子が気になったのか、声をかけてくる。
「いいや、何でもないよ」
「そうですか? でも、先輩顔がニヤけてますよ〜?」
「えっ……あ〜、はは。そうか、ニヤけてたか」
指摘されて初めて気づいた。俺は古橋主任のメッセージを見て、笑っていたようだ。
返事には『僕も少し残業するので、待ってますね。それと、居酒屋は僕が予約しておくので』と送った。
するとすぐに『予約までありがとう。では、仕事が終わり次第連絡するから待っててくれ』と返事がきた。
すげえ……全然違うじゃないか。
俺があの鬼の古橋主任と普通にやりとりしてるなんて。しかも『ありがとう』だなんて感謝の言葉まで。こんなの皆に教えたら仰天するだろうな。
というか古橋主任のプライベートな連絡先を知っている人は何人いるのだろうか。気になる……せっかくだし、今日聞ける時があったら聞いてみよう。
◇ ◇ ◇
「——音無くん、待たせたかな?」
仕事が終わり、現在の時間は午後六時五十分。
会社の前で古橋主任と一緒になって帰るのは、周囲に変に思われる可能性があった。だから古橋主任が仕事を六時半に終わらせてから、指定した駅に来てもらい、その駅の前で待ち合わせをすることにしたのだ。
会社の最寄り駅でも誰かに見られる可能性があったため、だから少しだけ離れた駅を指定した。
「いえ、全然です! 予約した時間は七時ですから余裕で間に合います」
大きな胸をぶるんぶるんさせ、こちらに向かってきた古橋主任。
電車を降りてから少し急いでくれたのか、多少息が荒い。
古橋主任の姿を見て、俺は今から本当に二人きりで飲みに行くんだと再認識。
そのことを思うと、手汗が一気に出てきた。
「そうか、なら良かった。——じゃあ、行こうか」
「は、はい……っ」
俺たちは横並びになって、二人一緒に歩き出した。
そうして到着した居酒屋。
古橋主任と二人きりで飲むという話だったが、どの居酒屋にするか迷った。大衆的な居酒屋でも良かったが、ガヤガヤしているとせっかくの古橋主任の言葉が聞こえなくなる可能性もあった。だから、それよりも少し静かな居酒屋を選ぶことにした。
中に入ると店員さんに予約名を伝え、案内されたのはカウンター席。
テーブル席にしなかった理由は、古橋主任の顔を正面から見ながら会話するなんて、無理だと思ったからだ。だから横並びでそれほど顔を見なくても良いカウンター席の予約を取った。
「わざわざ予約までありがとう。……音無くんは、気が利くんだな」
「あ、いいえ。いつも祈里にしてあげてることをしてるだけですから」
「そ、そうか。祈里は大切にされてるんだな」
そんな言葉を交わしながら、まずは飲み物を選ぶ。
古橋主任が選んだのは、生中——ビールだった。俺も同じものを注文し、到着を待った。
「………………」
さっきまでは普通に喋れていたが、いざこうやって座ると、何を話せばいいのかわからなくなる。
やはりカウンター席にしたのは正解だ。こんな状況で顔なんて見られるわけもない。
「音無くん」
「はいっ」
声が裏返った。
「緊張してるのか?」
「そ、それは当たり前です! 二人きりって……古橋主任は緊張しないんですか!?」
顔が見えないが、俺は質問を返してみる。
「そ、それは……私だって緊張してるに決まってるでしょ」
「そうでしたか……なら安心しました」
「え?」
「いや、いきなり祈里に色々言われて、急展開過ぎてついていけてなかったので、自分一人があたふたしてたら恥ずかしいなと。でも古橋主任もそうだったなら、少しだけ親近感湧きます」
昨日の様子からも古橋主任はとても困っていたはずだ。でも結局お願いを聞き入れていることからも、実は押しに弱い部分もあるのかもしれない。
「……まあ、昔から祈里は手のかかる子だったからな。好奇心旺盛で何でも興味をもつから毎日振り回されたよ」
「はは、わかります。僕も付き合いだしてわかったんですけど、どこに行きたいとか積極的に言ってくる子で……。男としてはデート場所に悩まなくて助かりますけどね」
「そうか……本当に二人は付き合ってるんだな」
「はい。まだ半年ですけどね」
祈里の話になると、互いにそれほど緊張せずに会話が進んだ。二人の共通点と言えば祈里のことだ。なら、今日は祈里のことについてたくさん話そう。
「お待たせしました〜!」
すると二人分の生ジョッキが目の前に置かれ、二人きりの飲みがスタートした。
「じゃあ、乾杯」
「はい……乾杯」
コツンとジョッキ同士をぶつけ、互いにビールを喉に通した。
俺はちらりと横目で古橋主任の飲みっぷりを観察した。
すると、ごくごくと喉が動き、一回で半分ほどビールが減っていた。そんななか、ジョッキについていた水滴がぽたりと古橋主任の開いたシャツの胸元に落ちる。落ちた水滴がそのまま押しつぶされそうな谷間へと……。
「——っ。ふ、古橋主任、お酒好きなんですか?」
「ん、ああ。お酒は好きだな。家にも大抵何かのお酒はストックされてあるから、仕事終わりには飲むことが多い」
「昨日は飲みませんでしたけど」
「それは祈里の彼氏がくるって話だったから……」
「そうですよね。そんな相手に普段の自分なんて見せられませんよね」
確かに正常じゃいられないよな。
しかも現れたのが会社の部下ともなれば尚更だ。
その後、適当に料理も注文し、お酒のおかわりもしつつ、なんとか古橋主任との会話を続けていった。
◇ ◇ ◇
「おとなひっ! おまえは〜祈里のこと、ぜったいに大切にしなひゃい!」
一時間が経過した頃。古橋主任は泥酔していた。
多分、俺を前にして緊張していたからか、見ていても飲むペースが早かった。
飲み過ぎだと止めようともしたが、古橋主任がどこまで飲める人なのかわからなかったため、ストップせずにそのまま飲ませてしまった。
結果、呂律が回らず、凄い喋り方になっていた。
「古橋主任……そろそろ、この水飲みましょう」
「おしゃけがいいのっ! おまえももっとにょめっ!」
「僕はもう結構飲んで、顔も赤くなってますから。これ以上は……」
古橋主任は酔いすぎると絡んでくるタイプのようだ。
先程までの一定の距離を保っていた彼女はどこへやら、いつもクールで恐ろしい古橋主任はもうそこにはいなかった。
「うるひゃい! いつもいつもミシュばっかり……でも、でも……がんばってるのはわかってるの!」
「あ……はい……」
「だかりゃあ、ちゃんと成果出して、わたしが褒めりゃりぇるよーもっとがんばりなひゃい!」
「が……頑張りま——うわぁ!?」
俺に寄りかかるようにして絡んできた古橋主任。水の入ったコップに手が当たってしまいそれがこぼれると古橋主任の白いシャツにかかってしまった。
その結果、シャツが透けて、その下にあるブラと大きな胸が見えてしまっていた。
「——古橋主任!? ちょ、これはダメです!」
「うにゃあ……? おっぱいか。おまえもおっぱいが好きにゃのか……男は皆おっぱいおっぱいって……そんなにこれがいいにょか!」
「そ、それは男なら大抵おっぱいは好きだと思いますけど……そ、それより、どうにかしないと……あ、俺のシャツ着ましょう!」
本当にマズい。体つきがエロすぎて困ってしまう。俺には祈里がいるので、そんなつもりはないが、なぜ古橋主任の体はこんなにも……。
「それより〜〜写真!」
「へ? 写真?」
「いにょりにお願いされてるの〜〜!」
するとテーブルの上に置かれていたスマホを手に取る古橋主任。
そしてあろうことか、カメラモードを起動。
「はぁ〜い。こっち向いて〜」
「さすがにこの服のまま写真を撮るなんてマズいんじゃ!?」
「うるしゃいっ!」
古橋主任は俺の胸に頭を置くようにして自撮りで写真を一枚パシャリ。
なんだか大変な写真を撮った気がする。というか祈里から写真をお願いされてる?
……と、とにかくだ。このままでは他のお客さんにも古橋主任のあられもない姿を見られる可能性がある。彼女のためにもそれは避けたい。だから俺は無理やり古橋主任を立たせ、肩を持ちながらトイレへと向かった。
◇ ◇ ◇
「きたきたきたきた〜!! ラッキースケベイベント! さすがはお姉ちゃん! やると思ってたよ!」
サングラスをして帽子を被り、ゆうくんとお姉ちゃんの席から少し遠くの席に座り、ずっと二人の様子を眺めていた。私は一眼レフカメラを片手にその様子を逐一撮影していたのだ。
今日はゆうくんとお姉ちゃんの初デート。
どうしてもその様子をこの目で直接見ておきたかった。
だから会社も半休を取り、お姉ちゃんにどこの居酒屋に行くのか聞いて、待ち伏せしていた。
「家にいる時はあそこまで酔わないんだけどな〜」
緊張して、お酒に逃げたのだろうとわかるが、それにしてもあそこまで酔うとは思わなかった。もしかするとゆうくんが優しいから、お姉ちゃんも安心してあんなふうになってしまったのかもしれない。
「ふふふ……お姉ちゃん、このままだとゆうくんにお持ち帰りされちゃうよ?」
私はこのあとの展開が楽しみすぎて、トイレに行った二人が戻ってくるまでワクワクしながら待つことにした。
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