第5話 まさかの誘い
フロアに入り、自分のデスクに向かう。
「あ、おはようございます〜」
「おはよう三上」
すると既に自分のデスクに座っていた後輩社員の
座ってから自分のノートPCを開き、朝礼に向けて資料に目を通していくと、そこで俺の心をざわつかせる相手が出社してきた。
「おはよう」とそれぞれの社員に声をかけながら自分のデスクに向かって歩いていったのは古橋主任だ。
昨日祈里の家で見た彼女の印象とは違い、仕事モードの古橋主任はクールでカッコいい。そして少しだけ恐いオーラを纏っている。
「おはようございます」
「おはよう」
うん、いつも通りだ。
俺のデスクの近くを通ったので、挨拶をしてみるといつも通りの挨拶を返された。表情も変わらず、まるで昨日のことがなかったかのように。
変な態度をされて、他の皆に何かあったのかと聞かれるのも面倒だ。だから古橋主任の態度は正解だ。
でも、その態度が何故か少しだけ心細かった。
本日の業務日程を確認共有。重要事項や優先事項の把握をし、「今日も一日頑張りましょう!」と古橋主任の声で朝礼が終わった。
しかし——、
「音無くん、ちょっと良いかな。パソコンを置いたら会議室Bに来てくれるか」
「は、はいっ」
朝礼が終わり、デスクに戻ろうとした俺を呼び止めた古橋主任。
個別に呼びかけられたことで、心臓がドキっとした。このドキっは、どっちのドキっなのかはわからなかった。
「おいおい、朝っぱらからまた絞られんのかあ?」
「お前なんかしたんだろ。はは、気をつけろよ」
するとその様子を見ていた二人の男性社員が俺に声をかける。
俺の部署にいる数少ない男性社員の二人だ。
「いや、心当たりがないんですが……」
ありありだが、そのことは誰にも言えるわけがない。
おそらく昨日のことが関係あるだろうとも思いながらも、ここは会社。既に仕事は始まっているのだから、プライベートな話は持ち込まないとは思っている。けど、なぜだか今回はプライベートな話をされるような気がしていた。
「いつも心当たりがないことで怒られてるだろ」
「お前がストレスで死なないか心配だよ」
化粧品会社ともあって、男性が少ない環境のなか、唯一心が安らぐ先輩。
俺に対しても気軽に色々な言葉をかけてくれるので、とても助かっている。
よく飲みにも誘われるため、ストレスを吐き出す場所として、彼女の次に居心地の良い人たちである。
「はは……死なないようにがんばりますね」
苦笑いを浮かべながら、俺はデスクにパソコンを置くと、古橋主任に言われた会議室Bに向かった。
◇ ◇ ◇
「失礼します」
「入ってくれ」
コンコンとドアをノックしてから、反応があったので会議室の中へを足を踏み入れた。
十人ほどが座れる長テーブル。その中央に座っていた古橋主任。特にパソコンや資料などは持っておらず、会社で無料で飲めることができる紙コップに入ったホットコーヒーが二つ置かれていた。
「…………なんでそんなに遠いの?」
古橋主任の真向かいではなく、向かい側の端に座るとそう指摘された。
「あはは……」
緊張しすぎて真正面から古橋主任の顔を見ることができなかった。だから斜めの位置に座ったのだが、だめだったようだ。
俺はホットコーヒーを持って立ち上がり、移動した。
「音無くん……これはどういうこと?」
「あ、あれ……? 違いました? てっきり近くに座れという意味かと」
「確かに近くに座ってくれという意味だったけど、隣に座れとは……」
「あっ……すいません! ちょっと今日の僕変ですよね!」
テンパってしまい、なぜか古橋主任に一番近い席。つまり隣に座ってしまった。
普通に真向かいに座ればいいのに、今の俺は二人きりの状況に通常の精神状態ではいられなかった。
「いや、いい……隣で良いから」
「わかりました……」
しかし古橋主任は隣の席で良いと言い、俺をその場に留まらせた。
隣に座るとわかる、仄かに香る香水の匂い。昨日、彼女の胸に飛び込んだ時と同じ香りだった。
「怒って呼び出したわけじゃないんだから、そう気負わないでくれ。……昨日みたいに、もうちょっと軽く……」
「え?」
古橋主任から驚きの言葉が飛び出した。
隣に座る彼女の顔を見てみると、どこか顔が赤くなっていて、どう見ても仕事モードの顔ではなかった。
「そんなまじまじと見られると、さすがに私でも恥ずかしい」
「いえっ……すいません。つい」
「いいから、そんなにかしこまらないでほしいな」
「できるだけ、がんばります……」
古橋主任は額に手を当てながら、息を軽く吐いた。
「それでね、音無くんを呼んだ理由なんだけど……」
俺はゴクリと息を呑む。
「——今日、仕事が終わったあと、軽く飲みに行かないか?」
その言葉を聞いて俺の体温が一気に上昇した。
「えっ……本当ですか? 古橋主任と、二人で……?」
「ああ、そうだ。……マズイか?」
眉を寄せて上目遣いをする古橋主任。
その顔はどこか普通の女の子にも見えて。
「全然です! ええと、友達からって話でしたから」
「そ、そうだ! 友達! だから、祈里にいきなり外で遊ぶんじゃなくて、仕事帰りの飲みならどうかと提案されて……」
あたふたしながらも、祈里の名前を出すことで責任転嫁する古橋主任。でも、こうやって誘われたことは結構嬉しい。仲良くなろうとしてくれる気持ちが伝わってくるから。
「祈里の発案でしたか、なら断るわけにもいきませんね」
「ああ、わかってくれたか。ありがとう」
そういう俺も、祈里のお願いだから、ということを利用し、古橋主任を二人で飲みに行くことを了承した。あくまで俺個人の意思で行くと決めたわけではないという逃げ道を作って。
「それと、わかっていると思うけど、会社内では私に馴れ馴れしくしないように。あくまで上司と部下なんだから」
先ほどは軽く、と言っておきながら今度は馴れ馴れしくしないように。二人きりの時は大丈夫だけど、それ以外ではという意味だろうか。
「もちろんです! ついでに怒るのも優しくしてもらえたらなぁ……なんて」
勢いで初めて古橋主任にお願いをしてみた。
「おい、調子に乗るなよ。それは仕事がちゃんとできていたらでしょ。私だって、怒りたくないのに怒ってるんだから。それは昨日でわかったはずでしょう?」
「はは……がんばりますね」
お願いは通らなかった。キッとなった目が殺人鬼のようで、仕事が関わると俺を殺しに来るいつもの鬼の目だった。
◇ ◇ ◇
音無くんとの会話を終え、一人会議室に残る。私は上着のポケットからスマホを取り出し、『ルイン』のメッセージ画面を開いた。
そこには祈里からのメッセージが表示されていた。
『お姉ちゃんに任務です! ゆうくんと居酒屋に行ったら、ツーショット写真を撮ってきてくださーい!』
飲みに行くだけではなく、追加で祈里から任務が来ていた。
そのメッセージを見て、私は頭を抱えた。
「というか、私は祈里に言われるまま、本当に何をしてるんだ……? 音無くんと二人きりで飲みだぞ? 何を話せばいいかだけでも悩むというのに……」
複数人で行く飲み会ではない。そういう場では年に一回程度だが、音無くんとも飲みに行ったこともある。しかし、男性と二人きりでの飲みというのは、ここ数年でも久々のことだ。
「とにかく、まずは今日の仕事しないと」
ただ、一日は始まったばかり。音無くんと飲みに行くのもこれからまだ何時間も先。
ぱっと気持ちを切り替えて、私は立ち上がった。
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