19.素の声が出た

「おはようシャオヤオ、よく眠れたかい?」

 

 食事と着替えを済ませたシャオヤオは、自分を恭しく世話をしてくれるメイドに案内されてある部屋へと入った。そこはダスティシュの執務室で、シャオヤオも時折そこで仕事の話を聞いていた。

 今、執務室にあったはずのダスティシュご自慢の趣味が理解できない置物の類は一掃され、紙の束が所狭しと並んでいる。ダスティシュがふんぞり返っていた椅子には皇太子が座っていて、机の広げられた書類に何やら書き付けていた。

 部屋には皇太子とシャオヤオしかいない。案内してくれたメイドは、お茶を用意した他のメイドと共に部屋から出て行った。


「セドリックはいないの?」

「まぁた俺以外の名前は呼ぶ…。予測はしていたけど強行軍になったからな、セドリックはバイトもあるから帝都で留守番」

「バイト…。王宮でもないのに皇太子様が1人で不用心じゃないって言いたいのだけど」

「王宮でも完全に安全な場所は少ないさ。でも今に限って言えば、この部屋は帝国内で最も安全な場所の一つだから、シャオヤオも安心してくれ」

「っ!」

 

 言いながら皇太子がペンを持つ右手とは逆の手をスッと軽く上へと上げる。その瞬間、部屋の中にいる人の気配が一つ増えてシャオヤオは思わず飛び退いた。

 増えた気配の方を見れば、そこにはあの白い装束の男……コハクがいた。さっきまでは誰も、気配すらなかったはずなのに。


「顔色は多少良くなったようだが、万全ではない。感知が遅れるのも仕方ない」

 

 コハクは腕を組んで壁に寄り掛かって静かに話す。

 シャオヤオには隠されたコハクの目は見えないが、コハクからはシャオヤオの顔色までしっかりと見えているらしい。


「俺が気になるなら姿は消すが姫には前例があるからな、姿を見せている方が反って落ち着くだろう。警戒はこちらがするから、話に集中してくれ」

「は、はぁ…」

「潜んでいるコハクさんの気配なんて俺には全く分からないから。最初の時、シャオヤオが急に上を向くから俺もセドリックも驚いたものだよ」

「今時分の暗殺者としては、良い感をしている」

 

 フッとコハクから静かに笑みが零れるのを見て、シャオヤオは思い出した。最初に皇太子からなりすましのとんでも話を持ち掛けられた時、不意に天井裏が気になった事を。

 誰かが居る気がしたのだが、確信を持てず、結局気のせいにしたのだ。今の会話を聞くに、気のせいではなったわけで…。

 シャオヤオは皇太子を見る。その視線に気付いて、皇太子がニッコリと笑う。


「彼はコハクさん。俺が個人的に雇っているフリーの何でも屋で主に情報収集をしてくれいている。後は必要に応じて昨日みたいな護衛なんかも」

「何でも屋…」

「前職はその内、本人と仲良くなってから直接聞くといい」

 

 どう考えても前職は暗殺者だろう。気配の絶ち方に音を立てない身のこなし、シャオヤオが叩き込まれた技のそれだ。同じモノとは思えない程、あちらは完全に極めた高みにいるのだが。

 どう言う経緯で何でも屋なんて立場で皇太子に雇われているのか気になるところではあるが、シャオヤオには優先する事がある。いたらいたでかなり気になる存在だが、周囲の警戒をコハクに任せていいのなら、疲労が抜け切れていないシャオヤオより確実なのは確かだ。会話に集中出来る。

 一度ゆっくり呼吸して気持ちを立て直す。


「ムーダンの事、教えてほしい」

「帝都の帝国病院にいる。そこで治療を受けているよ」

 

 ペンを置きながら皇太子は答えた。

 部屋の置かれていた向い合うソファーの一つをシャオヤオに進め、皇太子も対面に座る。2人の間にあるテーブルには先程出て行ったメイドが用意してくれたお茶…幾つかのカップとお茶が入ったポットがあり、皇太子が手ずから3人分を淹れる。皇太子とシャオヤオ、それからコハクの分だ。


「順を追って説明すると長くなるから、まずはムーダンについてだけにしよう。後2時間もしない内に帝都に帰る準備が整うから、説明は船の上ででも」

「分かった」

 

 素直にお茶を受け取りながらシャオヤオは頷いた。

 コハクは壁に寄り掛かりながらお茶を静かに飲んでいる。あれで周囲の警戒は全く綻んでいないのだから、やはり、言っては失礼だが化け物だ。


「ムーダンを保護したのは建国祭の日。シャオヤオとダスティシュの身柄を確保したその時だから、二月ほど前だ」

「そんな前から…」

「帝国病院で用意し得る環境と出来得る治療を用意した。医師達の見解を先に言うと、ムーダンの視力が完全に回復する事はないそうだ。代わりに、これ以上悪くなる事も無いと」

「病気は、治るの?」

「結論から言うと、視力低下の原因は栄養失調だ」

「栄養失調!? そんな、ムーダンにはちゃんと食べさせて…」

「それでも、君達の環境で手に入る食事では栄養に偏りが生じていた。個人差があるので必ずしも症状が出る訳ではないらしい。現に、屋敷にいた他の孤児達にも症状が出ている子と出ていない子がいて、出ている症状も視力に限っていない」

「孤児…を…?」

「かろうじて元気と言える子はまず屋敷で静養させていたが、見なかったかい? 君の部屋から見える所で遊ばせるようにしていたけど」

 

 自分がどんな表情をしているのか、シャオヤオには分からない。

 ダスティシュ領にいる孤児はシャオヤオ達難民団の子供だけではない。不定期に何処からともなく連れて来られ、シャオヤオ達と同じく屋敷で放置され、生き残りを強いられていた。ムーダンを優先してきたシャオヤオは、孤児達に対して今更善人ぶった言葉を使うつもりはない。

 でも、思うところが無かったわけではないのだ。ずっと、ずっと…。


「あり、がとう…」

 

 それはムーダンの事か、孤児達の事か。

 自分でも分からないままに、その言葉がシャオヤオの口から出ていた。


「孤児達の今後の事はこちらに任せてくれ。ムーダンの事も、顔を見るまで安心できないだろうが、一先ず心配しなくていいとだけ理解してほしい」

 

 皇太子の言葉にシャオヤオはコクリと頷いた。

 直接ムーダンに会わない限り完全に安心する事はない。だが軍人に肩車をしてもらって遊ぶ孤児達の姿を見たお陰で、焦る心はかなり抑えられている。

 まだ状況は分からない事が多いが、少なくとも孤児達を助けてくれた事は分かる。助けておいて、ダスティシュ以上に酷い事はしないだろう。だったら最初からわざわざ助けていないはずだから。

 ムーダンの事もそう。本当に病院で治療させてくれているのなら、その後の事も悪いようにはしないはず。例えシャオヤオがどのように罰せられたとしても、ムーダンだけは…。


「ラウレンティウス」

 

 静寂が流れていたところにコハクが皇太子を呼んだ。


「アズベルトが来た」

「お、来たか」

 

 コハクに告げられて皇太子は持っていたカップをテーブルに置いた。

 何処かで聞いた覚えがあるような、ないような名前。どちらにせよに、誰かが来るのかとシャオヤオが扉の向こう側へ意識を向けると、微かにこちらに向かってくる数人分の足音を拾えた。言われてやっと気付けた足音。この何でも屋は一体どの辺りから聞き付けていたのだろうか。しかもそれで人物特定までしている。

 そう思っていると、コンコンと扉がノックされる。


「どうぞ」

「失礼致します」

 

 皇太子が応えると扉が開かれ、長身の男が現れた。黒髪に、黒の執事服。彼がアズベルトだろうか? 何ともなしにシャオヤオが見ていると、黒の執事の後ろからひょっこりと別の者が顔を出す。

 綺麗な長い金髪に豪華な衣装の、とびきりの美女が。


「早かったな、アズ」

 

 思いもしない人物の登場に、シャオヤオは不覚にも口がポカンと開く。

 部屋に入って来たアズ令嬢はソファーに座っていたシャオヤオに気付くと、途端に瞳を輝かせる。笑顔も一際に輝く。顔が良いと言うのは凄い。何だが凄く眩しい。そんな彼女は何故か皇太子ではなく、シャオヤオの方へと真っ直ぐ近寄ってきた。

 シャオヤオは立ち上がって迎える。エリム夫人に叩き込まれた作法がこんな所で現れる。皇太子とあまり変わらない高身長のアズ令嬢が相手では座ったままだと見上げるのも大変だが、向かい合ってもそう変わらないかもしれない…。とびきりの美女に笑顔で見下ろされている状況に、実際以上の圧を感じる。

 しかし近くで見るとアズ令嬢、化粧っ気はあまりない。それでこれだけの美しさなのだから、元の良さの凄まじさよ。

 カツンッとアズ令嬢の踵が小気味いい音を鳴らす。


「ようやくご挨拶できます、シャオヤオ姫。ガーデンベルグ侯爵が息男、アズベルト・ガーデンベルグと申します。以後お見知りおきを」

 

 低く、心地いい澄んだ声。

 胸に手を添え一礼する姿は、幼い少女が夢物語に思い描く王子か勇者か。

 

 アズベルト・ガーデンベルグ。

 

 ガーデンベルグ侯爵の息子。


「男やんけ…」

 

 素の声が出た。

 とびきりの美人。見事に着こなしている豪華な衣装は確かに女のそれなのに、皇太子と変わらない高身長のアズ令嬢は…いや、アズベルトは間違いなく男だった。

 近くでよくよく見れば、喉仏や肩幅など美人でも確かに男の特徴がある。豪華な衣装がそれらを上手く隠していたのだ。


「はい。この身なりですが、正真正銘男です。恋愛対象も女性です。この皇子が好みでなければ、私との婚姻を前向きにお考えくださると幸いです」

「おいこら、人の婚約者を口説くな」

「この皇子は一度手に入れると決めたら徹底的に追い詰めてきます。外堀も完全に埋めて逃げられないようにします。頭がイカれているんですね」

「恰好がイカれてる奴に言われたくねぇよ」

「私なら逃がしてさしあげられます。困った時には是非我が名、アズベルトをお呼び下さい。私はか弱い女性の味方ですから」

「さり気無く人の婚約者の手を握るな。離せこのスケコマシ」

 

 目の前で繰り広げられる小芝居にシャオヤオは声も出なかった。

 内容は三文以下芝居なのだが、アズベルトがキラキラと光り輝いているせいかもうそこだけが最高峰の舞台演劇のようだ。見た事はないけれど…。

 流れるような動きでいつの間にか手を握られていたシャオヤオも一応、劇の中にいる事になるがアズベルトの眩しさに掠れていると自分でも分かる。せいぜい町娘Aと言ったところか。


「ん? あれ? 前にエリム夫人がガーデンベルグ侯爵家のご息女は帝国最強に憧れて騎士を目指しているって言っていたような…」

 

 アズ令嬢がアズ令嬢ではなくアズベルトなら、侯爵家のご息女はアズ令嬢ではなくなる。だってアズベルトはアズ令嬢ではなくアズベルトだったのだから。

 言うまでもないが、シャオヤオは混乱していた。


「それは我が妹の事ですね。お目見えする機会を頂けましたら、その際はよしなに」

「あー妹ね」

「因みにガーデンベルグ家の妹は兄とは逆で、クールな男装の麗人として有名だ」

 

 皇太子がそう教えてくれた。

 兄が女装で妹が男装。

 シャオヤオは頭痛がしてきた。何処から突っ込めばいいのか、いやいや、凄く気になるがそんな事をしている場合ではないと言うか。

 視界の端に映るコハクは何事もないようにお茶を飲んでいた。助けろよ…。


「アズベルト様、姫君が困っておられます。要件を先に申し上げるべきかと」

「お、そうだな」

 

 執事の進言にアズベルトはあっさりとシャオヤオの手を離す。あっさりとだが、何気ない、しかし紳士的で丁寧な動作がとても絵になっていたのは言うまでもない。

 執事はシャオヤオに礼を見せて、音もなくアズベルトの背後に控える。無駄のない動き。仕事が出来る人間だ…。

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