18.化け物の類
いつの間にか嗅ぎ慣れていた香り。
矢が刺さる痛みと地面に倒れる痛み。構えていた二つの衝撃はいつになっても来ず、代わりに嗅ぎ慣れた香りと力強く抱き留められる感覚がシャオヤオを包む。
「……皇太子?」
「そこは名前で呼んでくれよ」
信じられない気持で目を開けば、間近にあったのは皇太子の横顔。
幻か? だったらせめて、ムーダンにしてほしかった。
夢が現か分からないままにシャオヤオはそんな事を思う。
「な、何だお前!!」
シャオヤオを夢から引き摺り戻したのは、品性を感じられない男達のやかましい声。
瞬き二つ、シャオヤオは現状を確認する。言っても、シャオヤオとムーダンの家に勝手にいたダスティシュ配下のチンピラな男達に襲われて、あわやというところで何故か皇太子が現れた。と言う、確認してもよく分からない現状しか出てこないのだが…。
シャオヤオを抱き留めている腕とは反対の皇太子の手には剣が握られ、地面には真っ二つに折られた矢が転がっている。その矢がシャオヤオ目掛けて飛んで来ていたモノだと、かろうじて理解する。
「おい! 何だって聞いている! 誰だよお前!」
「これ以降会う事もない奴に名乗っても意味ないだろ」
「あ!?」
「ダスティシュの子飼いか。小物過ぎて相手をする気にもなれずつい何人か逃がしてしまったと聞いていたが、こんな所で怯え隠れていたとな。とっとと遠くへ逃げていればよかったものを。貴様等如きの為に山狩りなんて手間を払う程、軍は暇ではないのだから」
「あ゛ぁ!?」
フッと鼻で笑う皇太子に男達の顔が赤に染まる。
「舐め腐りやがって! “黒猫”諸共叩き斬ってやる!」
「今なら“黒猫”がやった事にすればいいんだからな」
「おぉ! 覚悟しやがれ!」
いかにもな、悪党の台詞を吐き散らかしながら男達がシャオヤオと皇太子に近付いてくる。
反射的にシャオヤオは身構えようとするが、自分を抱き留めている皇太子の腕にグッと力が入って出来なかった。思いっきり抵抗すれば抜け出せなくはないと思うが、シャオヤオを捕まえて離さない皇太子の真意が分からないまま行動に移して良いのか判断がつかない。
「すまないな、シャオヤオ」
少し高い位置から降って来た声にシャオヤオは顔を上げる。
そこにあったのはやはり皇太子の横顔。正面を見据えるその表情には笑みがあるけれど、いつもの飄々としたものでもなければ支配者としての迫力あるものでもなく、だけど…とても自信に満ちたものだった。
「俺も男だから、本当はあいつらをカッコよく倒して惚れさせたいところなのだけど、俺の立場は不必要な危険で遊ぶ事は許されないし、俺自身も良しとしない。そう言う訳でカッコよさよりも安全で手っ取り早さを優先しようと思う」
何を言いたいのかよく分からないままシャオヤオが見ていると、皇太子は握っていた剣から手を離し、パチンとその手の指を一つ鳴らす。
のと、同時。
実際には指が鳴らされた直後なのだが、同時としか思えない程の瞬間。シャオヤオの全身の毛は逆立ち、男達は1人残らず地面に倒れ伏していた。
「ご苦労様、コハクさん」
倒れた男達の中心に立つ1人。夜の闇に浮かび上がる、白い装束の男。
皇太子が呼んだコハクとはこの男の名前なのだろう。
背恰好から男と言う事だけが分かる。ゆっくりとこちらを向くが目元が布で隠されていて、目が合う事はない。額から鼻先までを覆う、まるでカーテンのような布が僅かに揺れるのがシャオヤオには見えるだけ。
揺れたのは目元の布だけではない。
リンーーー
腰に付けていた鈴も揺れて小さな音が鳴る。わざと鳴らしたのかもしれない。少なくとも、男達を一瞬で片付けた際には鈴らしき音は聞き取れなかったのだから。
恐らくは、シャオヤオへの挨拶。回数にして僅か2回。それでも強烈に耳に残った音。城で聞いた、あの鈴の音に違いなかった。
「こいつら、どうする?」
コハクは足元に転がる男達を指差す。目元が見えないのではっきりと年齢は分からないが、若目の良い声だ。
「殺してはいないんでしょ? 正直ほっといてもいいけど悪さされても困るし、明るくなったら回収させる。それまでお寝んねしてるかな?」
「何も無ければ明日の夜までは起きないだろう。引っ叩けば起こせる。…多分。俺は一旦引いてアズベルトに連絡してくる。この付近にはもう余計な人や獣はいないから、ラウレンティウス1人でも大丈夫だろう」
はーい。皇太子の軽い返事を聞きながら、シャオヤオはコクリと乾ききった口で空気を飲み込む。
シャオヤオには皇太子が緊張もせず普通に会話している事が信じられなかった。細かい関係性はともかく見知った間柄だからなのだろうが、そんな当たり前の理由が浮かばない程シャオヤオは緊張の中にあった。
城壁の上でその存在を確信した時、相当の手練れだと思ったが…そんな生温いものじゃない。男達を沈めた一瞬をシャオヤオは目視できなかった。騎士や戦士、軍人に傭兵、暗殺者、今までにも何度か手練れと対する事はあったし、倒せずに逃げざるを得なかった事だって一度や二度じゃない。
だが、目の前にいるコハクはそんな今までの手練れ達の比ではない。
強い。それも、言っては失礼だが、化け物の類だ。
こうして向き合っている今にも、その気にさえなれば、シャオヤオが反応する前にシャオヤオを殺す事が出来るだろう。造作もなく。まるでお伽話のように聞かされた一昔前の伝説となっている暗殺者のよう。…まさかとは思うが。
正直逃げたい。シャオヤオの本能が全力で命の危機を訴えている。逃げたところで、即座に捕まるだろうが。一瞬ではないのは、シャオヤオのなけなしのプライドである。
「シャオヤオ」
「っ!」
耳元で急に呼ばれてシャオヤオは驚いた。
皇太子の存在も、その皇太子に抱き留められている状態も、現在の状況も、完全に忘れていた。咄嗟に拳が出ないくらいには身体が固まっている。
「すまない、これを先に伝えておくべきだった」
「え…なに?」
「ムーダンは無事だ」
「…は?」
「君はすぐ、は? と言うな」
クスッと笑いながら、皇太子は何度か聞いた台詞を言う。
「安全な所で保護している。健康面も、目の治療を受けさているから安心してくれ。だから」
「暫し休むといい」
コハクの声が背後にしたと思ったら、膝が抜けた。いや、膝だけでなく全身の力が抜けた。
対象を気絶させるのに首の後ろを当てるが……多分、それをされた。多分。シャオヤオが自信を持てない程に、当てられた感覚が無かった。
疲労に、コハクの存在、その上ムーダンの情報。シャオヤオが混乱状態だったのは確かだが、隙だらけにまではなっていなかったはずだ。特にコハクには気圧されてはいたが、その分かなり意識を向けていた。
それなのにあっさり背後を取られた。
それなのにあっさり気絶させられる。
一応、染み付いた習性でつい抗ってみるが…。
「頼むから休んでくれ。ここまで碌に休まずに来たんだろう? ムーダンの事が嘘だったら今度は本当に殺してくれていいから、今はお休み」
皇太子の手でソッと視界が遮られた。そうされたらもう、抵抗は出来ない。
シャオヤオは意識を手離す。
次にシャオヤオが目を開けると見慣れない天井、いや天蓋があった。
エリム夫人が衣替えでもしたのだろうか、なんて思ったのはまだ覚醒しきっておらず、王宮で使っていたベッドと間違えていたからだ。
「お目覚めですか?」
ベッド横から声を掛けられ視線をそちらへ向けると、見慣れない女性がいた。お仕着せからメイドだと分かるが……はて、こんな使用人がいただろうか? エリム夫人は何処だ? と引き続きボーっと考えて、やっとシャオヤオの頭は正常に動き出した。
「あぁっ、急に動いてはなりません。すぐにお食事と着替えを用意致しますので、少しお待ちくださいませ」
ガバッと勢いよく起きたシャオヤオをメイドが慌てて押し留める。
周囲を探ればやはり見慣れない部屋。だが装飾の傾向や窓から見える景色にはどこか既視感があった。
「ここは…」
「ここはダスティシュの当主が使っていた屋敷の一室にございます。姫様や皇太子殿下をお迎えするのにここ以上の場所がなかったので仕方なく使用しております。御不快とは思いますが、ご容赦願います」
そう言って恭しく頭を下げてメイドは部屋の外へ声を掛ける。用意すると言った食事と着替えは彼女1人で取りに行くのではなく、外の別の者が持ってくるようだ。
シャオヤオが今どんな立場でどんな状況に置かれているのか分からないが、どうであれ1人にする事はないのだろう。その点には納得して、ベッドから降りて窓の近くへと移動する。
そこから見える景色を改めて確認する。見覚えがあるはずである。確かにダスティシュの屋敷から見える景色に違いなかった。今いる部屋もそう。シャオヤオが立ち入れた部屋は少なく、この部屋にも入った事はないが、雰囲気が屋敷全体の装飾の系統と同じだ。
間違いなく、ここはダスティシュ領にある当主の屋敷だ。
しかし…とシャオヤオは窓から見える範囲の何箇所かを見る。
まず、はためく旗がダスティシュの家紋ではなく帝国国旗なのだ。次に天幕が幾つか確認でき、行き来している人の中に帝国軍の制服を着た軍人がいる。門の前で警備として立っているのも軍人で、チンピラの姿がない。チンピラと言えば、シャオヤオとムーダンの家に勝手に入り込んでいた男達が軍やら何やらと口にしていた事を今さら思い出す。
極めつけは子供達。敷地内の広い所を元気よく駆け回り、休憩中らしき軍人に肩車をしてもらっている。
なにがどうなっているのか。何となく過ぎる言葉はあるが、まだ夢の中にいるような心地のシャオヤオはその結論を出せずにいた。
「姫様、お食事と着替えでございます。姫様がお目覚めになった事を皇太子殿下に伝えましたところ、準備が済みましたらお会いなさるそうで。まずはごゆっくりお食事なさってください」
本当はゆっくりなどしていられなかったのだが、数日ぶりのまともな食事は美味しかった。
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