07.エリム夫人
姫になりすます事になったシャオヤオの生活は、ビックリする程穏やかなモノだった。
架空の設定でも、シャオヤオとしてもそうだが、まともな教育を受けていない平民育ちの小娘を帝国の皇太子の婚約者とするべくどんな過酷な訓練…教育が施されるのかと戦々恐々と構えていたが、勉強の時間は確かにあるもののそう長くなく、自由時間の方が多く設けられていた。
「まずは環境の変化を受け入れるところからですわ。初めから気負ってはいけません、この生活が当たり前なのだと姫様の心と体が覚える事が大切なのです」
教育係であるエリム夫人はそう言う。
朝に起きて、支度をし、食事を取る。そんな当たり前の事が、環境が変わるだけで全くの別物になる。
これまでそれら全てをシャオヤオは自分1人で、なんだったらムーダンの分も加えてやっていた。それがここでは世話係のメイド達によって施される。
起きるのはともかくとしても、いちいち誰かの手によって着替えさせられ髪を解かれる。固いパンに水のように薄いスープが当たり前だった食事が、豪華とまでは言わないが、ここでは毎日食べ易くて美味しいモノが色々と出てくる。
雲泥の差。その差にこれまでの環境を思って堕ち込んだり傷付いたりする繊細さなんてシャオヤオは持ち合わせていないが、一言で言えば慣れない。まるで全く別の世界、物語の世界にでも投げ込まれたような気分だ。しかし慣れなくてはならない。
勉強よりも慣れる方が先だと言うエリム夫人の方針は正しいと思えるし、正直有難い。
「地位や身分が高くなるにつれ行動は制限され、気軽に1人で出がける事も難しくなります。それが些少でも幼い頃から当たり前の環境でしたら問題はないですが、そうでないのなら息が詰まるだけでしょう」
自由時間、シャオヤオは与えられた屋敷に面した庭園をのんびりと歩いていた。と言っても1人ではない。なりすまし生活が始まってからは常に誰かが付き纏…もとい付き添う。これだけでもエリム夫人の言う通り息が詰まりそうだ。
現在は教育が始まったばかりな事もあって、大抵はエリム夫人が付き添っている。彼女との会話は苦ではないので、2人で散歩しているのだと思えば気を張り詰めると言う事もない。楽と言う訳でもないが…。
「常識や認識の違い、作法、所作は何気ない生活の上でしか気付けないモノが多くございます。姫様が何をご存知でご存知ないのかわたくしにも分かりません。一つ一つそれを見付けていく事から始めましょう。歩く時はもう少し歩幅を狭く、つま先も内側に」
「…はい。このくらい?」
「それは内側過ぎですわ。真っ直ぐ前に向けましょう」
指摘されてシャオヤオは足の向きを修正する。
これまで歩き方なんて足音を消す方法を習得した時くらいでしか気を付けた事がない。言われて初めて自分が蟹股だったと知った。貴族女性のスカートは長くて足は見えないのだからいいのではないかと思うが、全体の動きに関わってくるらしい。
エリム夫人の教育はこのように、文字や数字の知識的勉強とは別に、時間で区切ったモノではなく常にある。何気ない会話、何気ない動作、無意識の内にあるモノを矯正されていく。
一気に詰め込まれる訳ではないが、だからと言って緩いと言う訳ではない。一瞬でも油断しようものならその瞬間に指摘が飛んでくる。ゆっくり優雅に話をしながら一緒に歩いているはずなのに、エリム夫人に抜け目は無い。
「大変なのは今だけですわ。極端な話ではありますが、見られる場で見せられるモノになっていれば良いのです。実際、公私で全く違う振る舞いをなさる方もいらっしゃいますよ」
「少なくとも、今の自分が見せられたもんじゃない事は分かってます…。とてもじゃないけど見られる場なんて所には行けない」
「自覚し、意識して吸収しようとなさる姫様の姿勢は大変素晴らしくていらっしゃる。皆、自慢に思っております」
教育係のエリム夫人だけでなく、現在のシャオヤオに接する者全員がお手本だ。エリム夫人が最高峰である事に間違いはないが、メイド達の所作も洗練されているのは見ていれば分かる。それと比べた自分の酷さも…。
「大丈夫ですわ、姫様。比べるモノが無くて不安になるのでしょうが、姫様は素質の塊です。わたくしが保証致しますわ、姫様は孫よりも余程優秀でいらっしゃる」
「孫?」
「わたくしの娘の子です。実は孫も姫様と同じ、平民育ちなのですよ」
「え? エリム夫人って子爵の奥さんですよね?ならその娘は子爵令嬢で、その孫も…」
「それが、子爵令嬢である娘が平民の殿方と駆け落ちしてしまいまして」
「は!?」
「ふふ」
いや、ふふ、じゃない。
シャオヤオは唖然としてエリム夫人を見るが、当の夫人は何て事もないように、寧ろ何だか楽しそうに笑っている。その笑顔を、ちょっと可愛いとか思う。
「誰に似たのか意志の強い娘でしてね、一度決めたらそれはもう頑なですの。殿方に対しても同じ事、添い遂げると決めてしまえば身分の差など気にも留めない」
「はぁ…」
「ですが意志の強さに反して身体はあまり丈夫では無くて…。程なくして、孫と共にエリム子爵家に戻されました。娘の命を優先した婿殿がそうお決めになられたとかで、流石の娘も愛する殿方の願いに逆らってまで我を通す事は出来なかったようです」
「その相手の人も一緒に?」
「いいえ、けじめだと言って婿殿は家の敷地内に一歩として入る事はありませんでした。そのまま何処かへ…。今何処で何をなさっているのか、わたくしは聞かされておりません。母の為とは言え、わたくし達が父と引き離したようにしか受け取れなかったのでしょうね。孫には随分と恨まれました」
「そんな…」
「夫も素直に感情を言葉にする人ではありませんから、怒りを向けてくる孫相手に悔しかったら子爵家を乗っ取ってみろ。それでわたくし達を追い出してから父を迎え入れてみせろ、なんて炊き付けるような真似ばかり」
ハァと頬に手を添えてエリム夫人は溜め息を付く。だが話す内容の割にはエリム夫人に悲嘆さは感じられず、やっぱり、どこか楽しそうに笑っている。
「…そんな話をしてもいいの?」
「エリム子爵家の娘が平民と駆け落ちし、平民との間に出来た子供と共に戻って来た…とは知られた話です。いずれ姫様が社交界にお出になれば何処かで耳にするでしょう。孫が貴族としての教育を始めたのは姫様より幼い頃で、恨みもあって手は焼きましたが今では何処に出しても恥ずかしくないまでになったと思っております。その実績を買われ今回、姫様の教育係の栄誉を賜ったのです」
それはきっと、彼女にとっての打算。
皇太子も言っていが現在の皇帝は実力主義で血筋に拘る人物ではないらしい。だが貴族全員がそうではあるはずはない。前王朝は血統意識が強かったと聞くし。きっと平民育ちの孫も、その孫を迎え入れたエリム子爵家も、貴族社会での風当たりは想像より強いのだろう。
しかし同じく平民育ちであるサモフォルの姫をエリム夫人の手で立派な帝国皇妃に育て上げたとなれば、エリム子爵家の功績になり、孫も今より生きやすくなるはず。
栄誉と言うが、孫の為なのだ。
娘の駆け落ち相手を婿殿と呼んでいる様子から、少なくともエリム夫人は娘の夫が平民である事も孫がその血を引き平民育ちである事にも不快とは思っていないようだ。言い方も、駆け落ちを決めたのは娘であるように聞こえる。
であるならば夫であるエリム子爵も…。
「殿方と言うモノは嫌ですね。女性を感情的だなんだと言うくせに、いつだって自分達が勝手決めた事を女性に押し付けるのですから。姫様も、お立場もあってラウレンティウス殿下に対して緊張や遠慮なさる事があるでしょうけど萎縮してはなりませんよ」
打算についてエリム夫人がはっきり口にする事はないだろう。シャオヤオが気付いている、いや、あえて気付かせたのかもしれない。その上でシャオヤオの反応を見ているのかも。こんな何気ない会話全てが彼女からの課題となる。
優雅で上品でちょっと可愛くて、それでいて食えないなんて、何てお婆様だ。素直に感情を言葉にしなりらしい夫の事も、振り回されているように見せてその実、何だかんだと掌で転がしているに違いない。
少しだけ、会った事もないエリム子爵の人となりがシャオヤオには見えた気がした。乗っ取ってみろとは物騒な言い方だが、子爵家の跡を継がせると言う意味にも取れる。相応の年齢であるエリム夫人の、その夫が子爵でいるところを見るに孫はまだ子爵家を乗っ取れていないようだが。
「時に姫様」
「ん?」
「立ち止まる際はもう少し背筋を伸ばしましょう」
「…はい」
エリム夫人の娘の意思の強さは母親譲りだと、シャオヤオは確信した。
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