06.ゆっくりで優雅

 フリーデン帝国の王宮は新王朝に代わるにあたって新設された。

 新皇帝が居住地にあまり拘りが無い人物なのと、各地の戦後復興を優先した為に完成は遅れに遅れたと言う話だ。さしあたって必要な個所だけを作って、現在も未完成な部分が多くあるとも聞く。

 それ故に内部の情報は極めて少ない。皇太子の台詞ではないが、王宮内を把握している暗殺者なんてものが本当にいたら貴重どころの話ではない。

 本当に何を考えているのだ、あの皇太子は…。


「サモフォルの姫、シャオヤオ様ですね。お迎えに上がりました」

 

 ダンスティシュの下らない愚痴や自慢話をシャオヤオが右から左への耳を素通りさせていると、本当に王宮からの迎えとやらが来た。

 ダスティシュとは一旦そこでまで。案内の者が来て一緒に部屋から出るが、往生際悪く「裏切ったら承知しないぞ」と言わんばかりの視線をダスティシュが送ってくるのでシャオヤオも「そっちこそムーダンの世話を忘れたら許さない」と言う言葉を込めてきつめの視線を返しておいた。不毛なやり取りである。

 屋敷の玄関へと移動すると、そこにはシンプルだが上品な馬車と1人の老女が待っていた。

 その老女の姿を見るやダスティシュが表情を引き攣らせる。


「エ、エリム夫人…何故貴女がここに」

「お久しぶりですねダスティシュ卿。この度皇帝陛下より、姫様の教育係を拝命致しましたの。共に帝国とサモフォルの同盟の為に尽力出来る事を嬉しく思いますよ」

「は、はぁ…」

「専任官の貴方とはこれから顔を合わせる機会が幾度もありましょう。お話は後ほど」

 

 ゆっくりで優雅。老女の話し方を言葉で表すとしたらそんな感じだろうか。

 後ろにきっちりと束ね丸められた髪は白髪が多く、顔全体の皺もそれなりに濃い。相応の年齢を現している。多分、60歳はとうに超えているだろう。

 しかし話し方と同様に立ち姿もゆっくりで優雅で、腰が曲がっている事も老いさらばえている様子もない。老女と言うよりは「上品なお婆様」と言い表すのが相応しいだろう。丸く上向きな目元の皺が、崩される事のない笑みを優しい印象に見せている。

 その老女…エリム夫人がダスティシュとの挨拶はそこそこに、ついっと横に逸れシャオヤオの前に立った。


「エリム子爵が妻、マルタと申します。このような年寄りでは御心配でしょうが、精一杯務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願い致します」

 

 そう言って自分に向かって頭を下げるエリム夫人の動作を、シャオヤオは素直に綺麗だと思った。

 ダスティシュ領の女性を初め、所謂上流階級の女性を何度か見かける事はあったがそれらとは比べられない程、いや、比べてはエリム夫人に失礼だしその女性達が可哀想だと思う程、たった一つの動作を取っても彼女の所作は洗練されていた。

 格が違う。ダスティシュの反応から見ても、ただの子爵夫人と言う地位だけでは収まらない相当な人物と思われる。出会い方のせいもあるだろうが、正直皇太子を前にしていた時より緊張する…。


「さぁ姫様、御住居の準備は恙無く整っております。参りましょう」

 

 気後れしている内に、エリム夫人の流れるような動きによりシャオヤオは馬車に乗せられる。

 そのまま馬車に揺られて暫く…王宮の門を潜って更に暫く。移動には結構な時間が掛かったが、車内ではエリム夫人も同乗していてとても緊張する一方、そんなシャオヤオに夫人はゆっくり優雅に話し掛けてきて、その適度かつ適切な会話は結構楽しめたので道中退屈はしなかった。

 それに流石は王都の綺麗に舗装された道と高級仕様の馬車だ、未舗装な石だらけの道を古臭い荷車で移動するのとは訳が違う、シャオヤオはお尻が痛くならない事に密かに感動した…。

 

 馬車は王宮に沿ってある程度進んで行った所で歩みを止めた。

 馬車の扉が開き、先にエリム夫人が降りる。

 シャオヤオは窓越しに目の前の建物を確認する。移動中も夫人と会話しながら見ていたが改めて確認するに、そこだけでも立派な屋敷だが、端ではあるものの中核の王宮と壁や屋根伝いに確かに繋がっていて皇族の居住区の一つと言う事が伺える。入口も裏口と言ったこじんまり感はなく、大きな扉を有していた。

 てっきり端は端でも、敷地内の端にある離宮にでも連れて行かれると思っていたが、事前の説明の通り本当に王宮の一角らしい。


「姫様、こちらの者達が本日より姫様のお世話をさせていただきます」

 

 馬車を降りて屋敷を見上げていたシャオヤオに、エリム夫人がそう言って微笑む。

 玄関前にずらりと並んだそれぞれの仕事着に身を包んだ使用人達。流石王宮に務めているだけあって全員がきちんとした身なりをしている。いや、恐らくは身なりだけじゃなく身元もきちんと精査され保証された者達なのだろう。

 そんな彼等が頭を下げるのが何処の馬の骨ともしれない異民の暗殺者である自分と言う現実に、シャオヤオは無意識に後ずさる。


「気負う必要はございません。わたくしもこの歳ですから1人1人顔と名前を覚えるのが大変でして、実はまだ全員は覚えておりませんの。きっと若い分、姫様の方が早いでしょうね」

 

 シャオヤオの背中にエリム夫人が手をソッと添える。耳元でフフッと笑う声は優しい。

 振り向いて見たエリム夫人の笑顔は最初と何一つ変わらない。

 シャオヤオは暗殺者だ。エリム夫人が自分に近付くのも、手を触れようとしたのも気付いていた。出会って早々の人間を簡単に信用する事も無い。だけど背中に添えられた彼女の優しい手に、優しい笑みに、優しい声に…人から優しく接しられたのはいつ以来だろうかと、らしくもない事を考えてしまった。


「では姫様、お疲れの事とは思いますがまずはお召替えを致しましょう」

 

 エリム夫人に声を掛けられ、シャオヤオははたと気付く。

 忘れていた訳ではないが、シャオヤオは皇太子暗殺時の格好のまま、つまり建国祭で貴賓席にお茶を運ぶ侍女の服のままだった。

 雇い主であるダスティシュが用意した衣装だが、目の前の王宮勤めの者達のそれに比べたら品質の差は一目瞭然。あのおっさんケチりやがったな…との悪態は心の中に留めて、偽りとは言え一国の姫を名乗っているシャオヤオがこんな恰好をしている事をエリム夫人や使用人達は疑問を抱かないのだろうか。

 シャオヤオは思った事をそのまま口にしてみる事にした。


「あの、この恰好は」

「殿下より事情は伺っておりますわ。道中大変苦労なさったそうですね、その格好もお命を守る一環だとか。ご心中お察しいたします」

 

 全てを口にする前にお察しされてしまった…。しかも使用人達は一様に目を潤ませていたり目頭を押さえたりしている。エリム夫人までもいつの間にかハンカチを取り出していた。

 あの皇太子、どんな事情を伝えたのだ…。

 生死不明のサモフォル王国第三王女とその娘…つまりシャオヤオがこれからなりすます事になる姫の素性については架空の物語が作られている。皇太子やセドリックからはその障り程度しか聞いていないが、まさかシャオヤオが想像する以上の壮大な生い立ちになっていたりするのだろうか。知りたいような、知りたくないような。


「建国祭でのご予定が終わり次第、ラウレンティウス殿下はこちらへお見えになるそうです。それまでに姫様に一番似合う装いを探し、驚かせてさしあげましょう」

「え、それは」

「うふふ、お任せ下さい。さ、皆。姫様に働きをお見せするのです」

 

 エリム夫人の掛け声に、はいっ!と並ぶ使用人達の中から、恐らく着替えなど身の回りの世話をする侍女やメイドだろう、若い女性達の一際良い声が返ってくる。

 姫らしい服に着替えるだけなら理由も必要性も分かるが、エリム夫人の言い方だとまるで皇太子を喜ばせる為に着飾るように聞こえた。シャオヤオとしてはそんなの心底どうでもいい。そんな本音がするっと口から出ようとしたが、その前にまたエリム夫人の流れるような動きと生き生きとしたメイド達に捕まり、あっと言う間にシャオヤオは屋敷の中へと連れ込まれる。

 本気で抵抗すれば余裕で逃げられるのだが、シャオヤオが暗殺者と知らない者は無為に傷付けてはいけない約束だ。何より彼女達にとってはこれが仕事なのである。悪意あってやる訳ではない。

 ならばシャオヤオも仕事に徹するのみ。これも姫に成り済ます為、引いてはさっさと終わらせてムーダンの元に帰る為、避けては通れない業務の一環だと思って人生初の着せ替え人形と化した。



「素晴らしい! 可愛い! 粗雑なお仕着せもそれはそれで似合っているが、可愛らしくも大人しい上品な装いがシャオヤオの可愛らしい顔立ちを引き出させている! 皆、大義である!」

 

 程なくして、本当に来た皇太子が絶賛するくらいにはシャオヤオは可愛く仕上がっていた。

 初めて体験する肌心地の良いさらさらとした生地のドレス…貴族的には普段着らしいが、2人掛りで解かされ艶々となった髪、薄く施された化粧。ただ着替えるだけだと思っていたらとんでもなかった。それなりの時間を掛け丁寧に仕上げられた結果は自分で言うのも何だが、背筋を伸ばして黙って立っていれば、本当に何処かのお姫様に見える程だ。

 ただ当のメイド達的には、時間が無くて妥協せざるを得なかった非常に不本意な出来なのだとか。これからもっともっと時間を掛けじっくり仕上げていくと、良い顔で息巻いている。

 

 こうして暗殺者“黒猫”ことシャオヤオの、皇太子の婚約者としての生活は始まったのである。

 とりあえず、褒めちぎってくる皇太子の顔面を無性に殴りたくなった。

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