第32話

 ララクは、意識の奥底からゆっくりと浮かび上がるような感覚で、重いまぶたを開けた。


「……ここは、もしかして……」


 彼は困惑しつつも、直前の記憶をはっきりと覚えていた。自分の身に何が起きたのか。最初に思い起こされたのは、視界一面に広がる蠢く魔の手。


 ララクはその手によって、異空間へといざなわれたのだ。


 異空間の中はだだっ広く、真っ黒な内観をしている。電気はないはずなのだが、はっきりと中を視認できる不思議な場所だった。


「……うわっ! な、なんだ!?」


 彼が状況を把握しようとしていると、目の前から突然と飛来物がやってきた。壁のない真っ黒な空間を漂うように、流れてきたのだ。


「……えっと、これって椅子だよな?」


 彼の前に向かってきた、というよりはそれの進行方向にララクがいた、という方が正しいだろう。背もたれのついた家庭用の椅子が、異空間をさまよっていたのだ。

 ごく一般的な椅子なのだが、明らかにおかしな点もある。それは1本の【いざないの手】が、椅子をぐるっと一周するように巻かれているのだ。


 ララクはとりあえず体を動かし、椅子を避けることにした。その時彼は、ここには地面さえも存在しないことに気がつく。

 なので歩くというよりは、水の中を泳ぐ、ような感覚だった。スキルの【空中浮遊】の時のような状態にも近しい、と感じていた。


「……ここにあるのって、もしかして、天使の里?」


 ララクは周辺を視察すると、様々な家具が点在していることに気がついた。家族用のテーブルに、ダブルベッド、そして家そのものまでが異空間をさまよっている。そしてそれらは例外なく、【いざないの手】がどこかしらに張り付けられている。


 ここから魔力や質量など様々なエネルギーを吸い取り、本来の【いざないの手】に還元して強化するシステムになっている。なので、ここに見える手たちは、攻撃用の物というよりはマーキング用といえるだろう。


 そして、【いざないの手】が力を吸い出す対象には、当然ララクも含まれている。


「……っぐ、腕が……」


 彼の右手がひどく痛んだ。少年の頼りなく見える腕に、【いざないの手】が巻き付いていたのだ。手首のあたりをぐっと握りしめており、彼の力を抑制しているようだった。


「力が制限されているみたいだ。

(……それで、これからどうするべきか。都合よく出口があるようには見えないけれど。いや、外でスキルを発動すれば、出入り口が出現する可能性も……。

 ……けど、相手のタイミングが分からないし、現実的ではないか)」


 ララクは【いざないの手】が、彼も持っている【ポケットゲート】のような仕様なのではないかと予想した。【ポケットゲート】は異空間の出入り口を開き、そこから物を出し入れすることができる。

 なので、【いざないの手】発動時に、異空間側にも外に繋がる窓のようなものが現れるのではないか、と考えたのだ。


 なのだが、ララクは不明な点が多すぎて考えてもらちが明かないと思い、とりあえずは異空間の中を移動してみることにした。


「よいっと」


 異空間の移動はもちろん初めてだが、やはり空中や水中移動に近しいので、意外と手間どることなく体を動かす事ができた。

 しかし、【いざないの手】が巻き付かれた右手を動かそうとすると痛みが走り、動きも鈍く思えた。それに、先ほどよりもララクの胴体へ向かって腕を伸ばしているように見える。


 家や物置などの間を通り抜けて抜けていくと、今度はきらびらとした光が放たれている物が広がった。それは天国草原などに生い茂る緑と桃色の植物たちだ。

 これは天使の里の地面に生えていたものだ。グベラトスは里を襲撃した時、【いざないの手】の異空間を地面の上から設置して、あらゆるものを誘致した。


 ララクがさらに進んでいくと、ついに生物と出会う。

 それは、体を蝕まれるように【いざないの手】を纏った天使たちだった。


 全員が天使特有の白い肌と、天輪と呼ばれる輪っかのような角をしている。ざっと数えるだけで100人以上は軽く超えており、異空間の広さを考えるとまだ存在すると予想できる。


「……ひどいな、これは」


 天使たちは全員目を閉じており、苦しそうに悶えていた。腕に縛られているというのはもちろんだが、内側から苦しめられているようにも思える。


(そうか、これが豪魔の怨念、ってことか)


 ララクは天使たちが、グベラトスのいった豪魔族の恨みや辛みを、強制的に共有させられているのだと理解した。

 ぶるぶると小刻みに体を揺らしながらも、逃げ場もなく、か細い嘆き声を挙げるだけの天使たちの姿は、見るに堪えない光景だった。


(これが、豪魔がやろうとしていること、か。

 ん? ……待てよ、だとしたらなんで……)」


 ララクは自分の重くなった右手をもう一度注視する。さらに締め付けが強くなってきて不快極まりなかった。

 今の状態でも充分苦痛だが、彼にはまだ「怨念」のようなものは共有されていない。


 そこである仮説を立てた時、それを裏付けるような人物たちを発見する。


「っあ、フリラスさん! テンタクさん!」


 そう天使たちの後方に、ついさっき一緒だった紫雷のテンタクと、雷槍のフリラスを見つけたのだ。

 彼女たちと同じタイミングで彼はいざなわれたので、天使たちの紛れていてもすぐにピンときた。


 ララクはまた体を動かし、彼女たちの元へと早急に近づいた。


 すぐに2人の前へと移動すると、彼は自分の考えたがあっていることを確信する。


「……う、っぐ、かぁっ!」


「……はぁ、ふぅ……、くぅ……」


 同じ時刻、場所で捕らえられたはずの天使2人は、高熱を出したようにひどくもがき苦しんでおり、全身に細長い【いざないの手】が巻き付いていたのだった。

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