第2話 第1部「『記紀』等記載の古代天皇系譜伝承」第1章「初代神武天皇から九代開化天皇の基礎情報」
第1節……「はじめに」
『古事記』は、712(和銅5)年に
一方の『日本書紀』は681(天武天皇10)年に編纂が開始され、720(養老4)年に舎人親王が元正天皇に奉献した、我が国最初の正史である。第1巻から第2巻までは神話であり、第3巻から第30巻までは神武天皇から持統天皇までの事績を異説や注釈で編年体で記されており、計30巻よりなる。
小論で取り上げるのは上記の「記紀」に記されており、戦後における初期9代の古代天皇実在論を研究するのであるが、そのためにはこの9代の天皇の概要をのべていく。なお、以下に羅列してある天皇の和風諡号は『紀』を参照にしている。なお、当該各代天皇の基礎情報は吉川弘文館から出版されている『国史大辞典』を参考としている。
第2節……「【初代】神武(
『古事記』では「神倭伊波礼毗古命」とよばれる。彼は、『記紀』に記載されている初代天皇とされている人物であり、皇室の祖先である。『記紀』記載上の南九州の日向から大和に入ってきて皇位に即いたとされる伝説上の存在である。
特に『紀』では後述する諸兄及び長子の
彼の周辺の系譜伝承の記述は『記』では中巻、『紀』では巻2「神代上」の「
・【初代】神武(神日本磐余彦)天皇からの派生氏族等
『古事記』・
『日本書紀』・次節の綏靖天皇紀の神八井耳命の記述に「
「母系」・母=海神の娘で彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊を産んだ豊玉姫命の妹の玉依姫命。・妻=『紀』によると事代主神の娘で媛蹈韛五十鈴媛命。
第3節……【2代】
『記』では、「
父である神武天皇の死後、同母兄の神八井耳命とともに亡父の正妃、媛蹈韛五十鈴媛命と婚姻をして実権をえようとした異母兄の手研耳命を撃って、翌年即位、皇居を
彼の周辺の系譜伝承の記述は『記』では中巻、『紀』では巻3、4に書かれている。特に今回のタイトルにある氏族の系譜伝承は『記』に豊富であり、特に派生しているのは綏靖の兄「神八井耳命」からである。なお、綏靖兄弟には『記』に見られて『紀』には見られない綏靖やその兄「神八井耳命」の兄である「日子八井命」がいる。母は事代主神(大物主神)の娘で媛蹈韛五十鈴媛命(富登多多良伊須須岐比賣命)である。妻は『記』によると
・【2代】綏靖(神渟名川耳)天皇の派生氏族等
『古事記』・関連記載なし。「母系」・母=大物主神の娘で富登多多良伊須須岐比賣命。妻=師木縣主の祖、川俣毗賣。
『日本書紀』・関連記載なし。「母系」母=事代主神の娘で媛蹈韛五十鈴媛命。妻=事代主神の娘で母媛蹈韛五十鈴媛命の妹五十鈴依媛(一説には磯城県主女川派媛。また一説には春日県主大日諸女糸織媛)。
第4節……【3代】
『記』では、「
彼は、正妃から2~3人の子どもをもうけている。『記』では「
・【3代】安寧(磯城津彦玉手看)天皇の派生氏族等
『古事記』・師木津日子命(懿徳天皇の弟)の子ども2人=その一人(名称不明)=
『日本書紀』・磯城津彦命(懿徳天皇の弟)=(猪使連)。「母系」・母=事代主神の娘で五十鈴依媛。・妻=事代主神の孫鴨王の娘渟名底仲媛命またの名を渟名襲媛(『紀』の一説には磯城縣主葉江の娘川津媛。また一説には大間宿禰の娘糸井媛)。
第5節……【4代】
『記』では、「
子息について、『記』では、「御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)」と「
・【4代】懿徳(大日本彦耜友)天皇の派生氏族等
『古事記』・當藝志比古命=血沼之別、多遅麻竹別、葦井之稲置。「母系」・母=河俣毗賣の兄、縣主浪延の娘阿久斗比賣。・妻=師木縣主之祖賦登麻和訶比賣命またの名飯日比賣命。
『日本書紀』・関連記載なし。「母系」・母=事代主神の孫鴨王の娘渟名底仲媛命またの名を渟名襲媛。妻=息石耳命の娘天豊津媛命(一説では磯城県主葉江の弟猪手の娘泉媛。一説では磯城県主太真稚彦の娘飯日媛)。
第6節……【5代】
『記』では、「
『記』では「
・【5代】孝昭(観松彦香殖稲)天皇の派生氏族等
『古事記』・天押帯日子命=春日臣、
『日本書紀』・天足彦国押人命=(和珥臣等)。「母系」・母=息石耳命の娘天豊津媛命。・妻=尾張連遠祖瀛津世襲の妹世襲足媛(一説では磯城県主葉江の娘渟名城津媛。一説では倭国豊秋狭太雄の娘大井媛)
第7節……【6代】
『記』では、「
『記』では「
・【6代】『孝安天皇(日本足彦国押人天皇)』の派生氏族等
『古事記』・関連記載なし。「母系」・母=尾張連之祖、
『日本書紀』・関連記載なし。「母系」・母=尾張連の遠祖
第8節……【7代】
『記』では、「
(前略)
(後略)
これは「大吉備津日子命と若日子建吉備日子命の二皇子は、針間(播磨)の氷河の前つまり今日の兵庫県の加古川地域に忌瓮つまり神を祭るための神聖な酒を注いだ瓶と祭場を設置とその場所を西方への入り口として吉備国つまり今日の岡山県全域と広島県東部を平定した」 という記述がある。(10)
『記』では「大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)」はもちろん、それぞれ別の妃から「
・【7代】孝霊天皇(大日本根子彦太瓊)天皇の派生氏族等
『古事記』・比古伊佐勢理毗古命またの名大吉備津日子命=(吉備上遣臣)・若日子建吉備津日子命=(吉備下道臣、
『日本書紀』・稚武彦命=(吉備臣等)。「母系」・母=天足彥國押人命の娘の可能性がある姪押媛。・妻=磯城縣主大目の娘細媛命(一説では春日千乳早山香媛。また一説では十市県主等祖女真舌媛)と倭国香媛(またの名絙某姉)そして絙某姉。
第9節……【8代】
『記』では、「
彼から派生したとされる氏族は数多いものである。特に「
・【8代】孝元(大日本根子彦国牽)天皇の派生氏族等
『古事記』・
・比古布都押之信命……
・
『日本書紀』・大彦命=(阿倍臣、膳臣、
第10節……【9代】
『記』では、「
派生氏族であるが『紀』には記載されていないが『記』には数多くの「派生した」とされる氏族が記されている。母は、『記』では穂積臣等の祖内色許男命の妹で内色許賣命であり、『紀』では穗積臣達の祖欝色雄命の妹欝色謎命である。后妃は、『記』では
・【9代】開化(稚日本根子彦大日日)天皇の派生氏族等
『古事記』・
『日本書紀』・関連記載なし。「母系」・母=穗積臣達の祖欝色雄命の妹欝色謎命。・妻=丹波竹野媛と物部氏の遠祖の大綜麻杵の娘で庶母、伊香色謎命 、和珥臣の遠祖姥津命の妹姥津媛。
第十一節……「おわりに」
以上、前節に渡って『記紀』に記されている古代天皇の基礎情報と系譜伝承を見てきたが、その系譜伝承を見てきて筆者が総括してみた。それが以下の通りである。
・『記紀』の系譜伝承の両記述を見てきて、『古事記』の関連記述が、『日本書紀』のそれよりも豊富であった。そのように感じた理由は、注釈文の多さである。
・『記紀』の系譜伝承の両記述を見てきて、両書の記述内容の違う部分があること。
・『古事記』の系譜伝承の記述が孝霊から開化の「記」で突然多くなっていること。これは、『紀』でも『記』ほどではないが、同様の傾向がある。(例えば、孝昭天皇の系譜から出てきたとされる春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、和珥臣と孝元天皇の系譜から出てきたとされる阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣等の大彦命系の氏族と蘇我臣、許勢臣、平群臣、小治田臣等の武(建)内宿禰系の氏族)
また天皇の母親や后妃の系譜等のいわゆる母系の系譜伝承の記述を見て、気になった内容があるが、それは以下の通りである。
・初代神武天皇から3代安寧天皇までは『記』で言う、美和(三輪)の大物主神、『紀』で言う事代主神の子女などの古代の大和の地域において信ぜられていた神の子女と子孫が天皇の后妃になっていたのだが、2代綏靖天皇以降の『記』の師木縣主の祖や『紀』「一書云」という本文とは別の注釈に「磯城県主の葉江」などの「師木・磯城県主」の祖という豪族が目立っていた。また県主系については『記紀』共に「十市」県主の祖そして綏靖天皇紀の「一書云」の一つの「春日県主」と安寧天皇紀の「一書云」の一つの「大間宿禰」言われる豪族が磯城県主に次いで多く母系でつながっていた。いずれも『記紀』編纂時には権勢を誇っていないヤマト土着豪族である。
ちなみに、上で取り上げたヤマト土着豪族以外で古代天皇に母系でつながっている豪族は饒速日命を祖とする物部氏と同族「穂積臣」、天火明命を祖とする「尾張連」天孫族と「丹波県主」というヤマト以外の豪族と姻戚関係を天皇の代を追うごとにとっている。
また『記紀』の内『記』の方の系譜には、「国造」や「臣」と「連」、「君」そして「別わけ」、「稲置」といういわゆる氏姓制度下の称号=「姓かばね」を持っている氏族が載っており、それぞれが天皇または皇族を祖先としていた。そして八代孝元天皇から出た武(建)内宿祢の系譜にはあの「蘇我臣」がいた。
以上のことから、これらの系譜は『記紀』編纂時に諸氏族が立場を正当化するために「急ごしらえ」で創作されたものであるという考えも出てくるだろう。
しかしながら筆者は『記紀』の系譜伝承についてこう考えてもいいのではと考えた。それは、特に『記紀』共に七代孝霊天皇から九代開化天皇までの記述には、他の天皇の記述以上に数多くの派生したとされる氏族が記されている。私はそこから、もし『記紀』の氏族の系譜伝承がその両書の編纂当時に「何もない無から創作されたもの」であるならば、初代神武天皇から九代開化天皇までの各伝承の記述の中に、ほぼ同数か計九代に氏族系譜を均衡に振り分けることも可能だった筈である。そのようなことをしなかった、そのように意識した記述が見られないということは、当時の氏族各自が持っていた出自の伝承をベースとして純粋に編集されたものだと考える方が、筆者は妥当だと考える。
少し余談であるが、筆者が今回の小論で研究対象としている初代神武天皇以下九代のいわゆる和風諡号が、『記紀』編纂時の歴代天皇のそれと同じであるから、この計九代の天皇系譜は後世の造作つまり『記紀』編纂時に当時の朝廷の立場を正当化するために「何もない無から創作されたもの」だという考え があるが、筆者が後ほど論じるように、当該伝承はそうではなく編纂当時までに伝承されてきた系譜を発見と分析、集約、編集したものであると考えている。何故ならば『記紀』編纂時の歴代天皇の和風諡号を参考に創作されたものであったならば、その両書を読ませる一番の対象である当時の知識人層や支配層の人々によって、すぐに看破される可能性があったからである。
さて本章の最後として、『記』に多く書かれていた系譜伝承の記述が『紀』ではあまり記されていない理由について皇学館大学名誉教授の田中卓氏は、自身の著作 (13)で「『古事記』に較べて、『日本書紀』に後裔氏族が少ないのは、本来、『日本書紀』には別に『系図一巻』が備わっていたからでしょう」と述べていた。
この『系図一巻』について、皇学館大学の荊木美行氏は 、『紀』の本巻の他に、今日では散逸している各氏族の詳細な系譜伝承が記されているとされる『系図一巻』の散逸時期と散逸した理由について「はっきりとした時期を特定」することは難しいとしたうえで、「『弘仁私記』序が書かれた弘仁十(八一九)年頃はまだ存在して」おり、それ以降に散逸したのではないかと論じていた。そして散逸した理由について、『紀』本巻からも『系図一巻』の持つ情報があると述べた上で「書き写すことが億劫になったから書き写す人が時と共に減少していった」と推測していた。荊木氏がこのように言っているのは、荊木氏自身が、「『紀』の本巻の記述だけで系図を書くことができたからだ」と述べていたからである。(14)
(1)……国史大辞典編纂委員会『国史大辞典(第8巻)』吉川弘文館1986(昭和61)年936~937pを記述の参考とした。
(2)……「初代天皇」という意味。但し『記』にはそのような意味の記述はなかった。
(3)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第八巻』一九八七(昭和六十二)年19p及び『記』中巻神武天皇段と『紀』第四巻綏靖天皇紀を記述の参考にした
(4)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第一巻』一九七九(昭和五十四)年396pを記述の参考にした。
(5)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第一巻』一九七九(昭和五十四)年713pを記述の参考にした。
(6)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第五巻』一九八五(昭和六十)年389pを記述の参考にした。
(7)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第五巻』一九八五(昭和六十)年279pを記述の参考にした。
(8)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第五巻』一九八五(昭和六十)年561pを記述の参考にした。
(9)……引用は倉野憲司校注『古事記(岩波文庫)』岩波書店 一九六三(昭和三十八)年
(10)……現代語訳引用は次田真幸全訳注『古事記(中)(講談社学術文庫)』講談社 一九八〇(昭和五十五)年
(11)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第五巻』一九八五(昭和六十)年328pを記述の参考にした。
(12)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第三巻』一九八三(昭和五十八)年12pを記述の参考にした。
(13)……第十四章「神武天皇の架空を説く直木氏の空想的反映法」『田中卓評論集第三巻 祖国再建上巻』青々企画 二〇〇六(平成十八)年 なお、青々企画は、二〇一八(平成三十)年に田中氏死去と同時期に活動停止。
(14)……第一編第一章「『日本書紀』「系図一巻」再論」『記紀と古代史料と研究』国書刊行会 2008(平成20)年
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