第2話 第1部「『記紀』等記載の古代天皇系譜伝承」第1章「初代神武天皇から九代開化天皇の基礎情報」

 第1節……「はじめに」

『古事記』は、712(和銅5)年に太安万侶おおのやすまろが元明天皇に撰進した、わが国における現存最古の歴史書である。天皇の系譜や派生氏族そして母系氏族系譜伝承を中心とした「帝紀」と主な事績そして神話や歌謡などの物語を中心とした「旧辞きゅうじ」を材料として、上巻を神話、中巻を神武天皇から応神天皇までを、下巻を仁徳天皇から推古天皇までの事績を記し、計3巻よりなる。

 一方の『日本書紀』は681(天武天皇10)年に編纂が開始され、720(養老4)年に舎人親王が元正天皇に奉献した、我が国最初の正史である。第1巻から第2巻までは神話であり、第3巻から第30巻までは神武天皇から持統天皇までの事績を異説や注釈で編年体で記されており、計30巻よりなる。

 小論で取り上げるのは上記の「記紀」に記されており、戦後における初期9代の古代天皇実在論を研究するのであるが、そのためにはこの9代の天皇の概要をのべていく。なお、以下に羅列してある天皇の和風諡号は『紀』を参照にしている。なお、当該各代天皇の基礎情報は吉川弘文館から出版されている『国史大辞典』を参考としている。


  第2節……「【初代】神武(神日本磐余彦かむやまといはれひこ)天皇」(1)

 『古事記』では「神倭伊波礼毗古命」とよばれる。彼は、『記紀』に記載されている初代天皇とされている人物であり、皇室の祖先である。『記紀』記載上の南九州の日向から大和に入ってきて皇位に即いたとされる伝説上の存在である。

 特に『紀』では後述する諸兄及び長子のぎしみみのみこととともに日向を出発し、宇佐と遠賀川流域とされる岡の水門から瀬戸内海をへて、河内の白肩しらかたの津に上陸したが、長髄彦ながすねひこ孔舎くさ衛坂えさかに防御したために、紀伊を迂回しこの間に諸兄を失った。熊野で高倉下たかくらじの迎えを受け、頭八咫やたがらすひのおみみちのおみみことの先導により大和に入った。菟田うだ(後の宇陀)では弟猾おとうかし猛田県主たけだのあがたぬしの祖)が帰順し、吉野では井光いひか吉野首よしののおびとの祖)・磐排いわおしわけ国樔部くずべの祖)・苞苴担にえもつ養鸕部うかいべの祖)等が服従し、国見くにみのおかでは八十梟やそのたけを斬り、じ後その残党を忍坂おさかで撃滅した。磯城しきでは、弟磯城おとしき(磯城県主の祖)が帰順した。じ後、さらに進み長髄彦を鳥見とみで撃破した。その戦闘の際に、金色のとびが磐余彦の弓弭ゆはずにとまり、敵はその光にくらいた。かねて長髄彦に婿入りし奉ぜられていた饒速日命にぎはやひのみことは磐余彦が天神の子であることを認めて、義理の父である長髄彦をころして帰順した。これが物部・石上氏の祖先である。なお層富そふ新城戸畔にいきとべ和珥坂下わにさかもと巨勢祝こせのはふりほそみの長柄ながえおかさきいのはふりなどの土蜘蛛つちぐももすべて滅ぼされた。そこで磐余彦は畝傍山うねびやまの東南橿原かしはらの地を根拠地とし、正妃に『記』によると美和(三輪山)の大物主神の娘富登多多良伊須須岐比賣命(比賣多多良伊須氣余理比賣)であり、『紀』によると事代主神の娘で媛蹈韛五十鈴媛命を立て、辛酉の歳に皇位に着いたとされる。これを『紀』では始馭はつくに天下之しらす天皇すめらみこと(2)と称する。じ後、功労のあった臣下に恩賞を与え、また鳥見山に霊畤つまり祭場を立てて、皇祖の天神を祭った。在位76年、寿命127歳で崩御。畝傍山東北陵に葬られたとされる。

 彼の周辺の系譜伝承の記述は『記』では中巻、『紀』では巻2「神代上」の「彦波瀲武鸕鶿ひこなぎさたけう草葺不合がやふきあえずのみこと」の子どもたちに関する記述から始まるのだが、『記』では「五瀬命いつせのみこと」次に「稲永いないひ命」と「御毛沼みけぬ命」そして「若御毛沼わかみけぬ命」またの名は「神倭伊波礼毗古命(神武天皇)」の順で生まれた。『紀』では、「五瀬命」次に「稲飯命」と「三毛入野命」そして「神日本磐余彦命(神武天皇)」で生まれたと記されていた。また『紀』のこの記述には本文以外の四つの「一書曰」があり、四子の生まれる順序の違いが見える。母は海神の娘で彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊を産んだ豊玉姫(豊玉毘賣)命の妹の玉依姫(玉依毘賣)命。

 ・【初代】神武(神日本磐余彦)天皇からの派生氏族等

 『古事記』・日子八ひこやいのみこと茨田連まむだのむらじ手嶋連てしまのむらじ ・神八かむやみみのみこと意冨おほのおみ小子部連ちいさこべのむらじひのきみ大分おほきたのきみ阿蘇あそのきみ筑紫つくし三家連みやけのむらじ雀部ささきべのおみ雀部造ささきべのみやつこ小長谷造おはつせのみやつこ都祁つげのあたい伊余いよの国造くにのみやつこ科野しなのの国造くにのみやつこみちのくのいわきの国造くにのみやつこ長狭ながさの国造くにのみやつこ伊勢舩いせのふなきのあたい尾張おはりの丹羽にはのおみ嶋田しまだのおみ等。「母系」・母=海神の娘で彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊を産んだ豊玉毘賣命の妹玉依毘賣命。妻=『記』によると美和(三輪)の大物主神の娘富登多多良伊須須岐比賣命(比賣多多良伊須氣余理比賣)。

 『日本書紀』・次節の綏靖天皇紀の神八井耳命の記述に「多臣おおのおみの始祖」であるという記述がある。『記紀』両署の編纂の中心人物の一人、太安万侶おおのやすまろは『記』の「意富臣」、『紀』の「多臣」という「オオ氏」出身である。

「母系」・母=海神の娘で彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊を産んだ豊玉姫命の妹の玉依姫命。・妻=『紀』によると事代主神の娘で媛蹈韛五十鈴媛命。


第3節……【2代】綏靖すいぜい(神渟名川耳かむぬながわみみ)天皇 (3)

『記』では、「神沼河耳命かむぬなかわみみのみこと」とよばれる。彼は、『記紀』に記載されている2代天皇であり、『記紀』共にこの天皇から9代開化天皇まで、どこを宮つまり皇居としたのか、誰を妃として娶ったのか、そしてその系譜からどのような氏族が派生したのか(主に『記』)などを記したいわゆる『帝紀』的記事しか見られず事績などを記したいわゆる『旧辞』的記事がないというところから「欠史八代」とよばれている。

父である神武天皇の死後、同母兄の神八井耳命とともに亡父の正妃、媛蹈韛五十鈴媛命と婚姻をして実権をえようとした異母兄の手研耳命を撃って、翌年即位、皇居を葛城かつらぎの高丘宮たかおかのみやに遷した。在位33年、88(『記』では45)歳で崩御し、桃花鳥田つきだの丘上おかのえのみささぎに葬られたとされる。『旧辞』的記事がない欠史八代の最初であるが、即位前記の権力闘争的な記述がある。

彼の周辺の系譜伝承の記述は『記』では中巻、『紀』では巻3、4に書かれている。特に今回のタイトルにある氏族の系譜伝承は『記』に豊富であり、特に派生しているのは綏靖の兄「神八井耳命」からである。なお、綏靖兄弟には『記』に見られて『紀』には見られない綏靖やその兄「神八井耳命」の兄である「日子八井命」がいる。母は事代主神(大物主神)の娘で媛蹈韛五十鈴媛命(富登多多良伊須須岐比賣命)である。妻は『記』によると師木縣主しきのあがたぬしの祖、川俣毗賣かわまたひめであり、『紀』によると事代主神の娘で母媛蹈韛五十鈴媛命の妹五十鈴依媛いすずよりひめ(一説には磯城県しきのあがたぬしむすめ川派媛かわまたひめ。また一説には春日県主かすがのあがたぬし大日諸おおひもろむすめ糸織媛いとりひめ)であり安寧天皇をもうけたとのこと。

・【2代】綏靖(神渟名川耳)天皇の派生氏族等

『古事記』・関連記載なし。「母系」・母=大物主神の娘で富登多多良伊須須岐比賣命。妻=師木縣主の祖、川俣毗賣。

『日本書紀』・関連記載なし。「母系」母=事代主神の娘で媛蹈韛五十鈴媛命。妻=事代主神の娘で母媛蹈韛五十鈴媛命の妹五十鈴依媛(一説には磯城県主女川派媛。また一説には春日県主大日諸女糸織媛)。


第4節……【3代】安寧あんねい(磯城津彦玉手看しきつひこたまてみ)天皇(4)

『記』では、「師木津日子玉手見しきつひこたまてみ命」とよばれる。彼は『記紀』に記載されている3代天皇であり、兄弟は彼一人である。父である2代綏靖天皇25年立太子、同33年父天皇崩御を受けて即位。じ後、片塩かたしおの浮孔うきあな宮に皇居を遷したという。在位38年、57(『記』では49)歳で崩御し、畝傍山うねびやまの西南ひつじさるの御陰みほど井上いのえのみささぎに葬られたとのこと。

 彼は、正妃から2~3人の子どもをもうけている。『記』では「とこ根津ねつ日子伊呂泥ひこいろねみこと」次に「大倭日子鉏友命(懿徳天皇)」そして「師木津日子命しきつひこのみこと」であり、さらに「師木津日子命」の子の一人は3つの「稲置いなぎ」の祖になる。『紀』では、「息石耳いきしみみのみこと」と「大日本彦耜友天皇」の順でもうけると記されているが、その注記では、「常津彦とこつひこ某兄いろね」と「大日本彦耜友天皇」そして「磯城津彦しきつひこのみこと」の順でもうけたと記されており、またその「磯城津彦命」は「猪使連いつかひのむらじ」という氏族の始祖であると記されていた。母は『記』では師木縣主しきのあがたぬしの祖、川俣毗賣かわまたひめ。『紀』では事代主神の娘で五十鈴依媛。(一説には磯城県主女川派媛。また一説には春日県主大日諸女糸織媛)である。后妃は、『記』では河俣毗賣の兄、縣主浪延あがたぬしはえの娘阿久斗比賣あくとひめであり、『紀』では事代主神の孫かものきみの娘渟名底仲媛なそこなかつひめのみことまたの名を渟名襲媛ぬなそひめ(『紀』の一説には磯城県しきのあがたぬし葉江はえの娘川津媛かわつひめ。また一説には大間宿禰おおまのすくねの娘糸井媛いといひめ)である。

・【3代】安寧(磯城津彦玉手看)天皇の派生氏族等

 『古事記』・師木津日子命(懿徳天皇の弟)の子ども2人=その一人(名称不明)=伊賀須いがのすちの稲置、那婆理之なばりの稲置、三野之みのの稲置。 「母系」・母=師木縣主しきのあがたぬしの祖、川俣毗賣。妻=河俣毗賣の兄、縣主浪あがたぬしはの娘阿久斗比賣。

 『日本書紀』・磯城津彦命(懿徳天皇の弟)=(猪使連)。「母系」・母=事代主神の娘で五十鈴依媛。・妻=事代主神の孫鴨王の娘渟名底仲媛命またの名を渟名襲媛(『紀』の一説には磯城縣主葉江の娘川津媛。また一説には大間宿禰の娘糸井媛)。


 第5節……【4代】懿徳いとく(大日本彦耜友おおやまとひこすきとも)天皇(5)

 『記』では、「大倭おおやまと日子鉏ひこすきとも命」とよばれる。彼は『記紀』に記載されている四代天皇である。父安寧天皇11年に立太子、同38年父天皇崩御の翌年に即位、皇居を軽曲峡かるのまがりおの宮にうつして、在位34年、77(『記』では45)歳で崩御し、畝傍うねび山南繊沙渓上やまのみなみのまさごのたにのえ陵に葬られたとのこと。

 子息について、『記』では、「御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)」と「當藝たぎ志比しひこのみこと」の順でもうけたと記されており、「當藝志比古命」は「血沼之ちぬのわけ」と「多遅たじまのたけのわけ」、「葦井之あしいの稲置いなぎ」の三氏族の祖であると記されていた。なお『紀』では「観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)」をもうけたとしか記されていなかった。母は、『記』では河俣毗賣の兄、縣主浪延の娘阿久斗比賣あくとひめであり、『紀』では事代主神の孫鴨王の娘渟名底仲媛命またの名を渟名襲媛である。妻は『記』では師木縣主之祖賦登麻和訶比賣ふとまわかひめのみことまたの名いい日比賣ひひめ命であり、『紀』では安寧天皇王子息石耳命の娘天豊津媛あめとよつひめのみこと(一説では磯城県主葉江の弟猪手いての娘泉媛いずみひめ。一説では磯城県主太真稚彦ふとまわかひこの娘いい日媛ひひめ)である。

・【4代】懿徳(大日本彦耜友)天皇の派生氏族等

 『古事記』・當藝志比古命=血沼之別、多遅麻竹別、葦井之稲置。「母系」・母=河俣毗賣の兄、縣主浪延の娘阿久斗比賣。・妻=師木縣主之祖賦登麻和訶比賣命またの名飯日比賣命。

 『日本書紀』・関連記載なし。「母系」・母=事代主神の孫鴨王の娘渟名底仲媛命またの名を渟名襲媛。妻=息石耳命の娘天豊津媛命(一説では磯城県主葉江の弟猪手の娘泉媛。一説では磯城県主太真稚彦の娘飯日媛)。


第6節……【5代】孝昭こうしょう(観松彦香殖みまつひこかえし)天皇 (6)

 『記』では、「御眞津日子訶惠志泥みまつひこかえしね命」とよばれる。彼は『記紀』に記載されている5代天皇である。4代懿徳天皇22年立太子、同34年父天皇崩御の翌年即位。じ後、皇居を掖上わきのかみのいけごころ宮に遷し、在位83年、113(『記』では93)歳で崩御し、掖上わきのかみの博多はかたの山上やまのえ陵に葬られたとのこと。

 『記』では「天押帯あめのおしたらし日子ひこのみこと」と「大倭帯日子押人命(孝安天皇)」の順でもうけたと記されており、特に「天押帯日子命」からは「春日かすがのおみ」などの十六もの氏族が派生したと記されていた。なお『紀』では「天押帯日子命」は「天足彦国押あめのたらしひこくにおし人命ひとのみこと」と記されており、「和珥わにのおみ」の始祖であると記されていた。母は『記』では師木縣主の祖賦登麻和訶比賣命またの名は飯日比賣命であり、『紀』では安寧天皇皇子息石耳命の娘天豊津媛命である。妻は『記』では尾張連おわりのむらじ之祖、奥津余曽おきつよその妹で余曽よそ多本毗賣たほひめのみことであり、『紀』では尾張連の遠祖瀛津おきつ世襲よその妹世襲足媛よそたらしひめ(一説では磯城県主葉江はえの娘渟名城津媛ぬなきつひめ。一説では倭国豊秋狭やまとのくにとよあきさ太雄たおの娘大井媛おおいひめ)である。

・【5代】孝昭(観松彦香殖稲)天皇の派生氏族等

 『古事記』・天押帯日子命=春日臣、大宅おおやけのおみ粟田あわたのおみ小野おののおみ柿本かきのもとのおみ壹比韋いちひいのおみ大坂おおさかのおみ阿那あなのおみ多紀たきのおみ羽栗はぐりのおみ知多臣ちたのおみ牟耶むざのおみ都怒山つぬのやまのおみ伊勢いせの飯高いいたかのきみ壹師いちしのきみ近淡ちかつあわうみの国造くにのみやつこ。「母系」・母=師木縣主の祖賦登麻和訶比賣命またの名は飯日比賣命。妻=尾張連之祖、奥津余曽の妹で余曽多本毗賣命。

 『日本書紀』・天足彦国押人命=(和珥臣等)。「母系」・母=息石耳命の娘天豊津媛命。・妻=尾張連遠祖瀛津世襲の妹世襲足媛(一説では磯城県主葉江の娘渟名城津媛。一説では倭国豊秋狭太雄の娘大井媛)


 第7節……【6代】孝安こうあん(日本足彦国押人やまとたらしひこくにおしひと)天皇(7)

 『記』では、「大倭帯おおやまとたらし日子国押ひこくにおし人命ひとのみこと」とよばれる。彼は『記紀』に記載されている6代天皇である。父孝昭天皇68年立太子、同83年に父天皇が崩御すると翌年即位し、皇居を葛城の室の秋津あきつ島しま宮に遷した。在位102年、137(『記』では123)歳で崩御し、玉手たまての丘上おかのえ陵に葬られたとされる。

 『記』では「大吉備おおきび諸進もろすすむのみこと」と「大倭根子日子賦斗迩命(孝霊天皇)」の順で子どもをもうけた。また『紀』がしるすところでは「孝霊天皇」しかもうけていない。母は『記』では尾張連之祖、奥津余曽の妹で余曽多本毗賣命であり、『紀』では尾張連遠祖瀛津世襲の妹世襲足媛である。妻は『記』では姪忍鹿比賣おしかひめであり『紀』では兄の天足彥國押人命の娘の可能性がある姪押媛おしひめ(一説では磯城県主葉江の娘長媛ながひめ。また一説では十市といち県主五十坂彦いそさかひこの娘五十坂媛いそさかひめ)である。

・【6代】『孝安天皇(日本足彦国押人天皇)』の派生氏族等

 『古事記』・関連記載なし。「母系」・母=尾張連之祖、奥津余曽おきつよその妹で余曽多本毗賣命。・妻=姪忍鹿比賣。

 『日本書紀』・関連記載なし。「母系」・母=尾張連の遠祖瀛津おきつ世襲よその妹世襲足媛よそたらしひめ。・妻=天足彥國押人命の娘の可能性がある姪押媛(一説では磯城県主葉江の娘長媛。また一説では十市県主五十坂彦の娘五十坂媛)。


 第8節……【7代】孝霊こうれい(大日本根子彦太瓊おおやまとねこひこふとに)天皇 (8)

 『記』では、「大倭おおやまと根子ねこ日子賦斗ひこふと命」とよばれる。彼は『記紀』に記載されている7代天皇である。父孝安天皇76年立太子、同102年に父天皇崩御の翌年に即位。じ後、皇居を黒田廬くろだのいお宮に遷した。在位76年、128(『記』では106)歳で崩御し、かたおかの馬坂うまさか陵に葬られたとのこと。「欠史八代」の中にあるため、『紀』には事績の記述は無いが、『記』では孝霊天皇段に以下の記述がある。(9)


  (前略)


  大吉備津おおきびつ日子ひこのみことわか日子ひこたけ吉備きび津日子つひこ命とは、二柱相ふたはしらあいひて、針間はりま氷河ひのかわさき忌瓮いはいべゑて、針間を道の口として吉備きびくに言向ことむけやわしたまいき。


(後略)


 これは「大吉備津日子命と若日子建吉備日子命の二皇子は、針間(播磨)の氷河の前つまり今日の兵庫県の加古川地域に忌瓮つまり神を祭るための神聖な酒を注いだ瓶と祭場を設置とその場所を西方への入り口として吉備国つまり今日の岡山県全域と広島県東部を平定した」 という記述がある。(10)

 『記』では「大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)」はもちろん、それぞれ別の妃から「吉備上遣きびのかみつみちのおみ」の祖である「比古伊佐勢理毗ひこいさせいりびこのみこと」またの名「大吉備津日子命」や「吉備下遣きびのしもつみちのおみ」の祖「若日子建吉備日子命」などの氏族の祖となった皇子4人を含めた5男3女をもうけたと記されていた。『紀』では、「孝元天皇(大日本根子彦国牽天皇)」を含めた六人をもうけたと記されていた。母は『記』では姪忍鹿比賣であり『紀』では天足彥國押人命の娘の可能性がある姪押媛である。妻は『記』では十市縣主の祖、大目おおめの娘で細比賣くわしひめの命みこと、春日之千々速眞若比賣かすがのちちはやまわかひめ阿礼比賣あれひめのみこと阿礼比賣あれひめのみことの妹蠅伊呂杼はえいろどであり、『紀』では磯城縣主大目の娘細媛くわしひめのみこと(一説では春日千乳早山香媛かすがのちちはやかひめ。また一説では十市県主等の祖の女真舌媛ましたひめ)と倭国香媛やまとのくにかひめ(またの名絙某姉はえいろね)、絙某弟はえいろとである。

・【7代】孝霊天皇(大日本根子彦太瓊)天皇の派生氏族等

 『古事記』・比古伊佐勢理毗古命またの名大吉備津日子命=(吉備上遣臣)・若日子建吉備津日子命=(吉備下道臣、笠臣かさのおみ祖)・日子寤間ひこさめまのみこと=(針間はりまの牛鹿うしかのおみ)・日子ひこさしかた別命わけのみこと=(高志之こしの利波となみのおみ五百いほばらのきみつぬ鹿済かのわたりのあたい)。「母系」・母=姪忍鹿比賣。・妻=十市縣主の祖、大目の娘で細比賣命、春日之千々速眞若比賣、意富夜麻登玖迩阿礼比賣命、阿礼比賣命の妹蠅伊呂杼。

 『日本書紀』・稚武彦命=(吉備臣等)。「母系」・母=天足彥國押人命の娘の可能性がある姪押媛。・妻=磯城縣主大目の娘細媛命(一説では春日千乳早山香媛。また一説では十市県主等祖女真舌媛)と倭国香媛(またの名絙某姉)そして絙某姉。


 第9節……【8代】孝元こうげん(大日本根子彦国牽おおやまとねこひこくにくる)天皇 (11)

 『記』では、「大倭おおやまと根子ねこ日子国玖琉ひこくにくるのみこと」とよばれる。彼は『記紀』に記載されている8代天皇である。父孝霊天皇36年に立太子、同76年に父天皇崩御の翌年に即位し、皇居を軽境かるのさかいはらの宮に遷した。在位57年、116(『記』では56)歳で崩御し、つるぎの池島上いけのしまのえ陵に葬られたとのこと。

 彼から派生したとされる氏族は数多いものである。特に「比古布都押之ひこふとおしのまことのみこと」から派生した「建内たけしうち(『紀』では武内たけしうち宿禰すくね」系の氏族には「蘇我臣」などの有名な氏族につながっている。なお「比古布都押之信命」は『紀』では、「ひこふとおしのまことのみこと」と記されていた。母は、『記』では十市縣主の祖、大目の娘で細比賣命であり、『紀』では磯城縣主大目の娘細媛命である。妻は、『記』では穂積ほづみのおみ等の祖内色許男(うつしこおの》命みことの妹で内色許賣うつしこめのみこと、同じく内色許男命の娘伊迦賀色許賣いかがしこめのみこと河内かわちのあおたまの娘波迩夜須毗賣はにやすひめであり、『紀』では穗積臣達の祖欝色雄命うつしこおのみことの妹欝色謎命うつしこめのみこと伊香いかがしこめのみこと河内かわちのあおたまかけの娘埴安媛はにやすひめである。

・【8代】孝元(大日本根子彦国牽)天皇の派生氏族等

 『古事記』・大毗おおひこのみことの子、たけぬなかわ別命わけのみこと=(阿倍あべのおみ等)・比古伊那許ひこいなこ士別じのわけのみこと=(かしわでのおみ)

・比古布都押之信命……うま師内宿祢しうちのすくね(母は尾張連の祖意富那毗おおなびの妹かつらぎのたか千那毗賣ちなひめ)=(山代内やましろのうちつおみ)、建内宿祢たけしうちのすくね(母は、木国造きのくにのみやつこの祖宇豆比古うずひこの妹山下影比賣やましたかげひめ)の子弟については左に書き記す。

波多八代宿祢はたのやつしろのすくね=(波多臣はたのおみはやしのおみ波美臣はみのおみ星川臣ほしかわのおみ淡海臣あふみおみ長谷部之君はせべのきみ)・許勢小柄宿祢こせのおがらのすくね(許勢こせのおみ雀部さざきべのおみ軽部かるべのおみ)・蘇賀石河宿祢そがのいしかわのすくね=(蘇我臣そがのおみ川邊かわべのおみ高向たかむこのおみ田中たなかのおみ小治田おわりだのおみ櫻井さくらいのおみ岸田きしだのおみ等)・平群都久宿祢へぐりのつくのすくね=(平群臣へぐりのおみ佐和良さわらのおみ馬御樴連うまみくいのむらじ等)・木角宿祢きのつぬのすくね=(木臣きのおみ都奴臣つぬのおみ坂本臣さかもとのおみ)・葛城之かつらぎの長江曽都毗ながえのそつひ=(玉手臣たまてのおみ的臣いくはのおみ生江臣いくえのおみ阿藝那あぎなのおみ)・若子宿祢わかごのすくね=(江野財臣えぬまのおみ)。「母系」・母=十市縣主の祖、大目の娘で細比賣命。・妻=穂積臣等の祖内色許男命の妹で内色許賣命。同じく内色許男命の娘伊迦賀色許賣命と河内青玉の娘波迩夜須毗賣。

 『日本書紀』・大彦命=(阿倍臣、膳臣、阿閉あべのおみ狭狭城山ささきのやまのきみ筑紫つくしの国造くにのみやつここしの国造くにのみやつこ伊賀いがのおみ、凡七族)・彦太忍信命=(武内宿禰之祖父)。「母系」・母=磯城縣主大目の娘細媛命。・妻=穗積臣達の祖欝色雄命の妹欝色謎命、伊香色謎命と河内青玉繁の娘埴安媛。


  第10節……【9代】開化かいか(稚日本根子彦わかやまとねこひこ)大日日《おおびび)天皇 (12)

 『記』では、「若倭根子日子大毗々わかやまとねこひこおおびび命」とよばれる。彼は『記紀』に記載されている9代天皇である。父孝元天皇22年に立太子、同57に父天皇の崩御を受けて即位と皇居を春日率かすがのいざかわ宮に遷した。在位60年、111(『記』では63)歳で崩御し、じ後春日率かすがのいざかわの坂上さかのえ陵に葬られたとのこと。

 派生氏族であるが『紀』には記載されていないが『記』には数多くの「派生した」とされる氏族が記されている。母は、『記』では穂積臣等の祖内色許男命の妹で内色許賣命であり、『紀』では穗積臣達の祖欝色雄命の妹欝色謎命である。后妃は、『記』では旦波之たんばの大縣主おおあがたぬし由碁理ゆごりの娘竹野比賣たかのひめ、父孝元天皇妃の一人の伊迦賀色許賣命と丸迩臣わにのおみの祖で日子國意祁ひこくにおけつのみことの妹、意祁都比賣おけつひめのみこと葛城垂見宿祢かつらぎのたるみのすくねの娘鸇比賣たかひめであり、『紀』では。丹波竹野媛たんばのたかのひめと物部氏の遠祖大綜おおへの娘で父孝元天皇妃の一人の伊香色謎命、和珥わにのおみの遠祖おけつのみことの妹姥津媛おけつひめである。

・【9代】開化(稚日本根子彦大日日)天皇の派生氏族等

 『古事記』・あけたつのみこ=(伊勢品遅部いせのほむちべのきみ勢之佐那造せのさなのみやつこ)・菟上うかみのみこ=(比賣陀君ひめだのきみ)・小俣おまたのみこ=(當麻勾たぎまのまがりのきみ)・志夫美宿祢しぶみのすくねのみこ=(佐々ささのきみ)・沙本毗さほほ古王このみこ=(日下部連くさかべのむらじ甲斐國造かいのくにのみやつこ)・袁耶本おざほのみこ=(葛野之かづののわけ近淡海蚊野之ちかつあふみのかぬのわけ)・室毗むろひ古王このみこ=(若狭之わかさのみみのわけ朝廷みかどわけのみこ=(三川之みかわの穂別ほのわけ)・みずほのわかのみこ=(近淡海之ちかつあふみの安直やすのあたい)・かむ大根おおねのみこ=(三野國之本巣國造みののくにのもとすくにのみやつこ長幡部連ながはたべのむらじ)・おき長日子ながひこのみこ=(吉備品遅きびのほむちのきみ針間阿宗はりまのあそのきみ)・大多牟坂おおたむさかのみこ=(多遅摩國造たぢまのくにのみやつこ)・たけ豊波とよは和気わけのみこ=(みちもりのおみおしぬ海部造みべのみやつこ御名部造みなべのみやつこ稲羽いなばのおしぬ海部みべ丹波之たにはの竹野たかのわけ依網之阿毗よさみのあび等)。「母系」・母=穂積臣等の祖内色許男命の妹で内色許賣命。・妻=旦波之大縣主、由碁理の娘竹野比賣、庶母の伊迦賀色許賣命と丸迩臣の祖で日子國意祁都命の妹、意祁都比賣命、葛城垂見宿祢の娘鸇比賣。

 『日本書紀』・関連記載なし。「母系」・母=穗積臣達の祖欝色雄命の妹欝色謎命。・妻=丹波竹野媛と物部氏の遠祖の大綜麻杵の娘で庶母、伊香色謎命 、和珥臣の遠祖姥津命の妹姥津媛。


  第十一節……「おわりに」

 以上、前節に渡って『記紀』に記されている古代天皇の基礎情報と系譜伝承を見てきたが、その系譜伝承を見てきて筆者が総括してみた。それが以下の通りである。

・『記紀』の系譜伝承の両記述を見てきて、『古事記』の関連記述が、『日本書紀』のそれよりも豊富であった。そのように感じた理由は、注釈文の多さである。

・『記紀』の系譜伝承の両記述を見てきて、両書の記述内容の違う部分があること。

・『古事記』の系譜伝承の記述が孝霊から開化の「記」で突然多くなっていること。これは、『紀』でも『記』ほどではないが、同様の傾向がある。(例えば、孝昭天皇の系譜から出てきたとされる春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、和珥臣と孝元天皇の系譜から出てきたとされる阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣等の大彦命系の氏族と蘇我臣、許勢臣、平群臣、小治田臣等の武(建)内宿禰系の氏族)

 また天皇の母親や后妃の系譜等のいわゆる母系の系譜伝承の記述を見て、気になった内容があるが、それは以下の通りである。


・初代神武天皇から3代安寧天皇までは『記』で言う、美和(三輪)の大物主神、『紀』で言う事代主神の子女などの古代の大和の地域において信ぜられていた神の子女と子孫が天皇の后妃になっていたのだが、2代綏靖天皇以降の『記』の師木縣主の祖や『紀』「一書云」という本文とは別の注釈に「磯城県主の葉江」などの「師木・磯城県主」の祖という豪族が目立っていた。また県主系については『記紀』共に「十市」県主の祖そして綏靖天皇紀の「一書云」の一つの「春日県主」と安寧天皇紀の「一書云」の一つの「大間宿禰」言われる豪族が磯城県主に次いで多く母系でつながっていた。いずれも『記紀』編纂時には権勢を誇っていないヤマト土着豪族である。


 ちなみに、上で取り上げたヤマト土着豪族以外で古代天皇に母系でつながっている豪族は饒速日命を祖とする物部氏と同族「穂積臣」、天火明命を祖とする「尾張連」天孫族と「丹波県主」というヤマト以外の豪族と姻戚関係を天皇の代を追うごとにとっている。

 また『記紀』の内『記』の方の系譜には、「国造」や「臣」と「連」、「君」そして「別わけ」、「稲置」といういわゆる氏姓制度下の称号=「姓かばね」を持っている氏族が載っており、それぞれが天皇または皇族を祖先としていた。そして八代孝元天皇から出た武(建)内宿祢の系譜にはあの「蘇我臣」がいた。

 以上のことから、これらの系譜は『記紀』編纂時に諸氏族が立場を正当化するために「急ごしらえ」で創作されたものであるという考えも出てくるだろう。

 しかしながら筆者は『記紀』の系譜伝承についてこう考えてもいいのではと考えた。それは、特に『記紀』共に七代孝霊天皇から九代開化天皇までの記述には、他の天皇の記述以上に数多くの派生したとされる氏族が記されている。私はそこから、もし『記紀』の氏族の系譜伝承がその両書の編纂当時に「何もない無から創作されたもの」であるならば、初代神武天皇から九代開化天皇までの各伝承の記述の中に、ほぼ同数か計九代に氏族系譜を均衡に振り分けることも可能だった筈である。そのようなことをしなかった、そのように意識した記述が見られないということは、当時の氏族各自が持っていた出自の伝承をベースとして純粋に編集されたものだと考える方が、筆者は妥当だと考える。

 少し余談であるが、筆者が今回の小論で研究対象としている初代神武天皇以下九代のいわゆる和風諡号が、『記紀』編纂時の歴代天皇のそれと同じであるから、この計九代の天皇系譜は後世の造作つまり『記紀』編纂時に当時の朝廷の立場を正当化するために「何もない無から創作されたもの」だという考え があるが、筆者が後ほど論じるように、当該伝承はそうではなく編纂当時までに伝承されてきた系譜を発見と分析、集約、編集したものであると考えている。何故ならば『記紀』編纂時の歴代天皇の和風諡号を参考に創作されたものであったならば、その両書を読ませる一番の対象である当時の知識人層や支配層の人々によって、すぐに看破される可能性があったからである。

 さて本章の最後として、『記』に多く書かれていた系譜伝承の記述が『紀』ではあまり記されていない理由について皇学館大学名誉教授の田中卓氏は、自身の著作 (13)で「『古事記』に較べて、『日本書紀』に後裔氏族が少ないのは、本来、『日本書紀』には別に『系図一巻』が備わっていたからでしょう」と述べていた。

 この『系図一巻』について、皇学館大学の荊木美行氏は 、『紀』の本巻の他に、今日では散逸している各氏族の詳細な系譜伝承が記されているとされる『系図一巻』の散逸時期と散逸した理由について「はっきりとした時期を特定」することは難しいとしたうえで、「『弘仁私記』序が書かれた弘仁十(八一九)年頃はまだ存在して」おり、それ以降に散逸したのではないかと論じていた。そして散逸した理由について、『紀』本巻からも『系図一巻』の持つ情報があると述べた上で「書き写すことが億劫になったから書き写す人が時と共に減少していった」と推測していた。荊木氏がこのように言っているのは、荊木氏自身が、「『紀』の本巻の記述だけで系図を書くことができたからだ」と述べていたからである。(14)






(1)……国史大辞典編纂委員会『国史大辞典(第8巻)』吉川弘文館1986(昭和61)年936~937pを記述の参考とした。

(2)……「初代天皇」という意味。但し『記』にはそのような意味の記述はなかった。

(3)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第八巻』一九八七(昭和六十二)年19p及び『記』中巻神武天皇段と『紀』第四巻綏靖天皇紀を記述の参考にした

(4)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第一巻』一九七九(昭和五十四)年396pを記述の参考にした。

(5)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第一巻』一九七九(昭和五十四)年713pを記述の参考にした。

(6)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第五巻』一九八五(昭和六十)年389pを記述の参考にした。

(7)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第五巻』一九八五(昭和六十)年279pを記述の参考にした。

(8)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第五巻』一九八五(昭和六十)年561pを記述の参考にした。

(9)……引用は倉野憲司校注『古事記(岩波文庫)』岩波書店 一九六三(昭和三十八)年

(10)……現代語訳引用は次田真幸全訳注『古事記(中)(講談社学術文庫)』講談社 一九八〇(昭和五十五)年

(11)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第五巻』一九八五(昭和六十)年328pを記述の参考にした。

(12)……国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第三巻』一九八三(昭和五十八)年12pを記述の参考にした。

(13)……第十四章「神武天皇の架空を説く直木氏の空想的反映法」『田中卓評論集第三巻 祖国再建上巻』青々企画 二〇〇六(平成十八)年 なお、青々企画は、二〇一八(平成三十)年に田中氏死去と同時期に活動停止。

(14)……第一編第一章「『日本書紀』「系図一巻」再論」『記紀と古代史料と研究』国書刊行会 2008(平成20)年

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