第3話 第1部「『記紀』等記載の古代天皇系譜伝承」 第2章「『記紀』の天皇系譜伝承と諸氏族」
第一節……「はじめに」
前章では、初代神武天皇から九代開化天皇までの基礎情報を一通り羅列してみた。その中で各代の后妃や皇居と陵墓については、各代漏れなく記載されていた。また二代綏靖天皇から九代開化天皇までは、「欠史八代」と呼ばれているだけあって后妃とそれらの后妃を輩出した外戚氏族及び皇居と陵墓伝承の記載しかなく事績伝承がないため、当該八代の伝承から仮に実在したとしての当時の社会の様子を再現することは困難であるとされている。
その欠史八代伝承のうち皇妃とそれらの皇妃を輩出した外戚氏族及び皇居、陵墓伝承の概要等は次章に譲が、小論で取り上げている神武天皇以下九代の伝承で、先述の伝承以外で特徴的な伝承に各代天皇の皇子とその皇子から派生したとされる諸氏族の系譜伝承があった。
本章では、各天皇皇子とその皇子から派生したとされる諸氏族の系譜伝承の概要を羅列していく。なお羅列の参考とした文献は『古事記』(日本思想体系)(1) と『日本書紀』(岩波文庫)(2) の注及び補注が主である。また断っておくが、文中に『先代旧事本紀「国造本紀」「天孫本紀」』と『新撰姓氏録』(以下『姓氏録』)の引用部分があるが、これは両文献の当該中と補注からの孫引き及び筆者による現代語訳(3)である。
第二節……「『記紀』内の【初代】神武天皇からの系譜伝承」
『記』のみに記載されている長子日子八井命から派生した氏族を以下左にそれらの概要を羅列する。
『紀』では、長子とされている神八井耳命から派生したとされる氏族を以下左にそれらの概要を羅列する。なお、『記紀』両署で二代綏靖天皇は末子である。
多臣……『記』では「意富臣」と記されている。大和国十市郡飫富郷(奈良県磯城郡田原本町多)の地名に由来する氏族。綏靖天皇即位前紀は多臣に作る。意富・多は「太」とも記し、『記』の撰録者、
坂合部連……『姓氏録』摂津皇別の坂合部の条には「大彦命の後裔である。允恭天皇の御世に、
火君……『姓氏録』右京皇別には多朝臣の同祖、神八井耳命の後という火の氏名が見える。火の氏名は火の国の地名に基づき、肥(後の肥前・肥後)とも表記する。肥前風土記、総記に「昔、
阿蘇君……景行紀十八年六月条に見える阿蘇国(肥後国阿蘇郡、今の熊本県阿蘇郡)の地名に基づく氏族。国造本紀、阿蘇国造条に「瑞籬(崇神天皇)朝御世に火国造と同祖である神八井耳命の孫速瓶玉命が国造を賜わる」とある。
雀部造……他に所見がない。
小長谷造……小泊瀬にも作る。天武十二年九月に、小泊瀬造、連の姓を賜る。仁徳天皇紀十二年八月条に「小泊瀬造の先祖、
科野国造……「国造本紀」科野国造条に「瑞籬(崇神天皇)朝御世に、神八井耳命の孫、建五百建命に国造を賜わる」とある。『阿蘇家略系譜』、武五百建命の尻付に「ある文書には、健磐竜命は磯城瑞籬大宮(崇神天皇)朝に、科野国造を賜わる」とあり、その子健稲背命、孫健甕富命の譜に科野国造とある。科野国造が後に金刺舎人の氏姓を称したことは、信濃国伊那郡の郡領が金刺舎人姓であること、および『日本三代実録』貞観五年九月五日条に「信濃国諏訪郡の人、
道奥石城国造……「国造本紀」石城国造条に「志賀高穴穂(成務天皇)朝に、建許呂命をもって国造を賜わる」とあり、『阿蘇家略系譜』建許呂阪命の尻付に「志賀高穴穂大宮朝に、石城国造を賜わる」とある。「本紀」の「以建許呂命」の「以」は卜部兼永本「坂」に作り、他の条文から見ると「『坂』は建許呂命に含まれていた字で、『略系譜』の建許呂阪(坂)命が正しいか」という説がある。
長狭国造……長狭国は後の安房国長狭郡。『阿蘇家略系譜』の建借間命の子武沼田命の尻付に「志賀高穴穂大宮朝、長狭国造を賜わる」とある。
伊勢舩木直……伊勢国多気郡舟木(三重県度会郡大宮町舟木)の地名にちなむ氏族。『阿蘇家略系譜』は伊勢舟来直に作り、長狭国造となったという武沼田命の孫、大荒男命を祖とする。姓を異にするが正倉院文書、写書所解には伊勢国朝明郡葦田郷の戸主舟木臣東君の名が見える。
尾張丹羽臣……尾張国丹羽郡丹羽郷(愛知県一宮市丹羽)の地名にちなむ氏族。『阿蘇家略系譜』では伊勢舩木直と同じく大荒男命を祖とする。
嶋田臣……尾張国海部郡嶋田郷(愛知県海部郡美和町あたり)の地名にちなむ氏族。『姓氏録』右京皇別、島田臣条に「多朝臣と同祖の、神八井耳命の後裔である。その五世孫は武恵賀前命の孫仲臣子上である。稚足彦(成務)天皇の御代に、尾張国島田上下二県に悪神がおり、子上が派遣され平服した。また命を受けて、島田臣の姓を賜わる」とある。『阿蘇家略系譜』では武恵賀前命の孫を長狭国造になった武沼田命を挙げ、その子を那珂乃子上命とする。『姓氏録』の仲臣子上と同一人。子上の子が大荒男命で島田臣の祖という。弘仁私記序に見える嶋田臣清田の分注に「皇子神八井耳命之後、正六位上村田第一男」とある。
第三節……「『記紀』内の【三代】安寧天皇からの系譜伝承」
安寧天皇から派生した氏族は、末子であり四代懿徳天皇の弟でと『記紀』に記載されている
(前略)
(後略)
つまり「和知都美命は淡路にある御井の宮においでになった」(9)という記述があるが、本章の主題ではないため詳細は割愛する。
伊賀ノ《いがの》
以上、特に右の三稲置が三重県名張市を中心とした伊賀地方の氏族であると伝えられている。
第四節……「『記紀』内の【四代】懿徳天皇からの系譜伝承」
懿徳天皇から派生したとされる氏族の記述は『紀』にはなく『記』には末子、
血沼之ちぬの別わけ……血沼は後の和泉地方(大阪府南部)であり、この地の名にちなむ氏族。「別(和気)」という称号は、「特定の地域に分かち遣わす」という地方首長の意味という説がある。
第五節……「『記紀』内の【五代】孝昭天皇からの系譜伝承」
ここでは、【五代】孝昭天皇からの系譜伝承について論じていく。なお多氏系氏族と同じく『思想大系、記』を参考にして論じている。
和珥臣……孝昭天皇紀六十八年に「天足彦国押人命はこの和珥臣等の始祖である」と伝え、大和国添上郡南部の和邇(奈良県天理市和爾)より起こった氏族。『延喜式、神名帳』添上郡には和爾坐赤坂比古神社と和邇下神社がある。(10)『記』の孝昭段の天押帯日子命の記述には、この氏族と同祖の氏族に春日臣。大宅臣。粟田臣。小野臣。柿本臣。壹比韋臣。大坂臣。阿那臣。多紀臣。羽栗臣。知多臣。牟耶臣。都怒山臣。伊勢飯高君。壹師君。近淡海国造の十六氏を記している。
但し、加藤謙吉氏 はワニ氏の氏名の由来をサメの古語である「ワニ」であるとし、そこから春日・ワニ氏は漁労民と関係し海運・水運等を掌っていたのではないかと述べていた。(11)
また次に書く春日氏にかけて、開化天皇、応神天皇、反正天皇、そして雄略天皇、仁賢天皇に自分の子女を后妃として輩出する等、特に五世紀後半から六世紀にかけ、和珥・春日氏と大王(天皇)家との間に婚姻関係が続いた記述が『記紀』にある。
春日臣……大和の春日の地を本拠とした氏族。後に大春日臣と称し、天武十三年十一月、朝臣姓となる。『姓氏録』左京皇別に大春日朝臣の本系を載せ「出自は、孝昭天皇皇子の天帯彦国押人命からである。仲臣に家の千金を重ね、
大宅臣……大和の大宅の地(大和国添上郡大宅郷。奈良市古市町付近か)を本拠とした氏族。天武十三年十一月、大春日臣らと共に朝臣姓となる。『姓氏録』河内皇別に「大春日と同祖である天足彦国押人命の後裔である」とある。『和邇部氏系図』(12) の忍勝の尻付に「大倭添県大宅郷に住む、大宅臣の姓を負う」と見える。
粟田臣……山背の粟田即ち山城国愛宕郡粟田郷(京都市街東部、吉田から東山三条付近にかけての一帯)を本拠とした氏族。天武十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』右京皇別に「粟田朝臣は、大春日朝臣と同祖であり天足彦国忍人命の後裔である」、山城皇別に「粟田朝臣は、天足彦国押人命の三世孫、彦国葺命の後裔である」とある。
小野臣……山背の小野即ち山城国愛宕郡小野郷(京都市街東北部、高野付近)を本拠とした氏族。天武十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』左京皇別「大春日朝臣と同祖である彦姥津命の五世孫、米餅搗大使主命の後裔である。大徳小野臣妹子、近江国滋賀郡小野村に家を持つ。よってこれを氏名とする」・山城皇別「孝昭天皇皇子の、天足彦国押人命の後裔」に小野朝臣を載せている。このうち左京皇別の小野朝臣の記述には遣隋使で有名な小野妹子が記されている。小野妹子は近江国滋賀郡小野村に居住したので小野氏を称したとするが、同地は後の滋賀郡和邇村小野(滋賀県滋賀郡志賀町小野)で、『神名式』に見える小野氏の氏神小野神社の鎮座地である。『姓氏録』山城皇別、小野臣の本系では「同(天足彦国押人命)命七世孫、人花命の後裔」とある。人花命を『和邇部氏系図』は「人華臣」に作り、その孫野依臣の尻付に「小野朝臣祖」とある。
柿本臣……大和の柿本の地即ち大和国添上郡柿本寺付近(奈良県天理市櫟本町東方)を本拠とした氏族。天武十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』大和皇別に「柿下朝臣は、大春日朝臣と同祖である天足彦国押人命の後裔である。敏達天皇の御世に、家の門に柿の樹があったことによる。柿本臣氏となる」とある。『万葉集』の柿本人麻呂は同族である。
壹比韋臣……天武紀十三年十一月条は櫟井臣に作る。大和の壹比韋(櫟井)の地即ち大和国添上郡櫟井(奈良県天理市櫟本町)を本拠とした氏族。天武十三年十一月、朝臣姓となる。『姓氏録』左京皇別に「櫟井臣は、和安部やまとのあべの同祖である彦姥津命の五世孫の米餅舂大使主命の後裔である」とある。『和邇部氏系図』には米餅舂大使主命の孫に津幡臣(小野朝臣の祖野依臣の弟)を挙げ、尻付に「櫟井臣の先祖」とある。
大坂臣……備後国安那郡大坂郷(広島県深安郡神辺町)の地にちなむ氏族という説がある。『和邇部氏系図』では彦国葺命の孫
阿那臣……備後の安那の地即ち備後国安那郡(広島県深安郡・福山市)を本拠とした氏族。「国造本紀」吉備穴国造条に「纏向日代(景行天皇)の御世に、和邇臣は同祖であり、彦訓服命八千足尼に国造を賜わる」と見え、『和邇部氏系図』の八千足尼命の尻付にも「国造本紀」と同様、吉備穴国造となったことを記し「安那公、大阪臣の先祖」と見える。『姓氏録』右京皇別は彦国葺命の後という安那公を載せる。『記』の「阿那臣」について「阿那公の誤りか」と記述していた。
多紀臣……丹波の多紀の地即ち丹波国多紀郡(兵庫県多紀郡)を本拠とした氏族と推定されている。『正倉院文書』「国郡未詳戸籍」に多紀臣広隅ら十七名の人名を載せる。
羽栗臣……山城の葉栗の地即ち山城国久世郡葉栗郷(京都府城陽市付近)を本拠とした氏族と推定されている。『姓氏録』左京皇別に葉栗臣を載せ「
知多臣……尾張の知多の地即ち尾張国智多郡(愛知県知多郡)を本拠とした氏族と推定されている。
都怒山臣……都怒山は角野(都乃)の地即ち近江国高島郡角野郷(滋賀県高島郡今津町角川)と推定されている。天平以降の人である角家足は角山君家足とも称しているが、彼は近江国「高嶋」郡の前少領であったことから、角山は高島郡内の地名と考えられている。山は『万葉集』に見える高島山と推定されている。『続紀』神亀元年二月条に角山君内麻呂の名が見える。『記』の都怒山臣は都怒山君の誤りか。
伊勢飯高君……伊勢の飯高の地即ち伊勢国飯高郡(三重県飯南郡南部)を本拠とした民族。古くは飯高県主であったらしく、『倭姫命世紀』・『皇太神宮儀式帳』に飯高県造(祖)乙加豆知命の名が見える。『和邇部氏系図』には乙加豆知命は伊勢国に居住し、飯高宿禰・壱志宿禰・伊部造の祖と見える。『
壹師君……伊勢の壹(壱)志の地即ち伊勢国壱志郡(三重県一志郡)を本拠とした氏族。古くは壱志県主であったらしく、『倭姫命世紀』に市師県造祖建呰命、『皇太神宮儀式帳』に市師県造祖建呰子の名が見える。『続日本後紀』嘉詳二年正月条に壱志公吉野、『文徳天皇実録』斉衡二年正月条に壱志宿禰吉野の名が見え、この間に壱志公から壱志宿禰に改姓したことが知られる。『和邇部氏系図』では乙加豆知命を壱志宿禰の祖とする。正倉院文書に天平勝宝末年頃の人として伊勢国壱志郡嶋抜郷の戸主壱志君族祖父の名が見える。
近淡海国造……実は近江の額田国造かと推定されている。「国造本紀」の「志賀高穴穂(成務天皇)朝の御世に、和邇臣の先祖の彦訓服命の孫大直侶宇命が国造を賜わる」とし、天押帯日子命系に属する。「国造本紀」の大直侶宇命は『和邇部氏系図』によって大真侶古命と訂せるという考えがある。『同系図』にも大真侶古命が成務朝に額田国造となったことが見える。
第六節……「『記紀』内の【七代】孝霊天皇からの系譜伝承」
孝霊天皇の皇子から派生した氏族については、『記』には日子刺肩別命、比古伊佐勢理毗古命またの名大吉備津日子命と日子寤間命(『紀』では、彦狭嶋命)そして若日子建吉備津日子命(『紀』では稚武彦命)の四皇子から派生した。左の各氏族を『記』での記述順で羅列する。
なお『紀』では、稚武彦命から派生した「吉備臣」の記述のみである。
・「比古伊佐勢理毗古命(『紀』では彦五十狭芹彦命)またの名大吉備津日子命(『紀』では大吉備津彦命)」
・「若日子建吉備津日子命(『紀』では稚武彦命)」
・「日子寤間命(『紀』では、彦狭嶋命)」
・「
第七節……「『記紀』内の【八代】孝元天皇からの系譜伝承」
孝元天皇の皇子から派生した氏族もいるが、それらの氏族は、大彦おおびこの命みことと彦ひこ太ふつ忍おしの信まことの命みことからそれぞれ派生している。
・「大彦命(『記』では、大毗古命)」(13)
伊賀臣……祖である屋主男心命は『姓氏録』右京皇別、伊賀臣条・同道公条によれば、大彦命の孫で大稲輿命の子とされている。天武天皇十三年十一月、朝臣姓を賜う。
・「彦太忍信命(『記』では比古布都押之信命)」
坂本臣……後の和泉国和泉郡坂本郷(大阪府和泉市坂本町)を本拠とした氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』左京皇別に坂本朝臣を載せ「紀朝臣と同祖である紀角宿禰の息子白城宿禰の後裔である」。和泉皇別の坂本朝臣条には「紀朝臣と同祖である建内宿禰の息子紀角宿禰の後裔である。またその息子白城宿禰の三世孫建日臣は、坂本臣の姓を賜わる」とある。摂津皇別に坂本臣を載せ「紀朝臣と同祖である彦太忍信命の孫武内宿禰命の後裔」とある。紀氏家牒に「紀辛梶宿禰の弟建日宿禰、河内国和泉県坂本里に居住し、清寧天皇の時代に氏名を改めて坂本臣を賜わる」とみえる。
第八節……「『記紀』内の【九代】開化天皇からの系譜伝承」
開化天皇の皇子から派生した氏族もいるが、それらの氏族は、
伊勢之品遅部君……開化天皇の子彦坐王の子
甲斐国造……『国造本紀』甲斐国造条に「纏向日代(垂仁天皇)朝の世に、狭穂彦王の三世孫臣知津彦公の此の(「子の」か)宇塩海足尼は国造を賜わる」とある。『粟鹿大神元記』(17)の武押雲命の尻付に「母は甲斐国造等の上祖である狭積穂彦命の娘角姫命である」とみえる。狭積穂彦命は
三川之穂別……後の参河国宝飫郡を本拠としていた氏族。
第九節……「おわりに」
以上前節にかけて、いわゆる欠史八代天皇から派生したとされる諸氏族の概要を羅列してきた。そのように羅列してきた中で、それらの氏族の中には天武天皇十三年十一月に朝臣姓を、同年十二月には宿禰姓を該当氏族に賜わったという記述があった。『紀』の該当記述は以下の通りである。
「 (前略)
(中略)
連・境部連・櫻井田部連・伊福部連・巫部連・忍壁連・草壁連・三宅連・兒部連・手繦丹比連・靫丹比連・漆部連・大湯人連・若湯人連・弓削連・神服部連・額田部連・津守連・縣犬養連・稚犬養連・玉祖連・新田部連・倭文連(倭文此云之頭於利)・氷連・凡海連・山部連・矢集連・狹井連・ 爪工連・阿刀連・茨田連・田目連・少子部連・菟道連・小治田連・猪使連・海犬養連・間人連・舂米連・美濃矢集連・諸會臣・布留連、五十氏に姓を賜ひて宿禰と曰ふ。
(後略) 」
さて、欠史八代から派生したとされる諸氏族を通観すると、初代神武天皇皇子の神八井耳命から派生した多臣氏等諸氏族と五代孝昭天皇皇子天足彦国押人命から派生したとされる和珥臣氏・春日臣氏の諸氏族のように、大和国を中心とした畿内各所に本拠とする氏族もある一方、道奥石城・伊余(伊予)国造と火(肥)君・阿蘇君そして牟耶臣等のように畿外の氏族も存在する。それは七代孝霊天皇の皇子彦五十狭芹彦ひこいさせりびこ命のみことと稚武彦命から派生したとされる諸氏族については吉備地域つまり今日の岡山県周辺と播磨つまり兵庫県の瀬戸内海側の山陽地域を本拠とした氏族も存在する。
それ以外の氏族については、大概畿内地域にとどまっている氏族であり、畿外だとしても北陸、東海と但馬そして丹波地域までである。
このように、諸氏族の本拠としたとされる地域を通観してみると、畿内大和国を中心として東は道奥石城国造つまり今日の福島県まで、西は阿蘇君といって今日の熊本県阿蘇地域までの範囲で、神武天皇と欠史八代の皇子の子孫等ヤマト王権の版図拡大と並行して日本列島に散らばったと考えられよう。
これに関連して太田亮氏は、後世の仮託や仮冒かぼうつまり政治・経済的な事情から土着氏族の祖先系譜を上級氏族及び大和国本拠の氏族につなげたまたはつなげられたもの、いわゆる擬制的系譜も含まれている可能性についても言及していた。
しかし一方で、太田氏は擬制的系譜があるからといって氏族系譜伝承は、古代日本研究の史料に値しないと述べているのではない。
それは「(前略)後世のものの如く大部分假(「仮」の旧字)冒としても、その系を冒おかすというには何等かの根據がなければならない。わかりやすくするため、後世の例にていえば伊勢豪族に平氏が多いということは、かつて平氏が伊勢に栄えていた影響をみねばならぬ(中略)それが全部似非えせ系図としても、赤松氏が播磨において、越智氏が伊豫において、土岐氏が美濃において盛んであった事情は争うべからざる事実である。何の縁故も泣きにその氏を冒したという例はほとんど見るを得ないであろう。(中略)従って氏族分布によって、ある系統がその地方と何等かの関係をもっているからと考えねばならない」(19)として、擬制的系譜は上位の氏族が土着の下位氏族を制圧・支配し、下位の系譜を何等かの圧力で自分たちの系譜につなげさせるか、下位の氏族が自分の系譜を上位の氏族に請い願って系譜につなげさせてもらうことがあってもそれらの逆はありえないということである。山田英雄氏も欠史八代の系譜伝承について、擬制的系譜の可能性も示唆しつつ当該系譜伝承を研究で切り捨てることは「無謀」(20)であると述べていた。
いずれにせよ筆者は、神武天皇と欠史八代から派生したとされる諸氏族を含めた系譜伝承は、ヤマト王権の発展を研究していくための史料になると認識せざるをえない。
ところで擬制的系譜伝承について、下位の氏族が上位の氏族の勢力下・影響下に入り、下位の土着豪族が自分の祖先系譜をつながれたり、下位の氏族が上位の氏族に請い願って自分の祖先系譜をつなげてもらっていた経緯があったと考えた方が妥当だと述べた。つながれたまたはつなげてもらった上位の氏族の系譜伝承があるということは、その氏族を枝葉として、幹に相当する祖先伝承に辿り着くということになる。それらの幹として辿り着き集約される祖先伝承が初代神武天皇と欠史八代系譜伝承である。
戦後、初代神武天皇から九代開化天皇までの系譜伝承は七・八世紀に創作つまり後世の造作であることが常識になったが、当該歴代天皇から派生したとされる諸氏族の膨大さ、固有名詞の多さと諸氏族の本拠の地名から見て、七・八世紀になって創作できるものであろうか。
確かに後世の造作論に立つならば、七・八世紀に生存していた諸氏族が、自己の出生を飾るために集団で共謀して捏造したものであるという説も出てくるであろう。
しかしながら、『記紀』の神武天皇及び欠史八代から派生した氏族の各代毎ごとの分布をみてみると、派生氏族の数に偏りがあることがわかる。もし捏造・後世の造作ならば、各代で均等に振り分けて記載されていなければならない。そうではなく三代安寧天皇の氏族数一桁や八・九代の孝元・開化各天皇派生氏族数二桁のように各代で偏りがあるのは、記載されている諸氏族が史実として持っていた古伝を集めたうえで編纂されたものだとかんがえることが妥当であろう。
ともかく、系譜伝承内の派生氏族からもヤマト王権の発展の経緯を見ることができる可能性を述べて本章を終える。
(1)……青木和夫、石母田正、小林芳規、佐伯有清『古事記 日本思想体系(一)』岩波書店 昭和五十七(1982)年。補注は同書三〇五頁から始まる。
(2)……坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋『日本書紀(一)岩波文庫』岩波書店 平成六(一九九四)年。
(3)……)現代語訳で活用した辞書は『角川新字源 改訂版』(小川環樹、西田太一郎、赤塚忠編)角川学芸出版、平成二十二(二〇一〇)年
(4)……『姓氏録』原文では「多朝臣同祖。神八井耳命男、彦八井耳命之後也。日本紀漏」と記されている。ここから、田中氏は『記』の日子八井命と彦八井耳命を同一人物とし、「神武→神八井耳命→彦八井耳命」という世代の区切り方をしている(「新撰姓氏録における皇別の系譜」『田中卓著作集第六巻 新撰姓氏録の研究』国書刊行会一九九六(平成八)年
(5)……現代語訳引用は宇治谷孟全訳『日本書紀(上)全現代語訳(講談社学術文庫)』講談社 一九八八(昭和六十三)年
(6)……(5)に同じ。
(7)……これ以外にも『異本阿蘇家系図』があるが、いずれも『田中卓著作集 日本国家の成立と諸氏族』に掲載等されている。
(8)……引用書き下し文は倉野憲司校注『古事記(岩波文庫)』岩波書店 一九六三(昭和三十八)年
(9)……現代語訳引用は次田真幸全訳注『古事記(中)(講談社学術文庫)』講談社 一九八〇(昭和五十五)年
(10)……二社の記述は『姓氏家系大辞典 第三巻』(太田亮、角川書店、昭和三十八(一九六三)年)「和邇臣」の項目より。
(11)……加藤謙吉『ワニ氏の研究 日本古代氏族研究叢書③』雄山閣 二〇一三(平成二十五)年
(12)……加藤氏によると、駿河浅間神社旧蔵とされる系図で、「太田亮が『姓氏家系大辞典』で紹介されたものである」という。また史料的価値は高いという。
(13)……大彦命からの派生氏族は『日本書紀(一)岩波文庫』二六九頁の注を参考とした。
(14)……本章の『紀氏家牒』本文は田中卓「『紀氏家牒』について」を参照した。『日本国家の成立と諸氏族 田中卓著作集第二巻』 国書刊行会 一九八六(昭和六十一)年所収
(15)(16)……(5)に同じ。
(17)……本章の『粟鹿大神元記』本文は田中卓「翻刻『粟鹿大神元記』」を参照した。『日本国家の成立と諸氏族 田中卓著作集第二巻』 国書刊行会 一九八六(昭和六十一)年所収
(18)……田中卓「一古代氏族の系譜(ミワ支族の移住と隆替)」『田中卓著作集第二巻 日本国家の成立と諸氏族』一九八六(昭和六十一)年
(19)……太田亮第三編「氏族分布の研究」第一章「緒論」『日本古代史新研究』磯部甲陽堂一九二八(昭和三)年
(20)……山田英雄『日本書紀の世界(講談社学術文庫)』講談社 平成二十六(二〇一四)年
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