第3話 第1部「『記紀』等記載の古代天皇系譜伝承」 第2章「『記紀』の天皇系譜伝承と諸氏族」

第一節……「はじめに」

前章では、初代神武天皇から九代開化天皇までの基礎情報を一通り羅列してみた。その中で各代の后妃や皇居と陵墓については、各代漏れなく記載されていた。また二代綏靖天皇から九代開化天皇までは、「欠史八代」と呼ばれているだけあって后妃とそれらの后妃を輩出した外戚氏族及び皇居と陵墓伝承の記載しかなく事績伝承がないため、当該八代の伝承から仮に実在したとしての当時の社会の様子を再現することは困難であるとされている。

その欠史八代伝承のうち皇妃とそれらの皇妃を輩出した外戚氏族及び皇居、陵墓伝承の概要等は次章に譲が、小論で取り上げている神武天皇以下九代の伝承で、先述の伝承以外で特徴的な伝承に各代天皇の皇子とその皇子から派生したとされる諸氏族の系譜伝承があった。

本章では、各天皇皇子とその皇子から派生したとされる諸氏族の系譜伝承の概要を羅列していく。なお羅列の参考とした文献は『古事記』(日本思想体系)(1) と『日本書紀』(岩波文庫)(2) の注及び補注が主である。また断っておくが、文中に『先代旧事本紀「国造本紀」「天孫本紀」』と『新撰姓氏録』(以下『姓氏録』)の引用部分があるが、これは両文献の当該中と補注からの孫引き及び筆者による現代語訳(3)である。


第二節……「『記紀』内の【初代】神武天皇からの系譜伝承」

 『記』のみに記載されている長子日子八井命から派生した氏族を以下左にそれらの概要を羅列する。

茨田連まんだのむらじ……河内国茨田郡茨田郷の地名に由来する氏族。『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』右京皇別、山城皇別に茨田連を載せ、「神八井耳命の子彦八井耳命」(4)の後とする。天武十三年十二月に宿禰の姓を授けられ、『姓氏録』河内皇別に茨田宿禰を載せ「多朝臣と同祖である、彦八井耳命の後裔である。その男子孫、野現宿禰のみのすくね、仁徳天皇の御代みよに、茨田堤を造成する」とある。

手嶋連てしまのむらじ……『新撰姓氏録』(以下『姓氏録』)では「豊島連としまのむらじ」と表記されている。摂津国豊嶋郡豊嶋郷に由来する氏族。『姓氏録』摂津皇別を載せ、「多朝臣と同祖、彦八井耳命の後裔」と記されている。

 『紀』では、長子とされている神八井耳命から派生したとされる氏族を以下左にそれらの概要を羅列する。なお、『記紀』両署で二代綏靖天皇は末子である。


多臣……『記』では「意富臣」と記されている。大和国十市郡飫富郷(奈良県磯城郡田原本町多)の地名に由来する氏族。綏靖天皇即位前紀は多臣に作る。意富・多は「太」とも記し、『記』の撰録者、太朝臣おおのあそん安万侶やすまろは同族。天武十三年十一月に朝臣の姓を授けられ、『姓氏録』左京皇別に「多朝臣。出自は神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔」とある。先述の太朝臣安麻侶の出身氏族である。

小子部連ちいさこべのむらじ……雄略天皇紀六年三月条に「天皇は后妃に桑の葉を摘み取らせて養蚕ようさんすすめようと思われた。そこで蜾蠃すがる(蜾蠃。人名である。これは須我屢すがると読む)に命じてかいこを集めさせた。蜾蠃は誤って嬰児わがこを天皇にたてまつった。天皇は大笑いし、蜾蠃にその嬰児を賜わり、「自分自身で養いなさい」と言い、蜾蠃を皇居の垣下に住まわせその嬰児を養わせた。そして姓を賜わり少子部連とした」とあって、小子部(少子部)連の氏名由来伝説が見える。『姓氏録』左京皇別、小子部宿禰条「多朝臣と同祖。神八井耳の後裔である。大泊瀬幼武(雄略)天皇の御世、諸国に遣わし、蚕児かいこを集めさせた。誤って民衆の子たちを貢いだ者がいた。天皇は大笑いし、その者に小児部連の姓を賜わった」(5)とある。『姓氏録』和泉皇別に小子部連を載せ、神八井耳命の後とする。天武十三年十二月に宿禰の姓を授けられる。

坂合部連……『姓氏録』摂津皇別の坂合部の条には「大彦命の後裔である。允恭天皇の御世に、国境くにざかいの標を造立し、それにちなみ坂合部連の姓を賜わった」とあって阿倍朝臣と同祖、大彦命の後と称し、神八井命の後裔という坂合部連と祖を異にする。大彦命の後と称する坂合部氏には『姓氏録』大和皇別の坂合部首がおり、また坂合部首がおり、また坂合部首には「七姓漢人の中の皂郭姓を祖とする氏」が『姓氏録』右京諸蕃、坂上大宿禰条の逸文に見える。天武十三年十二月、境部(坂合部)連は宿禰姓を賜ったが、『姓氏録』左・右神別の坂合部宿禰条は火明命(又は火闌降命)八世孫邇倍足の後と称する。また和泉神別の坂合部は火闌降命七世孫、夜麻等古命の後と伝える。以上、坂合部連には神八井耳命系の坂合部連は『記』以外には見当たらない。

火君……『姓氏録』右京皇別には多朝臣の同祖、神八井耳命の後という火の氏名が見える。火の氏名は火の国の地名に基づき、肥(後の肥前・肥後)とも表記する。肥前風土記、総記に「昔、磯城瑞籬宮しきのみずがきのみや御宇みよつまり御間城みまき(崇神)天皇の時代、肥後国益城郡朝来名峰に、土蜘蛛の打猴うちざる頸猴くびざるの二人がいた。百八十人余りの人員を帥ひきいて、皇命を拒み、降服しなかった。朝庭は、肥君等の祖、健緒組たけもろくみに彼らを伐つために派遣を命した。健緒組は、命令を受け、悉く討ち滅ぼした。(中略)そして、健緒組の功績を挙げ、火君健緒純ひのきみたけもろすみという姓と名を賜わり、肥の国を治めさせた」とあり、国造本紀、火国造条に「瑞籬(崇神)朝。大分国造と同祖である。志貴多奈彦命しきたなひこの子、遅男江命は火国造をたまわる」とある。遅男江命は健男組命の「誤写」と言われている。阿蘇家略系譜の健緒組命の尻付に「瑞籬大宮(崇神天皇)朝に、火国造を賜わる」とあり、同系譜、建加恵命(建緒組命四世孫)の尻付に「火君は、忠世宿禰ただよのすくね等の祖である」とある。火(肥)君は後に肥前国松浦郡・養父郡に居住したが、筑前国嶋(志麻)郡にも広がり、大宝二年の筑前国嶋郡川辺里戸籍には同郡大領肥君猪手の一族が多数記載されている。『姓氏録』大和皇別には神八井耳命の後という肥直を載せている。

大分君おおきだのきみ……景行紀十二年十月条にみえる碩田国(豊後国大分郡、今の大分県大分郡)の地名に基づく氏族。同氏に属する人で壬申の乱で活躍した大分君恵尺・稚臣が著名。大分君は大分国造となった氏族と考えられるが、国造本紀、火国造条に「大分国造同祖」と見えるだけで、同紀には大分国造の条がない。阿蘇家略系図には建緒組命の子建弥阿久良命の尻付に「玉垣大宮(垂仁天皇)朝に大分国造を賜わる」とある。

阿蘇君……景行紀十八年六月条に見える阿蘇国(肥後国阿蘇郡、今の熊本県阿蘇郡)の地名に基づく氏族。国造本紀、阿蘇国造条に「瑞籬(崇神天皇)朝御世に火国造と同祖である神八井耳命の孫速瓶玉命が国造を賜わる」とある。

筑紫三家連つくしのみやけのむらじ……『和名抄わみょうしょう』に筑前国那珂郡三宅郷(福岡市三宅)があり、この地を含む那津の官家を管理した氏族。天武紀十三年十二月条に筑前三宅連得許の名が見える。

雀部臣さざきべのおみ……『姓氏録』和泉皇別に雀部臣を載せ「多朝臣と同祖である神八井耳命の後裔」とある。和泉皇別の志紀県主条には「雀部臣同祖」とある。雀部臣に天武十三年十一月に朝臣姓を賜った氏族があるが、これは武(建)内宿禰の後裔で別系。

雀部造……他に所見がない。

小長谷造……小泊瀬にも作る。天武十二年九月に、小泊瀬造、連の姓を賜る。仁徳天皇紀十二年八月条に「小泊瀬造の先祖、宿禰臣すくねのおみに名を賜わって賢遺臣さかのこりのおみといった。(賢遺、これは左舸能莒里さかのこりと読む)」(6)とある。『阿蘇家略系譜』の宿禰臣の尻付に「または生葉宿禰臣いくはのすくねのおみといい、また賢遺臣という」とあり、曽孫阿具礼の尻付に「泊瀬列樹大宮はつせのなみきのおおみや(武烈天皇)朝六年九月乙巳朔に、小泊瀬舎人を設けて、供奉させる」とあり、さらにその曽孫粟麻呂の譜に「天武天皇十二年九月丁亥に、小泊瀬造を改めて、連姓を賜わる」と見える。阿具礼の名は他に見られないが、その尻付は武烈紀六年九月乙巳朔条の「小泊瀬舎人を置く」による。『記』は「小長谷部を定める」としている。小長谷造は小泊瀬舎人となり、かつ小長谷を管掌した氏族。

都祁直つげのあたい……『和名抄わみょうしょう』大和国山辺郡都介郷(奈良県山辺郡都祁村)の地名に由来する氏族。仁徳紀六十二年条に闘鶏つげの地に額田大中彦皇子が猟をしに出かけ、闘鶏稲置大山主を喚して野の中の窟が氷室であることを知る伝説が見える。允恭紀二年二月条には闘鶏国造の姓を貶して稲置とした話がある。『阿蘇家略系譜』の武比古命の尻付に「志賀高穴穂大宮しがのたかあなほのおおみや(成務天皇)朝に、闘鶏国造を賜わる」とあり、その孫国造大山主君の譜に「難波高津大宮(仁徳天皇)朝、始めて氷を献じた、これが氷室のはじめである」とある。またその子国造角古君に「丹比大宮(反正)朝に、稲置にされた」と注し、従兄弟の百島君の尻付に「これは都祁直の先祖である」とある。

伊余国造いよのくにのみやつこ……『国造本紀』伊余国造条に「志賀高穴穂(成務天皇)の御世に、印幡国造と同祖である、敷桁波命の子速後上命が国造を賜わる」と見え、印波国造条に「軽嶋豊明(応神天皇)朝の御代に、神八井耳命八世孫である伊都許利命が国造を賜わる」とあり、神八井耳命の後裔という印波(印幡)国造と同祖とする。『阿蘇家略系譜』は敷桁波命を敷桁彦命に作り、系図に混乱があるが、速後上命を建後上命とし、その尻付に「志賀高穴穂大宮朝に、国造を賜わる」とある。『国造本紀』の敷桁波命の「波」は一本に「彦」、速後上命の「速」は「連」に作るので、略系譜の敷桁彦命、建後上命が正しいとされている。

科野国造……「国造本紀」科野国造条に「瑞籬(崇神天皇)朝御世に、神八井耳命の孫、建五百建命に国造を賜わる」とある。『阿蘇家略系譜』、武五百建命の尻付に「ある文書には、健磐竜命は磯城瑞籬大宮(崇神天皇)朝に、科野国造を賜わる」とあり、その子健稲背命、孫健甕富命の譜に科野国造とある。科野国造が後に金刺舎人の氏姓を称したことは、信濃国伊那郡の郡領が金刺舎人姓であること、および『日本三代実録』貞観五年九月五日条に「信濃国諏訪郡の人、右近衛将監うこのえしょうかん正六位上金刺舎人貞は大朝臣を賜わる。…神八井耳命の後裔である」とあることで知られる。『阿蘇家略系譜』は科野国造となった武五百健命の八世孫金弓君の尻付に「磯城島金刺大宮(欽明天皇)朝、舎人となって供奉する。これにより金刺舎人直の姓を負う」と見え、その後裔の諏訪郡領魚目の譜に「庚午籍負金刺直姓」とあるのも参考になるという。

道奥石城国造……「国造本紀」石城国造条に「志賀高穴穂(成務天皇)朝に、建許呂命をもって国造を賜わる」とあり、『阿蘇家略系譜』建許呂阪命の尻付に「志賀高穴穂大宮朝に、石城国造を賜わる」とある。「本紀」の「以建許呂命」の「以」は卜部兼永本「坂」に作り、他の条文から見ると「『坂』は建許呂命に含まれていた字で、『略系譜』の建許呂阪(坂)命が正しいか」という説がある。

常道仲国造ひたちのなかつくにのみやつこ……『常陸国風土記』行方郡条に「古老が言うには、斯貴瑞垣宮大八洲所馭(崇神)天皇之世に、東垂の荒賊を平定するために、建借間命を派遣した(これが那賀国造の祖先である)」とあり、「国造本紀」仲国造条には「志賀高穴穂(成務天皇)朝の御世に伊予国造と同祖である建借間命が国造を賜わる」と見える。『阿蘇家略系譜』(7) は神八井耳命の八世孫に建借間命を挙げ「志賀高穴穂大宮朝に、仲国造を賜わる」と記す。

長狭国造……長狭国は後の安房国長狭郡。『阿蘇家略系譜』の建借間命の子武沼田命の尻付に「志賀高穴穂大宮朝、長狭国造を賜わる」とある。

伊勢舩木直……伊勢国多気郡舟木(三重県度会郡大宮町舟木)の地名にちなむ氏族。『阿蘇家略系譜』は伊勢舟来直に作り、長狭国造となったという武沼田命の孫、大荒男命を祖とする。姓を異にするが正倉院文書、写書所解には伊勢国朝明郡葦田郷の戸主舟木臣東君の名が見える。

尾張丹羽臣……尾張国丹羽郡丹羽郷(愛知県一宮市丹羽)の地名にちなむ氏族。『阿蘇家略系譜』では伊勢舩木直と同じく大荒男命を祖とする。

嶋田臣……尾張国海部郡嶋田郷(愛知県海部郡美和町あたり)の地名にちなむ氏族。『姓氏録』右京皇別、島田臣条に「多朝臣と同祖の、神八井耳命の後裔である。その五世孫は武恵賀前命の孫仲臣子上である。稚足彦(成務)天皇の御代に、尾張国島田上下二県に悪神がおり、子上が派遣され平服した。また命を受けて、島田臣の姓を賜わる」とある。『阿蘇家略系譜』では武恵賀前命の孫を長狭国造になった武沼田命を挙げ、その子を那珂乃子上命とする。『姓氏録』の仲臣子上と同一人。子上の子が大荒男命で島田臣の祖という。弘仁私記序に見える嶋田臣清田の分注に「皇子神八井耳命之後、正六位上村田第一男」とある。


第三節……「『記紀』内の【三代】安寧天皇からの系譜伝承」

 安寧天皇から派生した氏族は、末子であり四代懿徳天皇の弟でと『記紀』に記載されている磯城津彦しきつひこのみこと(『記』では師木津日子命)自身またはその子息を祖とする氏族が『記紀』合わせて四氏族記載されている。また『記』のみに記されているが、磯城津彦命の子息の一人とされる和知都美命わちつみのみことについて以下の記述がある。


(前略)


和知都美命わちつみのみこと淡道之あわじの御井みいのみやいましき(8)


(後略)


 つまり「和知都美命は淡路にある御井の宮においでになった」(9)という記述があるが、本章の主題ではないため詳細は割愛する。


 猪使連いつかいのむらじ……『紀』のみに記載されている磯城津彦命を祖とする氏族。天武天皇十三年十二月、宿禰の姓を賜う。猪飼部いつかいべを管する伴造とされる。また同年同月条に、猪使連子首あり、かつて百済役に従軍し、この時帰朝。『姓氏録』、右京皇別にも猪使宿禰を「安寧天皇皇子の志紀都比古命の後裔である」とする。

 伊賀ノ《いがの》須知之すちの稲置いなぎ……伊賀国名張郡周知すち郷(三重県名張市薦生・蔵持のあたり)の地名にちなむ氏族名。「稲置」は古い時代の地方官職名。成務天皇紀五年九月条に「県と村に稲置を設置する」とあり、『隋書倭国伝』には「八十戸で一伊尼冀いなぎ単位で統治されること里長のようである。十個の伊尼冀で一か国に属する」という記述がある。

 那婆理なばり之稲置……伊賀国名張郡名張郷(三重県名張市)の地名にちなむ氏族。

 三野みの之稲置……持統天皇紀三年八月条に見える伊賀国伊賀郡身野(三重県名張市新田・田原あたり)の地名にちなむ氏族とされる。

 以上、特に右の三稲置が三重県名張市を中心とした伊賀地方の氏族であると伝えられている。


第四節……「『記紀』内の【四代】懿徳天皇からの系譜伝承」

懿徳天皇から派生したとされる氏族の記述は『紀』にはなく『記』には末子、当藝たぎ志比しひこのみこと(『紀』には武石彦たしひこあやしともせのみこと)を祖とする三氏族が記載されていた。

血沼之ちぬの別わけ……血沼は後の和泉地方(大阪府南部)であり、この地の名にちなむ氏族。「別(和気)」という称号は、「特定の地域に分かち遣わす」という地方首長の意味という説がある。

多遅麻之たじまのたけのわけ……但馬国美含みくみ郡竹野郷(兵庫県豊岡市)の地名にちなむ氏族。

葦井あしい之稲置……葦井の地名は未詳


第五節……「『記紀』内の【五代】孝昭天皇からの系譜伝承」

 ここでは、【五代】孝昭天皇からの系譜伝承について論じていく。なお多氏系氏族と同じく『思想大系、記』を参考にして論じている。

 和珥臣……孝昭天皇紀六十八年に「天足彦国押人命はこの和珥臣等の始祖である」と伝え、大和国添上郡南部の和邇(奈良県天理市和爾)より起こった氏族。『延喜式、神名帳』添上郡には和爾坐赤坂比古神社と和邇下神社がある。(10)『記』の孝昭段の天押帯日子命の記述には、この氏族と同祖の氏族に春日臣。大宅臣。粟田臣。小野臣。柿本臣。壹比韋臣。大坂臣。阿那臣。多紀臣。羽栗臣。知多臣。牟耶臣。都怒山臣。伊勢飯高君。壹師君。近淡海国造の十六氏を記している。

 但し、加藤謙吉氏 はワニ氏の氏名の由来をサメの古語である「ワニ」であるとし、そこから春日・ワニ氏は漁労民と関係し海運・水運等を掌っていたのではないかと述べていた。(11)

また次に書く春日氏にかけて、開化天皇、応神天皇、反正天皇、そして雄略天皇、仁賢天皇に自分の子女を后妃として輩出する等、特に五世紀後半から六世紀にかけ、和珥・春日氏と大王(天皇)家との間に婚姻関係が続いた記述が『記紀』にある。

春日臣……大和の春日の地を本拠とした氏族。後に大春日臣と称し、天武十三年十一月、朝臣姓となる。『姓氏録』左京皇別に大春日朝臣の本系を載せ「出自は、孝昭天皇皇子の天帯彦国押人命からである。仲臣に家の千金を重ね、酒糟さけかすを使って堵つまり築地の造成を命じられる。この時、大鷦鷯(仁徳)天皇がその家を臨幸つまりご訪問なされる。詔で糟垣かすがきのおみと名付けられ、後に春日臣と改められる」の伝承が見える。雄略紀元年三月是月条に春日和珥臣深目の名が見え、春日和珥臣は雄略紀十三年八月条の春日小野臣大樹、仁賢元年紀二月の和珥臣日爪そして孝徳紀の白雉四年五月壬戌条での春日粟田臣百済の例からすると、春日氏から丸邇(和珥)氏が生じたと見られるが、丸邇氏の本流である丸邇臣の呼称は、欽明朝以後見えなくなるので、丸邇氏が継体・欽明朝頃から春日氏を称するようになったという考えもある。

大宅臣……大和の大宅の地(大和国添上郡大宅郷。奈良市古市町付近か)を本拠とした氏族。天武十三年十一月、大春日臣らと共に朝臣姓となる。『姓氏録』河内皇別に「大春日と同祖である天足彦国押人命の後裔である」とある。『和邇部氏系図』(12) の忍勝の尻付に「大倭添県大宅郷に住む、大宅臣の姓を負う」と見える。

粟田臣……山背の粟田即ち山城国愛宕郡粟田郷(京都市街東部、吉田から東山三条付近にかけての一帯)を本拠とした氏族。天武十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』右京皇別に「粟田朝臣は、大春日朝臣と同祖であり天足彦国忍人命の後裔である」、山城皇別に「粟田朝臣は、天足彦国押人命の三世孫、彦国葺命の後裔である」とある。

小野臣……山背の小野即ち山城国愛宕郡小野郷(京都市街東北部、高野付近)を本拠とした氏族。天武十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』左京皇別「大春日朝臣と同祖である彦姥津命の五世孫、米餅搗大使主命の後裔である。大徳小野臣妹子、近江国滋賀郡小野村に家を持つ。よってこれを氏名とする」・山城皇別「孝昭天皇皇子の、天足彦国押人命の後裔」に小野朝臣を載せている。このうち左京皇別の小野朝臣の記述には遣隋使で有名な小野妹子が記されている。小野妹子は近江国滋賀郡小野村に居住したので小野氏を称したとするが、同地は後の滋賀郡和邇村小野(滋賀県滋賀郡志賀町小野)で、『神名式』に見える小野氏の氏神小野神社の鎮座地である。『姓氏録』山城皇別、小野臣の本系では「同(天足彦国押人命)命七世孫、人花命の後裔」とある。人花命を『和邇部氏系図』は「人華臣」に作り、その孫野依臣の尻付に「小野朝臣祖」とある。

柿本臣……大和の柿本の地即ち大和国添上郡柿本寺付近(奈良県天理市櫟本町東方)を本拠とした氏族。天武十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』大和皇別に「柿下朝臣は、大春日朝臣と同祖である天足彦国押人命の後裔である。敏達天皇の御世に、家の門に柿の樹があったことによる。柿本臣氏となる」とある。『万葉集』の柿本人麻呂は同族である。

壹比韋臣……天武紀十三年十一月条は櫟井臣に作る。大和の壹比韋(櫟井)の地即ち大和国添上郡櫟井(奈良県天理市櫟本町)を本拠とした氏族。天武十三年十一月、朝臣姓となる。『姓氏録』左京皇別に「櫟井臣は、和安部やまとのあべの同祖である彦姥津命の五世孫の米餅舂大使主命の後裔である」とある。『和邇部氏系図』には米餅舂大使主命の孫に津幡臣(小野朝臣の祖野依臣の弟)を挙げ、尻付に「櫟井臣の先祖」とある。

大坂臣……備後国安那郡大坂郷(広島県深安郡神辺町)の地にちなむ氏族という説がある。『和邇部氏系図』では彦国葺命の孫八千足尼命やちのすくねのみことを「安那公・大阪直の祖」とする。

 阿那臣……備後の安那の地即ち備後国安那郡(広島県深安郡・福山市)を本拠とした氏族。「国造本紀」吉備穴国造条に「纏向日代(景行天皇)の御世に、和邇臣は同祖であり、彦訓服命八千足尼に国造を賜わる」と見え、『和邇部氏系図』の八千足尼命の尻付にも「国造本紀」と同様、吉備穴国造となったことを記し「安那公、大阪臣の先祖」と見える。『姓氏録』右京皇別は彦国葺命の後という安那公を載せる。『記』の「阿那臣」について「阿那公の誤りか」と記述していた。

 多紀臣……丹波の多紀の地即ち丹波国多紀郡(兵庫県多紀郡)を本拠とした氏族と推定されている。『正倉院文書』「国郡未詳戸籍」に多紀臣広隅ら十七名の人名を載せる。

 羽栗臣……山城の葉栗の地即ち山城国久世郡葉栗郷(京都府城陽市付近)を本拠とした氏族と推定されている。『姓氏録』左京皇別に葉栗臣を載せ「和安部やまとのあべ朝臣と同祖である彦姥津命の三世孫、建穴命の後裔である」とある。山城皇別の葉栗条には「小野と同祖である彦国葺命の後裔である」と見える。『続日本紀』宝亀七年八月条に山城国乙訓郡の人、葉栗翼が臣姓を賜わったことが見え、それ以前は無姓。『尾張風土記』逸文に尾州葉栗郡の光明寺を天武五年に小乙中の葉栗臣人麿が建立したとの伝えが見えることからすると、羽栗臣の本拠は尾張の葉栗即ち尾張国葉栗郡葉栗郷(岐阜県羽島市)の方が古いと推測されている。

 知多臣……尾張の知多の地即ち尾張国智多郡(愛知県知多郡)を本拠とした氏族と推定されている。

 牟耶臣むざのおみ……上総の武射即ち上総国武射郡(千葉県山武郡成東町周辺)を本拠とした氏族。「国造本紀」に「武社国造は、志賀高穴穂(成務天皇)朝に、和邇臣の先祖、彦意祁都命の孫彦忍人命が国造を賜わる」とあり、『和邇部氏系図』の彦忍人命の尻付にも武射国造となったことを記し、武射臣・春日部の祖とある。『続紀』神護景雲三年三月条に陸奥国牡鹿郡の人春日部奥麻呂らが武射臣の姓を賜わったことが見える。

 都怒山臣……都怒山は角野(都乃)の地即ち近江国高島郡角野郷(滋賀県高島郡今津町角川)と推定されている。天平以降の人である角家足は角山君家足とも称しているが、彼は近江国「高嶋」郡の前少領であったことから、角山は高島郡内の地名と考えられている。山は『万葉集』に見える高島山と推定されている。『続紀』神亀元年二月条に角山君内麻呂の名が見える。『記』の都怒山臣は都怒山君の誤りか。

 伊勢飯高君……伊勢の飯高の地即ち伊勢国飯高郡(三重県飯南郡南部)を本拠とした民族。古くは飯高県主であったらしく、『倭姫命世紀』・『皇太神宮儀式帳』に飯高県造(祖)乙加豆知命の名が見える。『和邇部氏系図』には乙加豆知命は伊勢国に居住し、飯高宿禰・壱志宿禰・伊部造の祖と見える。『続日本紀しょくにほんぎ』(『続紀』と略す)天平十四年四月条に伊勢国飯高郡の采女飯高君笠目の親族県造すべてに飯高君の姓を賜わったことが見え、『続紀』神護景雲三年二月条に伊勢国飯高郡の人飯高公家継が宿禰姓を賜わったとある。『続紀』宝亀元年十月条以降には伊勢国飯高郡の采女飯高宿禰諸高の名が見える。

 壹師君……伊勢の壹(壱)志の地即ち伊勢国壱志郡(三重県一志郡)を本拠とした氏族。古くは壱志県主であったらしく、『倭姫命世紀』に市師県造祖建呰命、『皇太神宮儀式帳』に市師県造祖建呰子の名が見える。『続日本後紀』嘉詳二年正月条に壱志公吉野、『文徳天皇実録』斉衡二年正月条に壱志宿禰吉野の名が見え、この間に壱志公から壱志宿禰に改姓したことが知られる。『和邇部氏系図』では乙加豆知命を壱志宿禰の祖とする。正倉院文書に天平勝宝末年頃の人として伊勢国壱志郡嶋抜郷の戸主壱志君族祖父の名が見える。

 近淡海国造……実は近江の額田国造かと推定されている。「国造本紀」の「志賀高穴穂(成務天皇)朝の御世に、和邇臣の先祖の彦訓服命の孫大直侶宇命が国造を賜わる」とし、天押帯日子命系に属する。「国造本紀」の大直侶宇命は『和邇部氏系図』によって大真侶古命と訂せるという考えがある。『同系図』にも大真侶古命が成務朝に額田国造となったことが見える。


   第六節……「『記紀』内の【七代】孝霊天皇からの系譜伝承」

 孝霊天皇の皇子から派生した氏族については、『記』には日子刺肩別命、比古伊佐勢理毗古命またの名大吉備津日子命と日子寤間命(『紀』では、彦狭嶋命)そして若日子建吉備津日子命(『紀』では稚武彦命)の四皇子から派生した。左の各氏族を『記』での記述順で羅列する。 

 なお『紀』では、稚武彦命から派生した「吉備臣」の記述のみである。

・「比古伊佐勢理毗古命(『紀』では彦五十狭芹彦命)またの名大吉備津日子命(『紀』では大吉備津彦命)」

 吉備きびの上道かみつみちのおみ……後の備前国上道郡上道郷を中心に同郡(岡山県岡山市周辺)一帯に勢力を持った氏族。応神天皇紀二十二年九月条には、吉備臣の祖である御友別の子仲彦を上道県に封じ、仲彦は上道臣・香屋臣の始祖としるされている。『姓氏録』右京皇別、吉備臣条によれば御友別命は稚武彦命の孫とされ、大吉備津日子命を祖とする『記』とは系を異にする。初め大吉備津日子命の後裔が上道の地を占めていたが、その後裔が絶えたため稚武彦命(『記』では若日子建吉備津日子命)の系統に移ったものかという説がある。

・「若日子建吉備津日子命(『紀』では稚武彦命)」

 吉備きびの下道しもつみちのおみ……後の備中国下道郡(岡山県吉備郡・川上郡)を根拠としていた氏族。『紀』には稚武彦命を祖とする「吉備臣」の記述があるのみである。応神天皇紀二十二年九月条には、吉備臣の祖である御友別の長子稲速別を川嶋県(後の備中国浅口郡・玉島市の地域か)に封じ、稲速別は下道臣の始祖とある。天武天皇紀十三年十一月に朝臣姓を賜る。『姓氏録』に「下道しもつみちのあそんは吉備朝臣と祖を同じくし、稚武彦命の後裔である」とある。

 かさのおみ……後の備中国小田郡笠岡(岡山県笠岡市)を本拠とした氏族か。応神天皇紀二十二年九月条には吉備臣の祖である御友別の弟かものわけを波区芸県(岡山県笠岡市付近か)に封じ、鴨別は笠臣の始祖とある。天武天皇十三年十一月に朝臣姓になり、『姓氏録』右京皇別に「笠朝臣は、孝霊天皇の皇子稚武彦命の後裔である。応神天皇が吉備国を巡幸なさったとき、加佐かさ山に登った際、つむじ風が被っていた御笠を吹き飛ばした。天皇はこれを不思議がった。鴨別命は、これは神々が天皇を歓迎しようと思っており、この風はその意思表示になりますと述べた。天皇はその真偽を確かめるために、その山で狩りを行わせた。とても多くの獲物を得たため、天皇は大いに喜び、その山に賀佐の名を賜った」とある。

・「日子寤間命(『紀』では、彦狭嶋命)」

 針間はりまうし鹿かのおみ……安閑天皇紀二年五月条に見える播磨国の牛鹿屯倉うしかのみやけ(兵庫県姫路市市之郷辺か)の地を本拠としていた氏族。『姓氏録』右京皇別に宇自可臣うじかのおみを載せ、「孝霊天皇の皇子、彦狭島命の後裔である」とある。

・「日子ひこさしかた別命わけのみこと

 高志之こしの利波となみのおみ……高志は越、利波は後の越中国礪波郡となみぐんの地で、この地方に勢力を有した豪族。大化以後、利波評督となみのこおりのかみになるものを出し、奈良・平安期には郡司職を継承した。

 豊国之国前とよのくにのくにさきのおみ……後の豊後国国埼郡(大分県東国東・西国東郡)国前郷あたりに勢力を有した豪族。景行天皇紀十二年九月条に国前臣の祖菟名手の名がみえる。国造本紀、国前国造条には「志賀高穴穂(成務天皇)朝に、吉備臣と同祖である吉備都彦きびつひこのみことの六世孫午佐自命うさじのみことは、国造の称号を賜われた」とあって系を異にする。国前臣氏は後に同族の吉備臣の刑を冒したとされる。

 五百いほばらのきみ……廬原公とも表記。後の駿河国廬原郡(庵原郡)廬原郷あたりに勢力を有した豪族。『姓氏録』右京皇別、廬原公条に「笠朝臣と祖を同じくする。稚武彦命の後裔である。その孫吉備建彦は、景行天皇の時代に東方に派遣され、毛人えみし及び凶暴な鬼神を討伐していた。そして阿倍廬原郡つまり静岡県安倍川東岸地域に至り、また命令を受けて廬原国を与えられた」とある。また一方で国造本紀、廬原国造条には「志賀高穴穂(成務天皇)朝の時、池田坂井君の祖である吉備武彦命の子である思加部彦しかべひこのみことに国造の地位が与えられた」ともある。

 つぬ鹿済がのわたりのあたい……後の越前国敦賀郡(福井県敦賀市)の地の豪族。国造本紀、角鹿国造条に「志賀高穴穂(成務天皇)朝の時代に吉備臣祖若武彦命孫建狭日命は国造の地位を与えられた」とあり、この系統の角鹿直氏と同族であろうとされている。


第七節……「『記紀』内の【八代】孝元天皇からの系譜伝承」

 孝元天皇の皇子から派生した氏族もいるが、それらの氏族は、大彦おおびこの命みことと彦ひこ太ふつ忍おしの信まことの命みことからそれぞれ派生している。

・「大彦命(『記』では、大毗古命)」(13)

 阿倍あべのおみ……古代の大氏族で、『記』では、大毗古命の子のたけぬなかわ)別命《わけのみことを祖とするとある。『姓氏録』、左京皇別にも「孝元天皇皇子の、大彦命の後裔である」とある。天武天皇十三年十一月に朝臣姓を賜わる。

 かしわでのおみ……『記』によれば、建沼河別命の弟の比古伊那許士別命を祖とする。天武天皇十三年十一月、朝臣の姓を賜う。『姓氏録』左京皇別、高橋朝臣条に「阿倍朝臣と同祖、大稲輿命おおいなこしのみことの後裔である。景行天皇が東国を巡視した際に、大蛤おおはまぐりを供え献じた。天皇はこの時、その物珍しさに喜び、膳臣の姓を賜わる。天武天皇十二年に膳臣を改めて、高橋朝臣を賜わる」とある。

 阿閉あへのおみ……敢臣とも記す。伊賀国阿閉郡(三重県阿山郡・上野市)を根拠とする氏族とされる。『姓氏録』河内皇別に「大彦命の息子の彦瀬立大稲越命ひこせだちのおおいなこしのみことの後裔である」とあり、阿部臣は兄の建沼河別命の後、阿閉臣は弟の伊那許士別命の後ということになって、両者は別の氏とみるべきとされる。阿閉臣も天武天皇十三年十一月、朝臣の姓を賜う。

 狭狭城山ささきのやまのきみ……狭狭城は地名で、『和名類聚抄わみょうるいじゅうしょう』の近江国おうみのくに蒲生郡がもうぐん篠笥ささき郷(滋賀県蒲生郡安土町付近)か。『姓氏録』左京皇別に、『佐々(ささ)貴山きやまのきみ、阿倍朝臣同祖』、同摂津皇別に「阿倍朝臣と同祖である、大彦命の後裔である」とあり、顕宗天皇紀元年五月条に狭狭城山君韓帒ささきのやまのからふくろの宿禰の名がみえる。

 筑紫つくしの国造くにのみやつこ……『旧事紀』、国造本紀に「筑紫国造は、成務天皇の御世に。阿部臣の同祖。大彦命の五世孫の田道命が国造を賜ったことを起源とする」とある。継体天皇紀二十一年六月条に見える筑紫国造磐井の叛乱は有名である。

 こしの国造くにのみやつこ……『旧事紀、国造本紀』に「高志こしの国造。志賀高穴穂御世に阿閉臣の祖屋主男心命の三世孫、市入命が国造を賜う」とされる。

 伊賀臣……祖である屋主男心命は『姓氏録』右京皇別、伊賀臣条・同道公条によれば、大彦命の孫で大稲輿命の子とされている。天武天皇十三年十一月、朝臣姓を賜う。

・「彦太忍信命(『記』では比古布都押之信命)」

 山代やましろうちつおみ……彦太忍信命の子のうま師内宿禰しうちのすくねから派生し、山代の内は雄略天皇紀十七年条に見える山やま背しろの国内くにうち村むらで、山城やましろ国綴喜郡有智郷(京都府綴喜郡旧八幡町内里付近)の地に本拠を持った氏族。『姓氏録』大和皇別に「内臣は、孝元天皇の皇子彦太忍信命の後裔である」「山公は、内臣と同祖であり、味師内宿禰の後裔である」とある。

 多臣たのおみ……彦太忍信命の子の武内宿禰たけしうちのすくね(『記』では建内宿禰たけしうちのすくね)の子波多八代はたのやしろの宿禰から派生し、後の大和国高市郡波多郷(奈良県高市郡明日香村畑、同高取町付近)とみられる地を本拠とした氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』右京皇別に八多朝臣を載せ、「石川朝臣と同祖であり武内宿禰の後裔である」とある。

 はやしのおみ……彦太忍信命の子の武内宿禰たけしうちのすくね(『記』では建内宿禰たけしうちのすくね)の子波多八代はたのやしろの宿禰から派生し、後の河内国志紀郡拝志(林)郷(大阪府柏原市沢田付近)を根拠とした氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』に林朝臣を載せ、「石川朝臣と同祖である武内宿禰の後裔である」(左京皇別)とある。

 みのおみ……波弥とも書き、『神名式』の近江国伊香郡波美神社のある地(滋賀県東浅井郡湖北町速水)を本拠とし、彦太忍信命の子の武内宿禰たけしうちのすくね(『記』では建内宿禰)の子波多八代はたのやしろの宿禰から派生した氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となり、『紀』は波弥臣と記す。

 星川ほしかわのおみ……彦太忍信命の子の武内宿禰たけしうちのすくね(『記』では建内宿禰)の子波多八代宿禰から派生し、後の大和国山辺郡星川郷(奈良県天理市福住町付近)の地を本拠とした氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。

 淡海おうみのおみ……近江国(滋賀県)の地名にちなむ氏族か。彦太忍信命の子の武内宿禰(『記』では建内宿禰)の子波多八代宿禰から派生したとされる。

 長谷部之はせべのきみ……雄略天皇の名代長谷部舎人の伴造氏族か。彦太忍信命の子の武内宿禰(『記』では建内宿禰)の子波多八代宿禰から派生したとされる。

 許勢こせのおみ……『紀』では許勢とも巨勢とも書く。彦太忍信命の子の武内宿禰(『記』では建内宿禰)の子許勢小柄こせのおがら宿禰から派生し、大和国高市郡巨勢こせ郷(奈良県高市郡高取町越智周辺)の地を本拠とした氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『続日本しょくにほん』(以下『続紀』)天平勝宝三(七五一)年二月己卯条の雀部朝臣真人らの言に、巨勢男柄おがら宿禰の男、乎利宿禰は巨勢朝臣らの祖とある。

 雀部ささきべのおみ……天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『続紀』天平勝宝三年二月己卯条の雀部朝臣真人らの言に巨勢男柄の男、星川ほしかわのたける日子ひこは雀部朝臣らの祖とある。『姓氏録』左京皇別・摂津皇別に雀部朝臣を載せ、「巨勢朝臣と同祖である建内宿禰(命)の後裔である」とする。前者の本系には「星河建彦宿禰は、応神天皇の御世に、皇太子が大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に代わったとき、木綿の襷を繋いで、御膳を掌監した。これにちなみ大雀臣の名を賜わる」とある。雀部は名代部で雀部臣氏は大化前代に名代部の内の膳夫の伴造であって、それに基づいて雀部臣を称したものか。

 軽部かるべのおみ……天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『続紀』天平勝宝三(七五一)年二月己卯条の雀部朝臣真人の言に巨勢男柄宿禰の男、伊刀宿禰は軽部朝臣らの祖とある。『姓氏録』和泉皇別に軽部を載せ、「倭日向建日向八綱田命やまとひむかのたけるひむかのやつなだのみこと。雄略天皇の御世に、加里の郷という地域を献じた。そのため軽部君の姓を賜わる」とあるので、異氏ではあるが軽部臣氏も同じような事由で、軽部を称したのではないかとし、大和国高市郡軽(奈良県橿原市大軽町)の地名にちなむとする説が有力。名代の軽部の伴造であったことによる氏族名と解した方が妥当とされる。

 蘇我そがのおみ……彦太忍信命の子の武内宿禰たけしうちのすくね(『記』では建内宿禰たけしうちのすくね)の子蘇賀石河そがのいしかわ宿禰から派生し、大和国高市郡蘇我(奈良県橿原市蘇我町)を本拠とした氏族。宣化天皇朝に蘇我稲目宿禰が大臣となって以来、馬子。蝦夷に至る子孫が朝廷で威を振った。皇極天皇四(六四五)年、蝦夷・入鹿父子が殺されて蘇我臣の宗家は滅亡。同族の石川臣が蘇我氏の系統を継ぐ。『日本三代実録』(以下『三代実録』)元慶がんぎょう元(八七七)年十二月二十七日条の石川朝臣木村の言に武内宿禰の男、宗我の大家を賜わり、ここに居住したので宗我宿禰の姓を賜わり、天武天皇十三年に朝臣姓となったとある。石川朝臣はこのとき、宗岳朝臣の姓を賜わった。木村の言にいう天武天皇十三年の朝臣賜姓は、石川臣が石川朝臣となったことを指す。『姓氏録』左京皇別上に石川朝臣を載せ「孝元天皇皇子の彦太忍信命の後裔である」とある。

 川邊かわべのおみ……後の大和国十市郡川辺郷(奈良県桜井市多武とうのみね付近)の地を本拠とした氏族とされる。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』右京皇別に川辺朝臣を載せ「武内宿禰の四世孫の宗我宿禰の後裔である」とする。

 田中たなかのおみ……後の大和国高市郡田中村(奈良県橿原市田中町)の地を本拠としたと考えられる氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』右京皇別に田中朝臣を載せ「武内宿禰の五世孫の稲目宿禰の後裔である」とする。

 高向たかむこのおみ……当該氏族の本拠を後の越前国坂井郡高向郷(福井県坂井郡丸岡町)、河内国錦部郡高向むら(大阪府河内長野市高向)とする両説があるが、後説が妥当とされる。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』右京皇別に高向朝臣を載せ、「石川と同じ氏族であり、武内宿禰の六世孫猪子臣の後裔である」とする。

 小治田おわりだのおみ……『紀』は小墾おわり臣に作る。後の大和国高市郡小治田邑(奈良県高市郡明日香村豊浦付近)を本拠とした氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』右京皇別に小治田朝臣を載せ「上に同じ(武内宿禰の五世孫稲目宿禰の後裔)」とある。

 桜井さくらいのおみ……この氏族の本拠を後の河内国河内郡桜井郷(大阪府東大阪市池島)、大和国十市郡桜井(奈良県桜井市)とする説があるが、後説が妥当とされる。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』左京皇別に桜井朝臣を載せ「石川朝臣と同祖である蘇我石川宿禰の四世孫稲目宿禰大臣の後裔である」とある。

 岸田きしだのおみ……後の大和国山辺郡岸田(奈良県天理市岸田)の地を本拠とした氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』右京皇別に岸田朝臣を載せ「武内宿禰の五世孫稲目宿禰の後裔である。その息子、小祚臣の孫耳高、岸田村に居住する。よって岸田臣の号を負う」による。

 平群臣へぐりのおみ……彦太忍信命の子の武内宿禰たけしうちのすくね(『記』では建内宿禰たけしうちのすくね)の平群都久へぐりのつくの宿禰から派生し、後の大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡南半一帯)を本拠とした氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』右京皇別平群朝臣を載せ「石川朝臣と同氏である武内宿禰の息子の平群都久宿禰の後裔である」とある。

 佐和良さわらのおみ……後の筑前国早良郡早良郷(福岡県福岡市早良区鳥飼付近)を本拠とした氏族とされる。早良郷に接して平群郷のあることがその推定を強める。『姓氏録』河内皇別に早良臣を載せ「平群朝臣と同祖である武内宿禰の息子平群都久宿禰の後裔である」とある。

 馬御樴連うまみくいのむらじ……馬工連と同氏とされる。『姓氏録』大和皇別に「馬工連うまくいのむらじは、平群朝臣と同祖である、平群木菟へぐりのつく宿禰の後裔である」とある。『紀氏家牒』(14)に平群木菟宿禰を平群朝臣、馬工連らの祖とし、また「額田早良宿禰の息子額田駒宿禰、平群県へぐりのあがたに馬牧場があり、駿駒つまり立派な馬を選んで養育していた。それを天皇に献じた。命令で馬工連の姓を賜わり、飼育をつかさどることになった。この理由でその馬牧場があった地域を生駒いこま(奈良県生駒市)と言われるようになった。(一方で、額田駒宿禰息子は□□馬工御樴連である)」とある。

 きのおみ……彦太忍信命の子の武内宿禰(『記』では建内宿禰)の木角宿禰きのつぬのすくねから派生した氏族。『紀』は紀臣に作る。神名帳に見える大和国平群郡平群坐へぐりまします神社じんじゃの所在地・紀伊国を本拠としたとの両説があるが、本貫はもと紀伊国、後に平群郡に移ったものとされる。『紀氏家牒』は大倭国平群県紀里を居地とする。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』左京皇別に紀朝臣を載せ「石川朝臣と同祖である建内宿禰の息子紀角宿禰の後裔である」とある。右京皇別上の紀朝臣は「石川朝臣と同氏である、屋主忍雄建猪心命の後裔である」とする。

 都奴つぬのおみ……『紀』は都努臣・角臣に作る。後の周防国都濃郡都濃郷周辺を本拠とした氏族。雄略天皇紀九年五月条に紀小鹿火宿禰が紀小弓宿禰の喪により来たりてつぬのくに(山口県都濃郡・佐波郡・吉敷郡の地という)に留まった話を記し、「この角臣等は、初めて角国に居住したため角臣と名乗る、ここから始源である」とある。

 坂本臣……後の和泉国和泉郡坂本郷(大阪府和泉市坂本町)を本拠とした氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』左京皇別に坂本朝臣を載せ「紀朝臣と同祖である紀角宿禰の息子白城宿禰の後裔である」。和泉皇別の坂本朝臣条には「紀朝臣と同祖である建内宿禰の息子紀角宿禰の後裔である。またその息子白城宿禰の三世孫建日臣は、坂本臣の姓を賜わる」とある。摂津皇別に坂本臣を載せ「紀朝臣と同祖である彦太忍信命の孫武内宿禰命の後裔」とある。紀氏家牒に「紀辛梶宿禰の弟建日宿禰、河内国和泉県坂本里に居住し、清寧天皇の時代に氏名を改めて坂本臣を賜わる」とみえる。

 玉手臣たまてのおみ……彦太忍信命の子の武内宿禰たけしうちのすくね(『記』では建内宿禰たけしうちのすくね)の子葛城かつらぎの長江會都毗ながえそのつびから派生した氏族。後の大和国葛上郡玉手邑(奈良県御所市玉手)の地を本拠とした氏族。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』右京皇別に玉手朝臣を載せ「同(武内)宿禰男葛木會頭かつかぎのそつ日古命ひこのみことの後裔である」とある。

 いくはのおみ……仁徳天皇紀十二年八月条に「郡臣及百寮を集めて、高麗(高句麗)から献じられた鉄の盾と的を試した。多くの人が的を通すことができなかった。ただ的臣の先祖の盾人宿禰だけが鉄の的を射通した。高麗の客たちは、その弓射る力のすぐれたのを見て、共に起って拝礼した。翌日、盾人宿禰をほめて、的戸田宿禰と名を賜わった」(15)とあり、的臣氏の祖先伝承がみえる。景行天皇紀十八年八月条には的邑いくはのむら(筑後国いく郡。福岡県うきは市)の地名がみえ、「この日、膳夫つまり食膳担当たちが盞うきつまり杯を忘れた。当時の人たちは盞を忘れたところを名づけて浮羽といった。今的というのはなまったものである」(16)の地名起源説話がある。また『播磨風土記』神前かみさき郡的部ぐんいくはべ里条に「的部等は、この村に居住した。このため的部里といわれる」とあり、播磨国神埼郡的部郷(兵庫県神崎郡香寺町岩部)の地名起源説話もある。祖先伝承・地名起源説話からすると的氏の名称の由来は複雑で、祖先伝承どおりとも地名にゆかるとも解される。いずれにせよ的が軍事に関係し、景行天皇紀十八年八月条にみられるごとく膳夫にも関係する伝説があることからみると的氏の名称は軍事・膳夫に従事した職名によるか。『姓氏録』山城皇別に「的臣は、石川朝臣と同祖である彦太忍信命の三世孫葛城襲津彦命の後裔である」、河内皇別に「的臣は、石川朝臣と同祖である武内宿禰の息子葛木曾都比古命の後裔である」、和泉皇別に「的臣は、坂本朝臣と同祖である建内宿禰の息子葛城襲津彦の後裔である」とある。

 生江いくえのおみ……生江は地名と考えられるが、この氏族の本拠は未詳。『姓氏録』左京皇別に生江臣を載せ「石川朝臣と同祖である武内宿禰の後裔である」とある。天平三年越前国正税帳ほか正倉院文書によると越前足羽郡に生江臣が多く居住。在地豪族としてこの地に盤踞していたことが知られる。

 阿藝那あぎなのおみ……阿藝那は地名と考えられるが未詳。『姓氏録』摂津皇別に阿支奈臣を載せ「玉手朝臣と同祖である武内宿禰の息子の葛城曾豆比古命そつひこのみことの後裔である」とある。『三代実録』貞観八年十月二十五日条に阿岐奈臣安継の人名が見える。阿藝那臣の同族には君姓氏族もあり、『姓氏録』大和皇別に「阿祗奈君は、玉手朝臣と同祖である彦太忍信命の孫武内宿禰の後裔である」とある。天平宝字六(七六二)年十月七日弥勒菩薩所問経論題跋に阿岐名君小万の名が見える。

 江野財臣えぬまのおみ……『古事記伝』は野を沼とし、財を間の誤りと見なして「江沼間」とする。『姓氏録考証』は江野財の財は間の誤りとし「江野間」とする。彦太忍信命の子の武内宿禰(『記』では建内宿禰)の子若子宿禰わくごのすくねから派生し、江沼間・江野間は江沼で、越前国江沼郡もしくは越前国足羽郡の地を本拠とする氏族と考えられている。天平三(七三一)年の越前国正税帳・天平十二(七四〇)年の越前国江沼郡山背郷計帳に江沼臣・江沼臣族の人名を多く載せる。国造本紀、江沼国造条に「柴垣(反正天皇)朝の御世に、蘇我臣と同祖である武内宿禰の四世孫志波しばかつのすくね国造を賜わる」とあり、『姓氏録』大和皇別、江沼臣条に「石川と同氏である建内宿禰の息子、若子宿禰の後裔である」とある。紀氏家牒に若子宿禰が高市県江沼里(奈良県橿原市白橿付近か。未詳)に居住したとあるから江沼臣は大和の江沼の地によるのかとも考えられる。江沼臣は欽明天皇紀三十一年四月条に江渟臣と書く。正倉院文書に江沼氏を江野とも表記していること、越前国正税帳に江沼郡司として江沼臣氏とならんで財造氏の名がみえることなどから江野の財の臣という複氏名という推定は有力とされる。


第八節……「『記紀』内の【九代】開化天皇からの系譜伝承」

 開化天皇の皇子から派生した氏族もいるが、それらの氏族は、彦坐ひこいますのみこ(『記』では日子坐王)から派生しており、また『記』のみに記載がある。

 伊勢之品遅部君……開化天皇の子彦坐王の子あけたつのみこから派生した氏族。垂仁天皇記に品遅部を定めたことがみえる。垂仁天皇紀二十三年十一月条には誉津部ほむつべ。品遅部君は伊勢の品遅部の伴部の氏姓。

 伊勢之佐那造いせのさなのみやつこ……あけたつのみこから派生した氏族で、後の伊勢国多気郡佐那(三重県多気郡多気町仁田あたり)の地を本拠とした氏族。

 比賣陀ひめだのきみ……彦坐王の子菟上うなかみのみこから派生した氏族で『神名式』近江国伊香郡条にみえる比売多神社の地あたりを本拠とした氏族という説があるが未詳とされる。

 當麻勾たぎまのまがりのきみ……當麻または当麻は大和国葛下郡当麻郷(奈良県葛城市・香芝市一帯)の地。勾も地名で後の大和国広瀬郡下勾郷(奈良県橿原市曲川町)に基づく氏名といわれるが、安閑天皇であるまがり大兄のおおえの名代部、勾舎人部・勾靫部の伴造氏族と推定されている。

 佐々君ささのきみ……佐々の地名未詳。播磨風土記、揖保郡条にみえる佐々村(兵庫県揖保郡新宮町上笹・下笹)の地と関係あるか。『古事記伝』は『神名式』伊賀国阿拝郡条にみえる佐々神社をあげる。『上宮聖徳法皇帝説』に山代やましろの大兄おおえのおうの子佐々女王の名がみえる。女王の名佐々は佐々君氏の名にゆかると推定されている。

 日下部連くさかべのむらじ……仁徳天皇記に「大日下おおくさかのみこの御名代として、おお日下部くさかべを定め、わか日下部王くさかべのみこの御名代として若日下部を定める」とある日下部の伴造氏族。『紀』は草壁連に作り、天武天皇十三年十二月に宿禰姓となる。『姓氏録』山城皇別・摂津皇別に日下部宿禰を載せ、前者に「開化天皇皇子の彦坐命の後裔である」、後者に「開化天皇皇子の彦坐命からの出自」とある。河内皇別、日下部連条には「彦坐命の子狭穂彦命の後裔である」とあり、また日下部連と同祖とする日下部も河内皇別にみえる。首姓の日下部氏もいて和泉皇別には「日下部首は、日下部宿禰と同祖である彦坐命の後裔である」とあり、続いて「日下部は、日下部首と同祖である」を載せている。

 甲斐国造……『国造本紀』甲斐国造条に「纏向日代(垂仁天皇)朝の世に、狭穂彦王の三世孫臣知津彦公の此の(「子の」か)宇塩海足尼は国造を賜わる」とある。『粟鹿大神元記』(17)の武押雲命の尻付に「母は甲斐国造等の上祖である狭積穂彦命の娘角姫命である」とみえる。狭積穂彦命は狭穂彦さぼひこ王(沙本毗古王)か。甲斐国造は名代部の日下部を管轄し、日下部直の氏姓を称し、のちに三枝部・小長谷部・壬生部が設定されるにしたがい一族はそれぞれの管理者となり三枝直・小長谷直・壬生直を称したとする説がある。

 葛野之くずののわけ……後の山城国葛野郡(京都市右京区太秦周辺)を本拠とした氏族。『姓氏録』山城皇別に別公を載せ、「同上(彦坐命の後裔である)」とある。

 近淡海蚊野之ちかつおうみのかののわけ……後の近江国愛智郡蚊野郷(滋賀県愛知郡秦荘町)を本拠としていた氏族。

 若狭之わかさのみみのわけ……後の若狭国三方郡弥美郷(福井県三方郡美浜町河原市付近)を本拠としていた氏族。平城宮木簡に若狭国三方郡弥美郷中村里の人として別君大人の名がみえる。

 三川之穂別……後の参河国宝飫郡を本拠としていた氏族。

 近淡海之ちかつおうみの安直やすのあたい……後の近江国野洲やす郡を本拠としていた氏族。景行天皇記に「近淡海之ちかつおうみのやすの国造くにのみやつこ」とみえるのは同氏とされる。

 三野国之本巢みのくにのもとすの国造くにのみやつこ……後の美濃国本巣郡美濃郷(岐阜県本巣郡糸貫町見延)を本拠とした氏族。景行天皇記は三野国造、景行天皇紀四年二月条は美濃国造とする。『国造本紀』は三野前国造とし「春日率川(開化天皇)朝に、皇子の彦坐王の子八爪命国造を賜わる」とある。

 長幡部連ながはたべのむらじ……常陸国久慈郡長幡部にちなむ氏族とする説がある一方、『姓氏録』坂上大宿禰条逸文に長幡部がみえる。

 吉備品遅きびのほむちのきみ……備後国に品治郡(広島県芦品郡)があり、この地にちなむ氏族というが、実は吉備に設定された品遅部の伴造氏族とされる。仁徳天皇紀四十年二月条に吉備品遅部雄鯽おぶなという人名がみえ、『三代実録』貞観六(七三四)年に備後国品治郡の人としてほむちの公宮きみみやの名がみえる。

 針間阿宗はりまのあそのきみ……後の播磨国揖保郡大宅郷阿宗(兵庫県揖保郡太子町阿曾)を本拠としていた氏族。

 多遅摩たじまの国造くにのみやつこ……『国造本紀』但遅麻国造条に「志賀高穴穂(成務天皇)朝の御世に、竹野君と同祖である、彦坐王の五世孫船穂足尼ふなほのすくねを国造に定め賜わる」とある。『播磨風土記』餝磨郡安相里に但馬国造阿胡尼命の名がみえる。日下部家譜大綱(田道魔国造日下部足尼家譜大綱)に日子坐王命の子孫に船穂足尼をあげ、その尻付に「高穴穂朝に但遅麻国造に任命される」、日下部家譜(多遅摩国造日下部宿禰家譜)に日子坐王の子孫に赤淵足尼をあげ、その尻付に「山背筒城(継体天皇)朝廷に但馬国造に任命」とあり、多遅摩国造は、後に日下部宿禰の氏姓を称したことが察せられるとされる。また一方で、『天孫本紀』に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の六世孫、建田背命条にも「神服連と海部直と丹波国造と但馬国造等の先祖」とあり、また粟鹿大神元記に伊佐那伎命の子孫に神部直速日をあげ、その譜文に「磯香高穴穂宮御宇稚足彦(成務)天皇の御世、……また但馬国国造に定められる」および速日の子、神部直忍の譜文に「磐余稚桜宮御宇息長大足姫天皇(神功皇后)の御世、……但馬国造(止)奉仕するとして定め賜わる」とあって、記にみえる日子坐王の子孫、大多牟坂王系とは異なる饒速日尊系と伊佐那伎系の二系の丹遅摩(但馬)国造についての所伝がある。日子坐王の子孫、大多牟坂王系は養父地方、伊佐那伎命系は朝来地方の国造であって、ともに後世、但馬国造を誇張したという推測 (18)が妥当とされ、饒速日尊系の但馬国造については未詳とされている。

 道守ちもりのおみ……道守という地名によるのか道守部の伴造の名に由来するのか未詳。天武天皇十三年十一月に朝臣姓となる。『姓氏録』左京皇別に「道守朝臣、開化天皇皇子武豊葉列別命たけとよはづらわけのみこと之後也」、右京皇別に「道守臣、道守朝臣同祖、豊葉頬別命とよはづらわけのみこと之後也」、山城皇別に「道守臣、道守朝臣同祖、武波都良和気命たけはづらわけのみこと之後也」、摂津皇別に「道守臣、道守朝臣同祖、武葉列別命之後也」とある。大宝二(七〇二)年御野みのの国本簀くにもとすぐん栗栖太里戸籍に道守・道守部の人名が多くみえ、かつての道守部の分布がうかがえるという。

 おし海部造ぬみべのみやつこ……後の大和国忍海郡の地名にゆかるという説が一般的であるが、令制の雑工品部の前身である忍海部の伴造氏族とするのがよいとされる。清寧天皇紀二年十一月条にみえる播磨国赤石郡縮見屯倉首の忍海部造細目は同族とされる。天武天皇十年四月・同十二年九月、連姓となる。

 御名部造みなべのみやつこ……天智天皇の皇女に御名部皇女がいる。皇女の乳母は御名部造氏の一族とされる。

 稲羽いなばのおし海部ぬみべ……稲羽は因幡。忍海部の分布は河内・下総・近江・但馬・播磨・備前の諸国。因幡にも忍海部は設置され、この氏はその伴造氏族と推定される。

 丹波之たんばの竹野たかののわけ……丹波の竹野は後の丹後国竹野郡竹野郷(京都府竹野郡丹後町竹野)の地。『国造本紀』但遅麻国造条にみえる竹野たかののきみは竹野別の後裔とされる。丹波国造海部直等氏本記のたけ諸隅もろすみのみことの譜文に「稚日本根子大日日(開化)天皇の御宇みよに、丹波国たんばのくに内を丹波郡たんばぐん余社郡よさぐんに割り、竹野姫の屯倉みやけつまり王権の私有地を定めた。この時に建諸隅命等はこの地の経営で奉仕した。故にまたの名を竹野別といわれる」とあるように竹野別のことが見える。

 依網之阿毗よさみのあび……後の河内国かわちのくに丹比郡たじひぐん依羅郷よさみごう(大阪府松原市)および摂津国住吉郡大羅せっつのくにすみよしぐんおおよさみの地を本拠とした氏族。神功皇摂政前紀(仲哀天皇九年九月)に依網吾彦よさみのあびこ男垂見おとこたるみの人名、仁徳天皇紀四十三年九月条に依網屯倉よさみのみやけの阿弭古あびこのことがみえる。『続紀』天平勝宝二(七五〇)年八月条に摂津国住吉郡の人であるさみの我孫あびこおし麻呂まろ等が依羅宿禰の姓を賜わったことがみえ、『姓氏録』摂津皇別に「依羅宿禰よさみのすくねは、日下部宿禰くさかべのすくねと同祖の彦坐命ひこましますのみことの後裔」とある。


第九節……「おわりに」

 以上前節にかけて、いわゆる欠史八代天皇から派生したとされる諸氏族の概要を羅列してきた。そのように羅列してきた中で、それらの氏族の中には天武天皇十三年十一月に朝臣姓を、同年十二月には宿禰姓を該当氏族に賜わったという記述があった。『紀』の該当記述は以下の通りである。


「    (前略)


十一月しもつき戊申朔つちのえさるのついたちに、大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣・膳臣・紀臣・波多臣・物部連・平群臣・雀部臣・中臣連・大宅臣・栗田臣・石川臣・櫻井臣・采女臣・田中臣・小墾田臣・穗積臣・山背臣・鴨君・小野臣・川邊臣・櫟井臣・柿本臣・輕部臣・若櫻部臣・岸田臣・高向臣・宍人臣・來目臣・犬上君・上毛野君・角臣・星川臣・多臣・胸方君・車持君・綾君・下道臣・伊賀臣・阿閉臣・林臣・波彌臣・下毛野君・佐味君・道守臣・大野君・坂本臣・池田君・玉手臣・笠臣、凡五十二氏に、姓を賜ひて朝臣と曰ふ。


(中略)


十二月しはす戊寅朔己卯つちのえとらのついたちつちとのうのひに、大伴連・佐伯連・阿曇連・忌 部連・尾張連・倉連・中臣酒人連・土師連・掃部

連・境部連・櫻井田部連・伊福部連・巫部連・忍壁連・草壁連・三宅連・兒部連・手繦丹比連・靫丹比連・漆部連・大湯人連・若湯人連・弓削連・神服部連・額田部連・津守連・縣犬養連・稚犬養連・玉祖連・新田部連・倭文連(倭文此云之頭於利)・氷連・凡海連・山部連・矢集連・狹井連・ 爪工連・阿刀連・茨田連・田目連・少子部連・菟道連・小治田連・猪使連・海犬養連・間人連・舂米連・美濃矢集連・諸會臣・布留連、五十氏に姓を賜ひて宿禰と曰ふ。


(後略)                                    」


 さて、欠史八代から派生したとされる諸氏族を通観すると、初代神武天皇皇子の神八井耳命から派生した多臣氏等諸氏族と五代孝昭天皇皇子天足彦国押人命から派生したとされる和珥臣氏・春日臣氏の諸氏族のように、大和国を中心とした畿内各所に本拠とする氏族もある一方、道奥石城・伊余(伊予)国造と火(肥)君・阿蘇君そして牟耶臣等のように畿外の氏族も存在する。それは七代孝霊天皇の皇子彦五十狭芹彦ひこいさせりびこ命のみことと稚武彦命から派生したとされる諸氏族については吉備地域つまり今日の岡山県周辺と播磨つまり兵庫県の瀬戸内海側の山陽地域を本拠とした氏族も存在する。

 それ以外の氏族については、大概畿内地域にとどまっている氏族であり、畿外だとしても北陸、東海と但馬そして丹波地域までである。

 このように、諸氏族の本拠としたとされる地域を通観してみると、畿内大和国を中心として東は道奥石城国造つまり今日の福島県まで、西は阿蘇君といって今日の熊本県阿蘇地域までの範囲で、神武天皇と欠史八代の皇子の子孫等ヤマト王権の版図拡大と並行して日本列島に散らばったと考えられよう。

 これに関連して太田亮氏は、後世の仮託や仮冒かぼうつまり政治・経済的な事情から土着氏族の祖先系譜を上級氏族及び大和国本拠の氏族につなげたまたはつなげられたもの、いわゆる擬制的系譜も含まれている可能性についても言及していた。

 しかし一方で、太田氏は擬制的系譜があるからといって氏族系譜伝承は、古代日本研究の史料に値しないと述べているのではない。

 それは「(前略)後世のものの如く大部分假(「仮」の旧字)冒としても、その系を冒おかすというには何等かの根據がなければならない。わかりやすくするため、後世の例にていえば伊勢豪族に平氏が多いということは、かつて平氏が伊勢に栄えていた影響をみねばならぬ(中略)それが全部似非えせ系図としても、赤松氏が播磨において、越智氏が伊豫において、土岐氏が美濃において盛んであった事情は争うべからざる事実である。何の縁故も泣きにその氏を冒したという例はほとんど見るを得ないであろう。(中略)従って氏族分布によって、ある系統がその地方と何等かの関係をもっているからと考えねばならない」(19)として、擬制的系譜は上位の氏族が土着の下位氏族を制圧・支配し、下位の系譜を何等かの圧力で自分たちの系譜につなげさせるか、下位の氏族が自分の系譜を上位の氏族に請い願って系譜につなげさせてもらうことがあってもそれらの逆はありえないということである。山田英雄氏も欠史八代の系譜伝承について、擬制的系譜の可能性も示唆しつつ当該系譜伝承を研究で切り捨てることは「無謀」(20)であると述べていた。

 いずれにせよ筆者は、神武天皇と欠史八代から派生したとされる諸氏族を含めた系譜伝承は、ヤマト王権の発展を研究していくための史料になると認識せざるをえない。

 ところで擬制的系譜伝承について、下位の氏族が上位の氏族の勢力下・影響下に入り、下位の土着豪族が自分の祖先系譜をつながれたり、下位の氏族が上位の氏族に請い願って自分の祖先系譜をつなげてもらっていた経緯があったと考えた方が妥当だと述べた。つながれたまたはつなげてもらった上位の氏族の系譜伝承があるということは、その氏族を枝葉として、幹に相当する祖先伝承に辿り着くということになる。それらの幹として辿り着き集約される祖先伝承が初代神武天皇と欠史八代系譜伝承である。

 戦後、初代神武天皇から九代開化天皇までの系譜伝承は七・八世紀に創作つまり後世の造作であることが常識になったが、当該歴代天皇から派生したとされる諸氏族の膨大さ、固有名詞の多さと諸氏族の本拠の地名から見て、七・八世紀になって創作できるものであろうか。

 確かに後世の造作論に立つならば、七・八世紀に生存していた諸氏族が、自己の出生を飾るために集団で共謀して捏造したものであるという説も出てくるであろう。

 しかしながら、『記紀』の神武天皇及び欠史八代から派生した氏族の各代毎ごとの分布をみてみると、派生氏族の数に偏りがあることがわかる。もし捏造・後世の造作ならば、各代で均等に振り分けて記載されていなければならない。そうではなく三代安寧天皇の氏族数一桁や八・九代の孝元・開化各天皇派生氏族数二桁のように各代で偏りがあるのは、記載されている諸氏族が史実として持っていた古伝を集めたうえで編纂されたものだとかんがえることが妥当であろう。

 ともかく、系譜伝承内の派生氏族からもヤマト王権の発展の経緯を見ることができる可能性を述べて本章を終える。



(1)……青木和夫、石母田正、小林芳規、佐伯有清『古事記 日本思想体系(一)』岩波書店 昭和五十七(1982)年。補注は同書三〇五頁から始まる。

(2)……坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋『日本書紀(一)岩波文庫』岩波書店 平成六(一九九四)年。

(3)……)現代語訳で活用した辞書は『角川新字源 改訂版』(小川環樹、西田太一郎、赤塚忠編)角川学芸出版、平成二十二(二〇一〇)年

(4)……『姓氏録』原文では「多朝臣同祖。神八井耳命男、彦八井耳命之後也。日本紀漏」と記されている。ここから、田中氏は『記』の日子八井命と彦八井耳命を同一人物とし、「神武→神八井耳命→彦八井耳命」という世代の区切り方をしている(「新撰姓氏録における皇別の系譜」『田中卓著作集第六巻 新撰姓氏録の研究』国書刊行会一九九六(平成八)年

(5)……現代語訳引用は宇治谷孟全訳『日本書紀(上)全現代語訳(講談社学術文庫)』講談社 一九八八(昭和六十三)年

(6)……(5)に同じ。

(7)……これ以外にも『異本阿蘇家系図』があるが、いずれも『田中卓著作集 日本国家の成立と諸氏族』に掲載等されている。

(8)……引用書き下し文は倉野憲司校注『古事記(岩波文庫)』岩波書店 一九六三(昭和三十八)年

(9)……現代語訳引用は次田真幸全訳注『古事記(中)(講談社学術文庫)』講談社 一九八〇(昭和五十五)年

(10)……二社の記述は『姓氏家系大辞典 第三巻』(太田亮、角川書店、昭和三十八(一九六三)年)「和邇臣」の項目より。

(11)……加藤謙吉『ワニ氏の研究 日本古代氏族研究叢書③』雄山閣 二〇一三(平成二十五)年

(12)……加藤氏によると、駿河浅間神社旧蔵とされる系図で、「太田亮が『姓氏家系大辞典』で紹介されたものである」という。また史料的価値は高いという。

(13)……大彦命からの派生氏族は『日本書紀(一)岩波文庫』二六九頁の注を参考とした。

(14)……本章の『紀氏家牒』本文は田中卓「『紀氏家牒』について」を参照した。『日本国家の成立と諸氏族 田中卓著作集第二巻』 国書刊行会 一九八六(昭和六十一)年所収

(15)(16)……(5)に同じ。

(17)……本章の『粟鹿大神元記』本文は田中卓「翻刻『粟鹿大神元記』」を参照した。『日本国家の成立と諸氏族 田中卓著作集第二巻』 国書刊行会 一九八六(昭和六十一)年所収

(18)……田中卓「一古代氏族の系譜(ミワ支族の移住と隆替)」『田中卓著作集第二巻 日本国家の成立と諸氏族』一九八六(昭和六十一)年

(19)……太田亮第三編「氏族分布の研究」第一章「緒論」『日本古代史新研究』磯部甲陽堂一九二八(昭和三)年

(20)……山田英雄『日本書紀の世界(講談社学術文庫)』講談社 平成二十六(二〇一四)年

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