千鶴の血筋

 所司代の手勢が、火矢を射込んだのか、蹴倒された行灯が燃え広がるのか、庄屋屋敷の母屋は、猛然たる紅蓮の炎に包まれていた。

 胴丸に身を鎧い、鉢金を締めた五人の兵が、霏々として降る火の粉の中、半円の陣を作って千鶴とすずを囲んだ。囲まれた方は、土壇場にあっても、意外に泰然とした外見で、脇差と短刀を構えている。その気組みを見て、兵士達は容易に斬り込めずにいる。

 人間、死に身になると、却って落ち着くものだと云う。しかし、この場合、千鶴の方は、冷汗三斗、満身に這いずり回る怖気を抑えるのに必死であった。忍びと血戦したとはいえ、命を磨り減らし合う剣戟に関しては、素人なのである。火光を帯びた敵の皎刀こうとうに、千鶴は、命まで吸われている気がした。


 敵の一人が、斬り掛かった。すずは、地を蹴った。入れ違った。敵の喉に、長い針が突き刺さっている。そのまま、斃れた。手練れの技に、他の兵達は言葉を失った。

 敵の寸隙を見、千鶴も、跳んだ。敵の首筋。無我夢中で、切っ先を伸ばす。届いた。斬り下げた。頸動脈を切られた敵は、血飛沫と共に崩れた。

 千鶴の身体が泳いだ。右に敵。斬り込んできた。千鶴は、爪先に力を込めた。躱した。小袖の裾を切られた。敵が更に突き込んできた。後ろには、別の敵がいる。下がれない。刃を翳した。鏘然しょうぜんとして火花が舞った。

 

 「あッ」と、千鶴は思わず叫んだ。男、それも武士の膂力は、矢張り優れている。千鶴に、それを受け流す技術はない。右手に痺れ。それを感じた瞬間、彼女は下腹部を蹴られた。

 地面を転がった。伊織が、木の陰にいる。目が合った。逃げろ。そう叫んだつもりだったが、声が出ない。敵が一人、伊織に近付いていく。すずが、彼らの前に着地した。

 逆手に構えた短刀に、敵は進めずにいる。千鶴は、結んだ髪を掴まれた。


「その方! この小娘が大事なら、変な気は起こさぬが良いぞ」

「千鶴様っ」


 すずは、歯噛みし、後ずさりした。千鶴は、痛みを堪えて伊織を見た。火の粉が降り注ぐ中、彼はじっと彼女を見ていた。その目が、キラリと光ったように、千鶴は感じた。

 一颯の狂風が起こった。猛炎に基する熱風であろうか。火の粉は渦を巻き、悽愴な空気となった。

 不意に、火で脆くなった母屋の柱が、猛烈な風で折れた。縁側の屋根が、近くにいた一人を下敷きにした。鬼瓦が飛び、千鶴を押さえていた男の背中を打った。転瞬、千鶴は彼を裏拳で打った。手を脱した。脇差を拾った。身体を廻す。勢いそのまま、男の喉仏を斬り裂いた。

 

 すずが即座に短刀を投げた。彼女の前にいた敵の、胸に突き刺さった。間髪の出来事に、最後の一人は愕然としていた。

 その時、表門が俄に騒然となった。助勢が駆け付けて来たのだ。すずは、鮎のような機敏さで敵の一人の顳顬こめかみを蹴り、両親指を細引で縛った。千鶴も咳込みながら伊織の側に寄った。

 母屋の左右から、敵が数十名もやって来た。小さな枯山水の庭は、忽ち黄泉路の入り口のようになった。


 真っ黒な煙の充満する中、彼らは立ち竦んだ。目的の少年はいたが、味方の一人が、首に短刀を擬され、女に捕まっているのだ。周りには、四つも死体が転がっていた。

 兵士達は、一斉に穂先を揃えた。閃々と、低く、刃光ひかりが流れる。すずは、片手で男を押さえつつ、それを睨んだ。懐に手を入れ、機を窺った。


「最早、逃れる術はない。諦めよ。女は殺さぬ」


 居並んだ敵の中から、声がした。勿論、謀りである。千鶴もすずも、応えを返さない。武者共が、近付いて来る。穂先も、密集していた。

 千鶴は、生唾を飲んだ。すずの方に目をやると、彼女は瞬きを忘れ、眉宇を嶮にしていた。


 一同が固まった。その時、すずが懐から何か投じた。小さな玉である。それは、地面に落ちたと同時に、轟然と炸裂し、濛々たる白煙を起こした。武者達が、一斉に間抜けな尖叫を上げた。

 同時に、白煙の向こうから人影が飛びだしてきた。見る間にその者は、蝟集した武者達の乱刃に晒され、膾斬りにされてしまった。だが、よく見れば、すずに拘束されていた男である。


「しまった!」


 誰かが叫んだ。彼らは味方の死体を捨て、てんでに刀槍を払ったが、いたずらに味方を傷付けるのみであった。

 千鶴達は既に、間隙を縫い、裏木戸を蹴破って逃散していた。煙の漸く薄れた頃には、彼女達の姿は消えていた。


 ――眼を瞑り、伊織を抱え上げ、すずに先導されるまま、千鶴は、一目散に足を飛ばした。何処を見ても、悉く、魔火か、そこに躍る悪鬼のような敵だけである。

 颯々とした熱風が、身体中を苛む中、憐れな三人は、紅蓮の混乱から逃げ惑った。

 後も見ず、どれくらい駆けただろうか。すずに呼び掛けられて眼を開けると、そこは薄暗い山中であった。顔を上げると、猛烈に焼け爛れる村が、彼方に見えた。千鶴達の村は、一夜にして殲滅された。


 千鶴は暫く、立ち上がれずにいた。数日前までの天地とは、残虐なまでに異なる相違に、脳がそれを理解出来ずにいたのだ。

 伊織が、暗澹としたままの彼女を心配し、声を掛けた。

 彼女は伊織の、短い純白の髪を撫でた。容姿が豹変しても、伊織は伊織のままであった。千鶴には、その健気さが却って、心苦しかった。


「千鶴様。お伝えしたいことがございます」


 すすが、傅いて言った。


「……」

「最早、隠し立てするのも詮無いことです。千鶴様の御母様のことでございます。まだ、生きておいでです」

「え?」

「御母様は、雪乃様と仰る方で杵築大社きずきたいしゃ (現・出雲大社)宮司の御息女にございます。御父上は、宮司の一族の者。千鶴様は、庄屋様と血縁がございません」

「……」

「村には代々、公儀の差し金で、杵築の血の入った者が、密かに送り込まれておりました。千鶴様も、拐かされました。偶々、それを養育したのが庄屋様だったのです」


 話だけなら、狂人の妄想である。だが、真剣な眼差しで話す様子を見、千鶴には、すずが冗談を言っているとは思えなかった。 


「どうして、公儀はそんなことを?」

「大坂落城の後、杵築の宮司が、徳川家に凄まじい怨恨を持つ霊共を咒封じゅふうしたからです。封印を解かんとする妖霊の力を抑えるため、一族の者を一人、常駐させるという密約も添えて。今まで差し出された者達は、外部の血が入っていたため、お参りは滞りなく行われましたが、千鶴様は一族の血が濃かったため、祠が反応しなかったのです」

「……」

「この度、護符の禁を破った後、行き場を無くした悪霊共は、それらの忌み嫌う血を持つ千鶴様と、お側にいたすずではなく、伊織様に取り憑きました」


 そこまで聞いて、千鶴は伊織を見た。彼は、手持ち無沙汰に座り、胸元に喰い込んだ漆黒の勾玉を触っていた。

 千鶴は彼を抱き締め、何度も「ごめんね」と呟いた。沈鬱な表情の姉に、伊織は戸惑いながら、


「何するんですか姉上。わたしは何ともありませんよ」

「でも……あたしの生まれの所為で、こんな姿に」

「わたしは構いませんよ。だって、姉上が一緒にいてくれるから。それに、本当に何処も悪くないですよ」


 などと言っている姉弟を見、すずは意を決した様子で、


「千鶴様。非常に乏しい希望ではございますが、聞いてくださいますか。伊織様を元に戻せるかもしれません」

「ど、どうやってっ。教えてっ」

「出雲国に参るのです。伊織様は幸い、悪霊共に身体を操られてはいないようですから、杵築大社へ参り、祓を願い出ます。藁に縋るようなものですが、これ以外に方法が思いつきません」

「……行こう。……出雲国へ行こう。伊織を助けられるなら、天竺へだって行く!」


 千鶴は確固たる決意を薪にし、燃えるような瞳で言った。すずは、拝跪したまま、


「微力ながら、すずもお供致します。すずは元々、忍びの家の者で、とある御恩から雪乃様にお願いし、千鶴様の御身をお守りする役割のため、下女として屋敷に入ったのです」

「すず……」

「千鶴様は即ち、雪乃様と同じでございます。すずは、身命を賭してでも、千鶴様と伊織様をお守り致します」

「有難う……有難う!」


 千鶴は、紅涙を潸々と流しながら、すずの手を取った。

 ―出雲! 

 西国にある土地の名は、千鶴にとって、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようにも思えた。

 彼女は、胸に微かな曙光が差したような気がした。それが、すぐに消えてしまうとも知らずに……。

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