狂乱の渦

 千鶴が眼を覚ますと、彼女は、薄暗くて狭い部屋にいた。窓はなく、瓦灯の暈光だけが、弱々しく、室内を照らしていた。音も無く、今の時刻も解らない。

 千鶴は身を動かそうとしたが、高手小手に縛められ、口には猿轡を噛まされている。伊織とすずの姿を捜したが、此処にはいないらしい。あれこれ考えていると、頭に疼痛を感じた。

 辺りに目をやると、古びた酒樽や漬物用の壺が乱雑に並べられ、少し離れた場所に階段がある。地下の穴蔵らしい。空気の廻りが悪いのか、視界が少々、霞むのであった。


 じっと座って、部屋の隅を見つめた。暫くして、千鶴は、今いる場所が、自分の家の穴蔵だと悟った。幼い頃、父親と喧嘩する度、此処で泣き腫らした。その度、すずがやって来て、優しく抱擁し、撫でてくれた。

 両親とは、ずっと啀み合っていた。童心から、生みの母親のことを聞く度に、醜悪なものを見るような目付きをされ、ひどく叱られた。いつしか、両親とは口も利かず、食事も共にしなくなった。

 木刀を振っている間は、寂寥の霧と心の塵は断ち切れた。しかし、技倆が冴えれば冴えるほど、浮世に戻ったときの懊悩は激しくなった。


「……」


 そして今、千鶴は瞑目し、何も考えないようにした。思い浮かんでくる全てのことを払拭しようとするが、伊織の顔が、自然と瞼に映ってくる。

 弟の安否を確認するまでは、死ねない。その決意が、千鶴の命を燃やす薪となっていた。


 ふと、地上に繋がる扉が開いた。トントンと、誰かが下りてくる。千鶴が眼を上げると、汚らしい弁慶縞の小袖を纏い、継の当たった千種の股引を佩いた男であった。

 男は濁った眸で千鶴を舐めるように見、彼女の前にしゃがみ込み、猿轡を解いた。柳眉を顰めた千鶴に、男は、


「生きているようだな」

「……何の用?」

「様子を見てこいと言われた。そうそう、お前さんの弟の処遇も決まったぞ。公儀に引渡すそうだ。魍魎を祀っていたなどと言い掛かりを付けられて、三条河原に村民の首が数珠つなぎになるより、そちらの方が良いということでな」


 その言葉に、千鶴は思わず瞠目し、立ち上がろうとした。男は、彼女を蹴飛ばし、羞悪な眼差しを注いだ。

 

「そう急くな。俺にもどういうことかは解らぬが、あの祠は公儀も長らく監視していたらしい。この村の地形も、あの祠を取り囲むようだった。それを崩してしまったのだから、異変の首魁である伊織を差し出すのは当然だろう」

「……」

「だが、俺ならお前と伊織を助けてやらんでもない。……お前が、俺のものになればな」


 千鶴が、はッとした瞬間、男の手が、胸に差し入れられた。面喰らった彼女は、相手を突き放そうとした。しかし、弟のことを盾に取られると、力が入らない。

 内腿を撫でられた。千鶴は、臓腑を吐き出したくなるような嫌悪を感じた。そこで彼女は初めて、この男が、今の妻を手籠めにし、孕ませた人間であることを思い出した。


 この時代、貧しい農村において、子供は貴重な労働力であるとみなされていた。女は、好いた相手でなくとも嫁入りさせられ、時には陵辱された。それで子供が生まれれば、一人では生きていけないので、夫の家の元で苦渋を強いられた。

 今、千鶴の目の前にいる男も、そういう風潮の元で、罪の意識すらなかった。身をよじる千鶴を抱き竦め、耳元で、


「暴れるな。どうせ、お前はまだ、生娘なのだろう。破瓜を三年も過ぎたのに。俺が、一人前の女にしてやる。丁度、今のに飽きて来た頃だ」

「やめてっ。触るなっ」

「弟がどうなっても、良いのか!」


 弟。魔法みたいな言葉に、千鶴は項垂れた。自分の身を差し出せば、伊織が助かるかもしれない。頭では、相手の戯言に過ぎないと解っていたが、藁にも縋る思いであった。

 内腿にあった男の手が、更に進んだ。裾が乱れ、腿の奥まで露わになる。千鶴は、羞恥と赫怒で身を震わせ、男はニヤリとした

 それを遮るように、上から「何をしている」と怒鳴り声がした。男は、舌打ちして千鶴を突き飛ばした。去り際、男は振り向き、思い出したように、


「そうそう。お前の処遇はどうなるか解らんが、あの下女は殺すことになったぞ。今頃、もう手に掛けられたかもしれん。ははは。命が惜しければ、考え直すことだな」

「すず……!」

「庄屋様は、子供ならまた作れば良いと仰っている。ま、期待せずに待つのだ」


 千鶴は、蘭瞼まなじりを裂き、男の背中を睨んだ。無情にも、扉は閉められ、元の孤独に戻った。


 ―黙って抱かれていれば良かった。

 そんな、気の狂ったような感情すら浮かんだ。すずが処断されるのならば、自分もだろう。そうなっては、伊織を救出することは、不可能である。

 千鶴は脛を露出したまま、亡者のように悄然とした。

 舌を噛んで、死のうとも考えた。それを遮るのは、鮮明に思い起こされる、伊織の顔であった。


 ――それから、どのくらいの時が経っただろう。食事はなく、水も差し入れられなかった。千鶴は縛り上げられたまま、憔悴しかけた感覚で二日経ったと推測した。

 偶に、様子を見に下りてくる者がいるが、声も掛けられない。もしかすると、衰弱死するのを待っているのかもしれない。

 ふと、千鶴のぼんやりとした意識を、呼び覚ます声が聞こえてきた。彼女が力無く首を上げると、線香のように細い煙が、扉の隙間から入って来ている。耳を澄ませば、荒々しい足音と、雄叫びもしていた。


 少しすると、穴蔵の扉が開いた。黒煙が一気に入り込み、それと一緒に、人が飛び降りて来た。


「すずっ」

「千鶴様、生きておいででしたか。良かった……」

「何が、何があったの? 伊織は?」

「すずにも、よく解りません。殺されそうになったところで、急に、軍勢が攻め寄せてきたのです。伊織様は此処の土蔵におられるのを見ました」


 言いつつ、すずは千鶴の縄を切りほどいた。千鶴は立ちくらみを起こしたが、すぐに持ち直し、すずの差し出した脇差を持って飛び出した。

 

 外は既に、地獄さながらの光景であった。


「祠の村にいる者を、憑かれた小童以外、一人も逃がすな」


 水野忠邦の密命を受けた所司代は、忽ち、その鏖殺令を実行した。子供を含めても、百余人しかいない小さな村へ、一千人の軍勢を送ったのだ。

 如何に泰平になれた侍でも、戦闘の専門家である。何の訓練も受けていない農民など、蟻が象に向かうようなものである。家々は火に包まれ、逃散する者達には、矢弾の雨が浴びせられた。

 攻囲軍は次第に、殺戮の輪を狭めていき、庄屋屋敷にも、既に迫っていた。


 千鶴とすずは、火の粉を浴びつつ、風雅な庭を駆け抜けて土蔵に向かった。二人が、土蔵の扉を開けると、奥の方で、伊織が怯えきった表情で座っている。

 姉を見ると、彼は泣きながら飛び付いて来た。その時、屋敷の表門が破られ、鎧武者の雪崩れ込む音がした。土蔵にも、すぐやって来るだろう。

 すずは、短刀を持ち、


「出奔します。伊織様を離さないで」


 短く言うと、土蔵の入り口の脇に、背中を付けた。千鶴は、伊織を抱きかかえたまま、それを見守った。

 一人の兵士が、入り口を覗き込んだ。瞬間、すずの短刀が煌めき、その者の首筋を仕留めた。それを合図に、千鶴も伊織の手を引いて駆けた。

 土蔵の前には、兵士が五人いた。こちらに背中を向け、与助に詰め寄っている。


「おい! 白髪の小僧は何処だ! 隠すとためにならんぞ」

「で、ですから、土蔵におります。……あッ! あれで、あれでございます」

「ほう? あれか。命令の通りじゃのう」

「へへへ。これで、儂の命を」


 ―助けてくださいますな。

 言い掛けたところで、与助の首は、下卑た表情のまま、宙に飛ばされた。そのまま、兵士達は抜き身の刀を下げ、千鶴達に近付いて来る。

 最早、戦うより他にない! 千鶴とすずは、覚悟を決めて、身構えた。

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