幕府、動く
祠の丘の中腹に差し掛かった頃には、既に空は、元通りの陰気な、寒々としたものに戻っていた。しかし、重苦しい雲に隠れ、月も、星もない。地上の家々から漏れる灯りだけが、唯一、化生を避け、この世にいると自覚できるものだった。
千鶴は黙然としたまま、蹲って微かに呻きだした。忍びとの戦いで、突き刺さった手裏剣の傷が、今更、鈍い痛みを引き起こしたのだ。加えて、余りにも理解困難な急変に、彼女の頭脳は惑乱していた。
すずは伊織を下ろして千鶴に近付き、彼女の傷を診た。千鶴の目には、相手の輪郭すら見えぬ闇なのに、すずには何ともないらしい。こんなに夜目が利くとは、千鶴も、二十年近く、気が付かなかった。
「骨には達しておりません。膿んでしまうといけませんから、血止めをします。お気を確かに」
「すず……。さっきの動きといい、あなた何者なの? さっきの連中は何?」
「今はそれより、伊織様のことを。動かないで。落ち着いてください。大丈夫、毒は塗られていなかったようですから」
千鶴を宥めつつ、手拭で彼女の腕に流れる血潮を拭き、すずは自分の帯を裂いた。千鶴の片肌を脱がせ、それを包帯代りに巻いてやる。
千鶴には、普段すずが見せる、栗鼠のように温和な顔付きが、今日の手際の良さからは想像もつかなかった。
手当てが済むと、千鶴達はまた歩き出した。やがて、麓に至ると、既に捕物のような提灯の群れが待ち構えていた。悍ましい地鳴りと赤い空は、村中を、安息から夜嵐の混乱に叩き込んだらしい。
上から見れば、黄色い塊のようになった群光の先頭にいたのは、この村の庄屋であった。千鶴と伊織の父親である。名を、与助という。
与助は、威圧感たっぷりに腕を組み、傲然と眉間に皺を寄せている。彼は、俯いている千鶴を見つけると、ツカツカと近付き、
「痴れ者!」
言うや否、その頬を手拳で打った。倒れ込んだ彼女の、結んだ髪を掴み上げ、更に殴った。千鶴は泣きもせず、顔を背けている。
伊織は、すずの背中から飛び降り、慌てて千鶴を庇った。与助は、彼の豹変した容貌を見、嘆かわしい顔をした。そして、忌々しげに千鶴を見下ろし、
「お前、あの祠がどういうものか知っているのかっ。普段、夜遅くまで遊び廻って、禄に役立たぬ能無しめ。嫁入りもせず、好き勝手なことをした挙句、村に災厄をもたらすとはっ」
「……」
「伊織の姿を見ろ。この先、どういう目に遭うか……。お前は、姉失格だ!」
如何に自分の所為だと自覚する千鶴でも、ここまで罵倒されれば充分だ。いきり立って、父親を睨み付けた。鬱積したものを、吐き出そうというのだ。
その形相に、思わず、周りの大人達もたじろぐ。
「何が姉失格だって……。あんな得体も知れない祠にお参り出来ないだけで、人のことを散々、魯鈍だの愚物だの言いやがって、あたしのことなんか、心配してくれた事もないくせにっ。今になって、父親面? ふざけないで!」
「何だとっ。小娘が生意気にっ」
また、与助が千鶴を打擲しようとした。
すると、伊織が「辞めろ」と、姉の前で腕を広げ、父親の前に立ちはだかった。灯りの下に顕身した、その純白の髪と紅い瞳をはっきりと見、与助の取り巻きはざわめいた。
魔魅と対峙したように、皆、二歩三歩、後ずさった。伊織は眦を裂き、なおも、立っている。すずは、ふと、勾玉が彼の胸元に喰い込み、黒々と変色しているのに気が付いた。
その時であった。姿勢を低くし、千鶴達の後ろに廻っていた三人がいた。与助は、彼らを見つけると目配せした。千鶴も、すずも前に気を取られ、その者達の接近を悟れなかった。
ヌッと延ばされた棍棒が、千鶴とすずの頭を打った。驚く暇もなく、二人の視界は揺らいだ。次の瞬間、十人ばかりが一斉に躍り掛かり、彼女達を、盲滅法に打ち据えた。
それを合図に、伊織も猿轡を噛まされ、縄を打たれて蓑虫みたいになった。意識を失った千鶴とすずも、同じく拘束され、三人とも、与助の下知で、何処かへ担がれていった。
村人達が去った後、闇の一角が微かに動いた。今まで気配すら漂わせなかった影は、音も無く、一目散に駆けた。漆黒の闇も相まって、素人目には、すぐ脇を通られても解らぬだろう。
その者は、喬木の下に着くと、素早く登り、鳩の足に何か結び付けた。そして、何事か念ずると、パッとそれを離した。小さな羽音を響かせながら、鳩は、不気味な夜空を、東へ向かって飛び去っていった。
――血のように真っ赤な月と赤黒い空は、遠く離れた江戸からでも見えた。八百八町に住まう百万の者達は、夜の喧噪も呑みも、いかがわしい遊びも忘れ、こぞって災禍の前触れだと噂し合った。
こういうとき、江戸っ子達は節操がない。普段は、神だの仏だの信仰しないくせに、我先に神田明神、浅草寺、太田媛神社……名だたる神社仏閣に参詣したり、沿道にひれ伏し、天に向かって諸手を合わせたりした。
そんなことで翌日になっても、町人も下級武士も、驚天動地の大騒ぎをしている。その最中、彼らを蔑視しながら駕籠に揺られる者がいた。駕籠は、彼を乗せたまま、外神田、鎌倉河岸を通り抜け、辰ノ口和田倉門に入った。
やがて、駕籠から姿を現わしたのは、時の老中首座、水野忠邦であった。彼は異変を受けて急遽、柳営に召されたのだ。
御用部屋に入ると、楓の間から、将軍・徳川家慶の命を帯びた小姓頭がやって来た。
「上様からお取り次ぎでございます。御家の伝承は存じておろう。至急、先の空の異変を調査し、原因を突き止めるように。口外無用だが、非常火急の場合においては、老中の一存において、これを処置すべし。そのためには、如何なる犠牲を払えど、これを咎めず――と」
「慎んでお受け致します。上様には御心を安んじてくださるよう、お伝え願い申す」
小姓頭が去ると、水野は、御用部屋から出て、外廊下に出た。手を叩いた。すると、無言で庭に誰かが現れた。御庭番である。
水野は縁台の上から、
「良いか。京都所司代に、至急、例の村へ密かに手勢を差し向けるように儂の命を伝えよ。だが、一つ。あの祠の魂に憑かれた者がいたら、逃しても殺してもならん。今さっき、監視役から手紙が届いた。特徴はこれに記してある。伝承と同じだ」
「かしこまりましてございます」
「
「御意」
そう言うが早いか、男は姿を消した。
水野は無言でそれを見、御用部屋へ戻っていった。
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