異変

 何処か遠くの空で、小鳥が囀っている。足元では、名も知らぬ虫が啼いていた。颯然と吹いた風が、静寂の中に土煙を上げさせた。

 この村の、夜の足は早い。畑で働いていた者達は、既に殆ど家に入り、僅かに、後片付けをする者だけが遠くにいる。家々の窓から漏れる短檠の灯りが、蛍のようにも見えた。

 千鶴は、もう黄昏時くらいの明るさになった道を、伊織の手を取って歩いた。その間、彼女は、痴呆症患者みたいに空を見、彼方に飛び交う、黒染みのような群鴉に思いを馳せていた。


 ―輪廻があるなら、人間は、もう良いかな。

 千鶴は、孤月のように端麗な顔に諦観をこめて、そんなことを考えた。郷里に居場所もなく、跼蹐する娘の、唯一の望みであった。

 この時代、希死念慮という言葉は、まだ存在しなかった。しかし、そんな按配が、長らく、千鶴の抱いていた気持ちであろう。


「姉上?」


 自分の手を握る伊織の声に、千鶴は、はッとした。何度か呼び掛けたのか、稚いな双眸に、憂虞の色を宿している。幼子特有の、鋭敏な感覚は、姉への哀憐の情を覚えたらしい。

 千鶴は、それに対し、努めて明るく笑って返した。

 

「なんでもないよ。お腹減ったなあって思っただけ」

「本当ですか? 何だか、凄く悲しそうな眼をしてました。浅慮に走らないでくださいね。去年、命を絶った人と、同じ眼でした」

「伊織に心配されるんじゃ、あたしもお終いだ。つまらない雨夜の月みたいなこと考えないの。……あら、まだまだ軽いね」


 千鶴は伊織を抱き上げ、頬ずりしてやった。伊織は、少々驚いた様子だったが、すぐに純朴な笑みを見せた。

 今の彼女にとって、弟の存在だけが、命を絶たない理由であった。


 ――程なくして、千鶴と、彼女に手を引かれてきた伊織は、祠のある丘に辿り着いた。黄昏時にもなると、村の中でも一際、不気味になる。千鶴には、丘自体が、大きな墓標にも感じられた。

 姉弟は押し黙ったまま、八百の石段を登り始めた。空気が、妙に生暖かい。虫の羽音も、鳥の声も聞こえなくなった。頭上で、枝葉が怖ろしいざわめきを発している以外、音らしい音はない。

 黄昏時は、ある意味、深更より暗く、寂しい。隠微なものが、身体全体を包んでくる。軽い熱風邪に魘されているときの、頭にもやが掛かったような感覚である。


 伊織が無言で、千鶴の細い腕に、自分の腕を絡めた。歩きづらいが、千鶴は、自分を頼ってくれる弟が、堪らなく愛おしかった。

 やがて、姉弟は石段を登り切った。開けた場所は、上に樅や松の枝葉がないので、祠を中心に明るかった。

 千鶴は、すぐに弟が落とした勾玉を見つけ、拾って首に掛けてやった。


 帰ろうという時に、伊織が、悚然とした様子で立ち止まった。千鶴は訝しげに、


「どうしたの? 小便なら、そこの茂みで」

「ち、違いますよっ。何か変です。誰かいます。誰か」

「え?」


 千鶴は、祠の方を見たが、誰もいない。気配もない。ただ、静寂が広がっている。

 理解出来ぬまま、彼女が一歩踏み出すと、祠が、轟然と爆発した。千鶴は、咄嗟に、伊織を身体で庇った。石礫が背中を打ち、砂礫が舞う。

 千鶴が立ち上がると、煙の向こうに、半壊した祠が見える。その向こうに、黒ずくめの男が立っていた。千鶴は、混乱しながらも、何とか口を開いた。


「あ、あんたは? 誰なの?」

「……」


 黒装束の男。無言だ。苦無で、斬りつけてきた。千鶴は、跳んだ。躱した。着地の前に、二撃目が来た。地を這うような斬撃が、膝をかすめる。

 千鶴は、更に下がった。闇に、何かが閃いた。手裏剣だ。三本ある。千鶴は、脇差で弾いた。一本、肩に刺さった。抜く暇もない。

 忍びが、駆け寄ってきた。千鶴は、それを蹴りつけた。同時に、刀を振って斬り捨てた。初めて、人を斬った。


さつ!」


 低い声音がした。いらえもなく、周りの闇が蠢いた。五人いる。いずれも、動きに隙が無い。


「伊織、隠れて!」


 千鶴が叫んだ瞬間、敵が、一斉に跳躍した。忍刀を持っている。千鶴は、地を転がった。刃が、髪をかすめた。手で地面を押す。跳ね上がる勢いで、一人を逆袈裟に斬り上げた。

 敵が、斬り込んできた。躱した。同時に、別の方向から敵が来る。戛然と剣を払うと、途端に敵は下がる。二太刀目が届かない。息つく間もなく、死角から斬りつけられる。

 眼前に敵。千鶴は後ろに跳んだ。切っ先が、半寸先を斬った。彼女の乳房が、僅かにでもあれば、斬り裂かれていた。攻撃を外した時点で、敵は下がった。


 囲繞され、体力を削られていく。一瞬でも気を抜けば、急所を抉られるだろう。じりじりと包囲が狭まる。千鶴は歯噛みして、紅唇を結んだ。

 一人が、樹上に上がった。上から、千鶴を刺そうとしている。しかし、その者は、不意に跳んできた影に、喉を斬られた。その影は、千鶴の後ろに素早く下りた。

 千鶴は、思わぬ協力者の登場に後ろを見、


「すず!」

「千鶴様、お怪我は?」

「大丈夫!」


 忍びの一人が、手裏剣を投げた。すずは、それを短刀で弾いた。同時に跳足して、宙返りする。敵の前に着地し、胸に短刀を突き刺した。

 すずは、忍刀を爪先で蹴り上げて掴み、片手正眼に構えた。明らかに手慣れた動作に、忍び共はたじろいだ。

 新たに三人現れた。躍ってきた敵と、すずは互角に渡り合う。忍びが一人、跳び退いた。手裏剣を構えている。すずが、小石を投げた。暗器の飛ぶ前に、小石は忍びの額を砕いた。


 千鶴は、すずに背中を任せ、目の前の一人と対峙した。この者が、他の忍びを指揮していた。巧妙に隠しているが、その眼光に、名状し難い凄味があった。

 敵が、何か懐から取りだした。鎖鎌だ。千鶴が青眼に構えた。相手も、鎖を回し始めた。

 分銅が、風を切る異様な音がする。千鶴は、射竦められたように動けなくなった。冷や汗が、背中を伝う。


 ひゅっと分銅が飛んできた。生き物のように宙を泳ぎ、鎖が、千鶴の右手首に絡みつく。頭目が、ニヤリと笑った。

 千鶴が、はッとした瞬間、彼女の視界は廻った。黒絹のような空と、そこに瞬く星々が、ゆっくりと、視界に映った。

 投げられた。そう感じた時、千鶴は、背中に強い衝撃を受けた。何かを崩壊させ、彼女は地面に叩きつけられた。


「うう……」


 千鶴は、痛みを堪えて、立ち上がった。彼女を投げた頭目は、彼女が昏倒していない事に、意外そうな目付きを見せた。

 すずが、遠くで四人目の忍びを斃した。それを見、頭目の忍びは指笛を吹き、黒い森に向かって姿を消した。周囲は、元の静謐に戻った。

 すずは、千鶴に駆け寄って肩を抱き、


「千鶴様っ」

「すず……。どうして此処に?」

「お帰りが遅いので、心当たりのある場所を、捜しに参ったのです。申し訳ありません。すずが、しっかりしていないばかりに……」

「そう……伊織はっ?」


 千鶴は、慌てて周囲を見廻した。伊織は、木の陰で震えていた。

 弟の無事に、千鶴が、安堵の笑みを浮かべて手招きすると、伊織は震えたまま、


「あ、あ、姉上、すず。後ろ、後ろに」

「え?」


 余りの怯えように、千鶴が後ろを見ると、全壊した祠が塞いでいたであろう、洞然たる穴から、冷々たる墨のような蒙気が立っていた。途端に、地軸が猛然と揺れ、百雷にも似た地鳴りを上げた。

 祠の丘全体が、雄叫びを上げているようだ。月が赤くなり、夜空が薄気味悪い色に染まった。

 そればかりではない。一筋の尾を引いた黒い霧は、少し漂うと、硬直した伊織に向かったのだ。


 凄まじい勢いだったので、その場にいた全員が、「あっ」と言ったのみだった。黒い霧は、伊織の身体を包み込んだ。遅れて、彼の苦悶の叫びが響いた。

 千鶴は動顛し、走り出そうとした。しかし、すずが、彼女の腕を掴んだ。


「離してよっ。伊織が、伊織が!」

「いけません! 近付くのは危険です!」

「すず!」


 千鶴は、すずを突き飛ばした。その時、伊織を包んでいた霧が消え、倒れ込んだ彼の身体が現れた。

 無我夢中で弟を抱き起こした千鶴は、駭然として言葉を失った。


「伊織……?」


 彼の髪の毛は、雪よりも白くなり、肌も仄白くなっていた。千鶴は何度か呼び掛けたが、応えはない。


 ―伊織が、死んだ。

 そう思い、彼女は紅涙を流した。すずが何か言っているが、耳に入らなかった。たった一人の弟を、死なせてしまったという後悔しか、頭になかった。

 千鶴の涙が、伊織の頬に落ちた。すると、


「……上?」

「……」

「姉上……どうしたのですか?」


 信じられない声に、千鶴が眼を開けると、伊織が、不思議そうな表情をしている。しかし、そのつぶらな瞳は、鮮血のように紅かった。

 伊織が平然としているのを見、すずは、


「い、伊織様。何ともないのですか?」

「わたしは大丈夫だよ。さっきの黒いものは、何処に行ったの?」

「そ、それは……。とにかく、一度屋敷に帰りましょう。先程の忍びのことも、祠が破壊されたことも庄屋様に報告しなくては。場合によっては、この村を出なくてはいけません」


 早口で言うと、すずは伊織を背負った。千鶴も痛む背中を押さえながら、彼女に付いて歩き出した。

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