穀潰しの娘
伊織が、初めての参拝を済ませてから数刻経った。
おどろおどろしい朝とは打って変わって、この村も昼間になれば、他の村と変わらない。百姓は畑仕事に、女達は内職に精を出していた。
庄屋屋敷の中でも、すずと庄屋の妻が、忙しなく働いていた。屋敷中の掃除に洗濯、庄屋の家族に振る舞う食事の支度などである。他に奉公人はいないので、母娘が、一緒に働いているようであった。
家の仕事が落ち着くと、すずは、伊織の学問の相手をする。この時間だけ、彼女は、普段の温和さを封印し、厳しい師と化す。
曇天の隙間から、昼下がりの鈍い光が、部屋に差し込む中、すずと伊織は、卓を挟んで対峙していた。外は寒いが、火鉢があるので部屋の中は別世界のように温かい。
伊織は、何度も姿勢を変えたり筆を持ち直したりし、目の前のすずを見、
「すず、少し休憩しましょうよ」
「いけません。先程、休んだばかりです」
「朝早かったから眠いです……。それはそうと、姉上は、いずこに?」
「退屈と仰って、朝餉の後からお出掛けになりました。本当でしたら、此処で書見して頂きたいものですが」
すずは溜息混じりに言った。
伊織は、上体を反らし、大きく伸びをしながら、後ろにある灰色の空を見上げた。いつの間にか、暗雲も見え始めている。
驟雨になりそうだ。伊織は、姉のことを心配しながら、そう思った。
庄屋屋敷の門から、東に四半刻行った場所に草叢がある。村を見下ろす山へ続く森の入り口で、人間の腰くらいの草が、渺々と広がっていた。
そこの一角から、戛々と、乾いた音が幾度となく響いていた。千鶴が、地面に刺した太い丸太へ、一心不乱に、木剣の打ち込みをしているのだ。
凛烈な風が、肌を刺すほどの寒さなのに、彼女は小袖の裾をからげ、引き締まった脛を露出させていた。ガツンと丸太にぶつかる度、火が出るばかりに、木剣の勢いは凄まじい。結んだ髪が揺れる度、汗の雫が虚空を舞った。
やがて、千鶴は、珠の汗を淋漓と流し、仰向けに倒れた。しかし、身体を上げる気も起きぬまま、茫然と、灰雲の
疲れ切った頬を撫でる雑草や、そよ風が奏でる静かな葉擦れの音を感じるこの時間が、唯一、千鶴が心穏やかになれる無想境の時間だった。
庄屋の娘として生まれながら、村の参拝の輪に入れられず、生まれの母は既に無い。村の何処にいても、村人達は敬譲を示してくれるが、それも形だけ。千鶴の敏感な頭脳は、『穀潰し』という蔑視の眼差しを感じていた。
「はぁ……」
それを考えると、ひどく、虚しい。家にいても外にいても、自分に不快な空気が、纏わり付いている。
最近では、父にも継母にも、顔を見せず口も利かない。顔をつきあわせれば、不肖の蒙昧娘だの、嫁入りもしない無為徒食だのと、舌を刃に変えたような罵詈を浴びせられ、心を細切れにされるからだ。
そんなことを考えていると、このまま消えても良い、などと思う。汗ではないものが、一筋、千鶴の顔を伝った。
――数刻後、伊織は漸く、今日の学問を終えた。少年は、筆を置くと、そのまま仰向けに寝そべった。障子の外は、既に暗い。
すずは、筆や散らばった紙を片付けながら、にっこりと微笑み、
「今日も、お疲れ様でした。だいぶ字も読めるようになったようで、すずも嬉しいですよ」
「毎日やっていますからね。でも、すずはなんで、色々知っているんですか?」
「下女の事情は、伊織様がお気になさることではありませんよ。それよりも、千鶴様が帰っていらっしゃっているかもしれませんよ」
「そうだっ。わたし、呼んできます」
伊織は勢い良く立ち上がり、廊下をドタドタと駆けて行った。彼が去った後、すずは、銀燻しのようにどんよりとした空を見つめながら、悲しそうな眼をし、
「ゆきのさま……」
自分にも聞こえぬような微かな声で、呟いた。
屋敷の母屋から、池を渡す外廊下を伝ったところにある離れが、姉弟の起居する場所である。少し大きな数寄屋くらいの建物には、姉弟それぞれの部屋しかない。
伊織は、自分と姉の部屋を分ける襖を開けた。しかし、暗く殺風景な部屋には、誰もいなかった。
「姉上? まだ帰ってないの?」
伊織は声を沈ませた。姉に、どうしても相談したいことがあった。
だが、彼は待つわけでもなかった。そのまま、下駄を引っ掛けて庭の松から塀を攀じ登った。姉が密かに出掛けるとき、いつも使う方法を、真似してみたのだ。
薄暗い道を小走りに、東へ向かった。
――西の山に隠れた陽光が、高い峰の上へ薄絹を被せたようになっている。
矢継ぎ早に悲観的な妄想をし、千鶴は、知らぬ間に微睡んでいた。それを断ったのは、囁くような声だった。彼女が起き上がると、伊織が腰を折った姿勢で前にいた。
「どうしたの?」
「姉上が此処にいらっしゃるだろうと思って来ました」
「ふうん。何か用事でもあったの?」
千鶴が尋ねると、伊織は神妙な顔付きで俯いた。弟のただならぬ様子に、千鶴が眉宇を顰めていると、
「実は……姉上から頂いた勾玉を、今朝、祠の所に忘れてきてしまったようなんです。わたしの部屋も探してみましたが、見つからなくて。でも、あそこに一人で行くのは、怖いです。一緒に来てください」
「何だ、そんなこと。勿論、良いよ。じゃあ、真っ暗にならない内に行こうか」
千鶴は、弟の幼気さに、思わず顔を綻ばせ、頭を撫でてやった。叱られるとばかり思っていた伊織は、無邪気な笑みを見せた。
彼女は、伊織の手を引き、またしても村はずれに向かっていった。丁度、同じ頃、祠のある丘で、黒い人影が、素早く動きだしていた。
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