千鶴と伊織

 千鶴は、口笛を吹きながら村はずれの丘に向かった。頭上を覆う未明の闇が、山の彼方の紫紺の空まで続いていた。みぞれは止んだが、風は、凍て付くばかりに冷たかった。

 千鶴は草履の裏で、地面を踏みしめながら、真っ暗闇を難なく歩いた。この村は四方を險山に囲まれて、鉢のようになった独特の地形である。村民が外界と行き来する道はあるが、その地形ゆえ、陽が山間から顔を出すのは遅く、没するのは早かった。

 今朝も、山の向こうが、仄かに紅くなっているのは解るが、村はまだ、帳を下ろしたように暗然とした闇夜である。もう馴れたものなので、千鶴は、いつもより少し濃い闇を、歯牙にも掛けなかった。


「うう……寒い。気が滅入るなぁ」


 千鶴は、一際強く吹いてきた、山の騒ぎを受けながらぼやいた。四方を山に閉ざされた地形からか、この村には絶えず、不気味な風が吹き荒れる。

 何かの叫びのようにも聞こえる風は、そこかしこの空気を散らし、不穏な影を残して去っていく。

 千鶴は、こういう風があまり好きではない。さしたる理由はないが、彼女の心の奥に韜晦とうかいする何かが、陰鬱な風を拒むのである。幼い頃は、風が強い日になると、火の付いたように号泣したこともあった。


 やがて、千鶴は、丘の麓に提灯が光っているのを見つけた。先に出掛けた伊織とであった。

 千鶴は、にっこりと爽快に笑ってみせ、


「いたいた。ごめんね二人とも、あたしも走ってきたんだけど」

「急いだっていう割には、口笛が此処まで聞こえてましたよ姉上。それに、息も上がっていない」

「む……。この歳にもなると、色々あるんだから。伊織には解らない」


 千鶴は無理やり話題を切り上げると、すずの方に向き直った。

 すずは柔らかく微笑み、血抜きをした鮠と酒を詰めた瓢箪の入った、小さな竹籠を千鶴に差し出した。

 千鶴は頭を掻きながら、


「あはは……ごめんね。本当だったら、あたしが用意しないといけないのに」

「お気になさらないでください。すずの勤めは庄屋様のお家のお手伝いですから。それよりも、お参りの手順、覚えていらっしゃいますか?」

「そりゃ、当然。手順だけは記憶してる。ま、あたしは落伍者だけどね」

「そんなこと仰らないでください。すずは、千鶴様が立派になられると信じていますよ」


 ―また始まったよ。

 すずが悲しそうな声で言うので、千鶴は思わず眉宇を顰めた。

 この下女は、千鶴や伊織が生まれた時から側におり、姉弟を守ることに努めてきた。千鶴が何か悪さをすると、自分が折檻されても彼女を庇おうとする。千鶴は、すずを気に入っているが、すずが、すず自身を傷付けてでも、千鶴を守ろうとする心が、殊に理解出来なかった。

 千鶴は、不機嫌そうに竹籠を受け取ると、伊織の手を引いて石段を登り始めた。


 ――石段は長くて、急勾配であった。それが八百段もあるので、大人でも一苦労である。

 千鶴と伊織の住む村には、奇妙な風習があった。村の中央に屹立する、丘の頂上の小さな祠に、家々が、年始めのくじ引きで順番を決め、日替わりで払暁に参拝するのだ。どんな神が祀られているのか、いつからお参りが始まったのかは、誰も知らない。誰も知らないが、誰も欠かさない。

 簡単な手順で供物を捧げるだけだが、なにぶん早朝のことである。しかし、何を差し置いても、祠の周りだけ、何故か、いつも燐光を放っていることが、担当者を暗鬱にした。


「姉上、どうしてこんなことするんですか?」

「昔から決まってるから、だって。お参りしないと、父上が煩いの」

「わたしは別に、厭だというわけではないですけど、気になります」

「さあね。あたしは全然上手くいかなかったから、興味もないや」


 などと、二人が退屈しのぎに話していると、不意に、轟々と木々がざわめいた。姉弟は、同時に硬直した。

 いつの間にか、石段の終わりに差し掛かっており、開けた場所の奥の方に、ぼんやりと光る石造りの古ぼけた祠が見えていた。流石に此処までくると、姉弟は沈黙した。

 千鶴は、冷凍されたようになってしまった伊織を促し、持ってきた供物を祠に捧げさせた。それが終わると、伊織は祠の前で、天から糸で吊られたように真っ直ぐ立った。


 三拝し、三拍手した。それから一礼した。それから、理解不能な詞を、紙を見ながら唱えだした。祓詞の一種らしい。

 その間、伊織の膝は震え、唇は乾ききっていた。物心ついた時から、暇さえあれば、


「祠を蔑ろにすれば怖ろしい災厄があるぞ」


 と、親だけでなく隣近所の連中からも、真剣な眼差しで言われていたからである。稚い少年には、少々荷が重い。彼は、首に下がる、姉から貰った勾玉をと握った。

 一方、千鶴は、手持ち無沙汰であった。今も、木に凭れ掛かり、つまらなそうに空を見上げている。

 やがて、異変が起きた。祠を中心に、狂風が立ち、竜巻のようになった。丘全体が唸り、旋風が闇を舞った。程なくして、それは静まった。


 伊織が、おろおろしながら後ろを振り向くと、千鶴は破顔し、


「なんだ、成功じゃん! やっぱり、あたしとは違うね」

「そうなんですか?」

「うんうんっ。良かった。これで胸張って帰れるっ」


 千鶴は、目を白黒させる弟の肩を押し、石段を下り始めた。後にはただ、静寂のみが残った。ただ一つ、木々の向こうで僅かに動いた影を除いてだが。


 ――帰路、石段を下りながら、伊織は上機嫌な姉に、


「そう言えば姉上。姉上はどうしてお参りしないのですか?」

「しないんじゃなくて、出来ない。あたしは落伍者だから」

「どういうことですか?」


 千鶴は、誤魔化す必要も無いので、弟の疑問に答えてやることにした。


 千鶴も村のしきたり通り、六歳になると参拝を始めた。物覚えは良い方なので、前日に一度言われただけの作法を、滞りなくこなした。

 だが、何度試しても、さっきの異変が起こらなかった。手順は間違っていないのに、成功しないのだ。結局、千鶴は参拝の人員から外された。

 すずは、励ましてくれた。しかし、村の外から来た千鶴の母は、彼女を産んですぐ死んだので、彼女は何処か、疎外感を覚えていた。事実、十九歳になった今でも、嫁にしたいという男はいない。


「どうせ皆、落伍者なんか、死んでも良いからね。むしろ自由で結構」


 と、空元気たっぷりに言ってのける姉の姿を、伊織は不憫そうに見つめていた。


 丘の中腹辺りまで来ると、不意に、石段の脇の鬱蒼とした木々から、野犬が三匹、飛び出してきた。

 「姉上っ」と伊織が、千鶴の袖を掴んだ。千鶴は、野犬共を、猫のように鋭い眼で牽制し、


「下がってて」


 と、伊織を後ろにやった。

 涎を垂らしながら、野犬共が、躙り寄った。千鶴は、脇差一尺八寸の鯉口を切り、動かない。時間が、ゆっくりと過ぎる。


 野犬が一匹、跳んだ。千鶴に、迫る。千鶴が、腰を落とす。虚空に刃が光った。彼女の後ろに落ちた野犬は、腹を斬られて死んでいた。

 千鶴は、抜き身の脇差を下げ、残りと対峙した。まだ、二匹。隙を窺っている。相手の眼。攻撃の予兆は、そこに宿る。千鶴は、身構えた。

 瞬間、千鶴が、地を蹴った。二匹の間。着地した。刀を振った。不意の攻撃で、野犬には隙があった。一匹、斬った。

 一匹、逃した。伊織に向かっている。千鶴は、駆けた。間に合わない。伊織を、身体で庇う。野犬の爪が、肩をかすめた。だが、彼女は怯まずに、最後の一匹を斬り捨てた。


 千鶴が、大きな息を一つすると、伊織が彼女の袖を掴んで震えながら、


「姉上っ」

「伊織、怪我はない?」

「わたしは大丈夫です……あ、姉上、肩から血が」

「伊織さえ無事なら大丈夫。さ、帰ろう。お腹空いたっ」


 伊織は、千鶴の剣の腕前に、いたく感心したらしく、


「姉上、いつの間に、あんな腕前に?」

「どうせ暇だから。真夜中に走りこんだり、山の中で稽古してたりしたんだ。どうせ、いつかこんな村からは出て行くんだし。身を守る術くらい、覚えといても良いでしょ」

「え⁉ 出て行くって、なんで。ずっと暮らさないんですか」

「男勝りの、行かず後家に居場所はない。どうせ、家は伊織が継ぐんだし」


 千鶴は恬淡と言ってのけたが、伊織は衝撃の余り、暫く口も利けずにいた。

 放埒で気儘に日々を過ごしているように見えた姉の、意外な葛藤。それを聞いた伊織には、彼女の背中が、何処か悄然としているように感じられた。

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