祠、壊しました(仮題)
洋麺
丹波の村
風に、みぞれが混じっていた。もう弥生も半ばを過ぎた頃だが、丹波の盆地はまだまだ寒い。彼方の空高くに、月暈ばかりが
動物も虫も人間もみな、真っ暗な山中を蕭々と吹き抜ける寒風を避け、各々のねぐらで身を休めていた。山腹をうねる杣道が、白く、ひっそりと浮いていて、これは、この蕭殺とした夜の、明るいが寂しい眺めであった。
侘しい山には、誰も、足を踏み入れぬままかと思われた。ところが、不意に、嶮しい山の、樹木が立てる音に混じり、微かな足音がした。樵とも思えぬほど、華奢な体躯の人は、杣道に出ると、両手を擦りながら素早く小走りしていた。月の暈光に照らし出されたのは、黒縞の小袖を、裾短かに纏った、短髪の若い女である。
栗鼠のような垂れ目を持った女は、敏捷く、松の間を駆け下っていく。小枝を掴む手や、小石を転がり落とす足には、馴れているのか、迷いが見受けられない。女は忽ち、黒い岩が重なり合った川の岸辺に降り立った。
真っ白な息を一つすると、寒さも厭わず、彼女は清冽な浅瀬に足を踏み入れた。腰に差していた、鉤針付きの竹を抜き取ると、彼女は、淙々としてゆく水面に向かって真剣な眼差しを向けた。まだ、陽も昇らぬ内から、川魚を、撃とうとするのである。
やがて、女の視界の端が、閃いた。一匹の鮠を発見し、彼女は、ぴゅっと竹を川に撃ち込んだ。小さな飛沫が立った。外れた。
「ああっ……」
と、女は悔しそうに呻くと、竹を拾い直し、また構えた。ただの魚取りとは思えぬ程、執心しているらしい。五度試して、五度逃したが、その双眸に、諦念の色はなかった。
東の空が僅かに白み始めた。女は、場所を変え、今度は岩の上から川を睨んだ。魚。視界に映った。女が、構える。
瞬間、何処からともなく、何かが鋭く飛んできた。女の狙っていた魚は、白い腹を見せて浮かんでいる。女が、息を呑んで見ると、小柄が魚に刺さっていた。彼女は、小柄の主の、見事な手練に対する驚愕で、そのまま石像のように動けなくなった。
「どうした? 何故、拾わぬ」
女の背中から、声がした。低く落ち着いた、耳に心地良い冴えた声音である。
だが、女は、声も出せなかった。自分の背後に、誰かが気配もなく立っているということに、戦慄したのである。
生きた心地も無く、彼女が恐る恐る首を回してみると、五間あまり後ろの岩に、長身痩躯の武士が一人、佇んでいた。深編笠を被り、黒縮緬の小袖を着流し、三尺くらいの呂色鞘の大刀を差している。
暫く、沈黙が場を支配した。浪人風の男は、笠越しにでも感じられる、射るような眼差しを女に向けていた。
女は、はッとし、本能的に逃げようとした。
「待て!」
浪人風の男の声は、女の足を竦ませるのに、充分な鋭気のこもった声を出した。彼は、ツカツカと歩み寄って魚を指し、
「人の好意を、無にするな」
女は、肩で大きく息をすると、憮然とした顔付きで魚を拾った。小柄を抜き取り、魚を懐紙に包んで懐にしまうと、彼女は覚悟を決めた表情で跪き、小柄を両手で男に差し出した。村娘には過ぎた、慎ましやかな所作である。
何も言わず受け取った男は、口の裡から微笑を漏らしたかと思うと、そのまま、鬱蒼とした暗緑色の松並木の方へ消えていった。
女は歯噛みしながら見送っていたが、周囲の朧な明るさに、思わぬ時を過ごしていたことを察し、慌てて杣道を駆けて行った。
――魚を手に入れた女は、程なくして山麓の村に帰った。そこは、人口五十人余のありふれた寒村である。まだ早暁なので、茅葺きの家々から人は出ていなかった。朝靄が濃く、遠くの家はその影しか見えない。
女は小走りに、村で一番大きな屋敷の門をくぐった。小さいが池をしつらえた庭があり、家の屋根も瓦葺きであった。庄屋屋敷である。女が土間に入ると、六歳くらいの、可愛らしい小さな男の子が、退屈そうに待っていた。
女は、男の子の前に跪き、
「お早うございます、伊織様。千鶴様は、まだいらっしゃいませんか?」
「まだ起きてないよ、すず。起こそうと思ったけど、姉上ったら、あとちょっとばかり言うんだ」
「仕方がありませんね。少しお待ちください」
「良いよ、二人だけで行こう。姉上なんて放っておいて」
「そういうわけには参りませんよ」
すず、と呼ばれたこの女は、この家の下女である。十五歳の頃、ここの庄屋に拾われて以来、十年間、一徹に奉公してきた。主人家族は、素性も知れぬ彼女を追い出さず、下女として住まわせた
すずは、奥に入り、中庭を横目に見ながら外廊下を歩いた。少しして、とある部屋の前にかしずくと、障子に向かって、
「千鶴様、千鶴様。もうお時間ですから、お起きになってください」
「……」
「千鶴様、早くなさらないとお参りに間に合いません。失礼致します」
すずが障子を開けると、蓑虫のように布団にくるまった人がいた。彼女が布団を揺さぶると、微かな呻きと共に、その人は顔を出した。
猫のように目尻の上がった二重の双眸に、上がり気味の口角を持つ嬋娟の人であった。寝惚け眼でも、黒々とした瞳の大きさが解る。この人が、先程の伊織の姉、千鶴である。
千鶴は、肩まで流れる艶やかな黒髪を梳いて、しどけなく欠伸をし、
「もう行くの? あたし、まだ眠い。すずが行ってよ」
「そうも言っていられません。今日は伊織様の初めてのお参りですが、私は村の外から来た人間ですので、お供するわけには参りません」
「ちぇ……。じゃあ準備するから先に行ってて。祠の麓に行くくらいなら、出来るでしょ? よろしくねー」
千鶴は気怠そうに右手を動かして言った。すずは、手をつかえてその場を辞去した。千鶴は、また一つ欠伸をして身を動かし、鏡台に向かった。
土間に戻ったすずは、眠そうな目を擦る伊織を抱き上げると、
「千鶴様は後からいらっしゃいますので、
「良いよ、すず。疲れるだろう? 私は自分で歩けるから」
「お気持ちだけで、すずは嬉しゅうございます。さ、参りましょう」
すずは、伊織の小さな身体を慈しんで抱き上げると、忍びやかに屋敷から出発した。
伊織は、少々不満げな表情を見せていたが、柔らかな胸に凭れている内に、静かな寝息を立て始めた。
それから少し後、今度は千鶴が、軽やかに屋敷から出て来た。髪を高めの一本結びにし、銀朱色の小袖に脇差という出で立ちである。軽く化粧もしたらしい。
今朝の朝陽は、厚い雲に隠れて弱く、空は暗かった。それでも千鶴は、微笑みながら空に向かって伸びをし、村はずれの祠に駆けて行った。
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