第11話 エピローグ・春霞

 紗奈ちゃんは引き続き休みです、と課長が言った。

「お兄さんの十七回忌だそうです」

 小山さんが驚いている。

「まあ、子供の頃にお亡くなりになったってことね」

「ご病気だったそうですよ。仲のいい兄妹だったらしいですが」

 みちこは俯いたままだ。

 だから写真を飾っていたのか。鮮やかなターコイズブルーの自転車にまたがって笑う宮崎くん。その隣に、ちょっとはにかんだ面持ちの幼い紗奈、そっくりな二人の目鼻立ち。

 兄の元気だった頃の思い出は、それだけなのかもしれなかった。

 背景には、浜松第一小学校。

 みちこの母校でもある。

 

 宮崎くんと約束したのだ。

「その犬、今度連れてきてよ」

「いいよ」

 わたしのシュウちゃんを見せてあげる。それなのに朝、お隣さんが回覧板を持ってきて、その隙に飛び出してしまった白い小犬。探して探して、公園へ向かう歩道の脇で見つけた。なんとしてでも助けてやりたかったのに、でも、もう息をしていなくて、白い毛についた血は乾き始めていた。

 夕方になって、約束をすっぽかしたことを謝ろうと、宮崎くんに電話をしたけれど出なかった。それきり会えなくなって。

 シュウちゃんも、宮崎くんも、あの日からいなくなってしまった。

 彼はその日に容態が悪化して、設備の整った遠方の病院へ運ばれたのだ、と担任の先生から聞いた。退院したらシュウちゃんの話をもっと聞いてもらいたいと思ったのに、それきり消息が途絶えた。

 亡くなっていたんだ。


 子供が乗った自転車が犬とぶつかったのを見た、という人たちがいた。

「めずらしい色の自転車だったね。青の明るい感じで」

「あの色、ターコイズブルーって言うんじゃない、流行りの」

(お兄さんの自転車を勝手に持ち出して乗っていて、犬を撥ねちゃったんだって)

 目立つ色の自転車なのに、見つからなかったのも頷ける。兄の死、両親の離婚、東京への転校。

 宮崎くんの妹だったのね。野々山、はお母さんの姓なのだろう。

 ねえ、お兄さんはシュウちゃんに会いたい、って言ったんだよ。その日、会うはずだったんだよ。それをあんたは、撥ねて、見捨てて逃げた。こともあろうに、お兄さんの自転車で。

 だから、血を流して倒れている紗奈を見て、これは罰だと思った。

(やけに取り乱してね彼女、私のせいでお兄ちゃんが、とか何とか、泣きじゃくって)

 あ。

 もしかしたら、子供の紗奈はそう思ってしまったのか。自分のしたことで、お兄ちゃんに罰がくだってしまった、と。勝手にお兄ちゃんの自転車を持ち出したから。犬を撥ねて逃げてしまったから。だから、そのせいでお兄ちゃんが、と。

 大好きだった兄を思うたび、あの写真を見るたび、自分の中にそれを刻み込んで、リピートして、ループして続く音楽のように。現実との間にカーテンをおろして、苦しくなると束の間、ギターを鳴らして、掠れた声で叫んで。


 いつか幸せになってくれるかな。音楽、続けてくれるかな。

 そんなの誰にもわからないよ、とシュウちゃんがこたえた。

 

 紗奈ちゃんは退職しました、と言った課長の顔が、心なしかほっとしたように見える。

「挨拶もなしに辞めるんですね」

 小山さんは辛辣だ。

「変わってましたよ、あの子。いくら言ったって、何も直らないし。そもそも人と話す時、顔はこちらへ向けてるけど、絶対に目を合わせてこなかったもの」 

 立原課長がえっ、という顔をする。

「僕、嫌われてるかと思ったことがありますもん」

 と、谷くん。

「でも、悪いひとじゃありませんでした」

 いつになくきっぱりとみちこは言った。

 谷くんが手伝います、と言うのを断って、紗奈へ送り返される私物を箱にまとめる。本を一冊買ってきて、その荷物の中へ入れた。私の一番のお気に入りです、と短い手紙の中にちゃんと書いた。


 この春、みちこに東京本社へ異動の辞令がおりて。

「さみしくなるけど。でも、知り合いのハコ、紹介するよ」

 脩一がそう言ってくれた。

「僕は、何かを一生懸命表現しようとする人の中にいたい」

 泣くまい、と思うのだけれど。

「だから、みっちゃんの音楽が好きだ。みっちゃんの曲を聴いていると、また明日が迎えられる、そんな気がしてくる。みっちゃんは口数は少ないけど、いろんなものを、いろんな人を、感じとってじっと胸の奥であたためてる。きっと、東京でも通用するよ。さかみち亭でもあれだけやれたんだ」

「それは紗奈がいたから」

「さなみちの要はみっちゃんだったでしょ。シュウ・オンのオーナーをなめるなよ。うちの客だって、わかってたはずだ」

 

 スマホに撮りためた写真を整理しようとして、みちこの手がとまる。こんなものを撮って、私は何をしようとしたのだろう。二人が手を繋いでアパートへ入ろうとする、暗い、暗い穴の中へ引き摺り込まれそうな一枚。

 消去。

 私は、紗奈の死を願った。シュウちゃんのために、宮崎くんのために、違う、自分のために、紗奈を見捨てて逃げた。そして闇の中で、紗奈を殺してしまえと囁いたのは紛うことなき自分の声。コンクリートブロックを見る自分の目。

 全部、全部、自分。

 この記憶を消去するボタンはきっと、どこにもない。それが、私に下された罰なのだ。

 顔を上げると窓の向こう、流れ飛んでいく風景の中で空だけがじっとしている。春の霞みで、真っ青にはまだ遠い。この色なら、紗奈も心穏やかに見ることができるのだろうか。

 のぞみ号は丁度、浜松を通り過ぎるところだった。

 

  

〈了〉

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