第10話 星が見えた(十一月二十六日金曜)

「みっちゃん、大丈夫? そろそろリハーサルだけど」

 脩一の声で、自分が楽屋で眠り込んでしまったことを知った。

「やだ、すみません」

 あらためてステージから、新しくなったホールを眺める。ここで歌うんだ、よし。椅子の高さを調整し、キーボードのメインスイッチを入れる。

「紗奈ちゃんがまだなんだ。連絡もつかなくて」

「このところ、会社にも来てないですよ」

 さらっと応えられた、はずだ。

「穴、あけられると困るなあ」

 紗奈は来ません、とは言えない。みちこは弾き始める。鍵盤に集中していると、忘れられる。

「ラストには新曲をかきました。本番までは内緒」

 無理やり笑顔を作って脩一を見た。できる、私、きっとできる。

「もし来なかったら、みっちゃん五曲くらいやってもらえる?」

「もしも、もしもそうなったらやります」


「次の曲で最後です。新曲ができたので聴いてください。今夜はありがとうございました。みちこでした」

 拍手が湧く。いつの間にか、独りで五曲分のステージを持たせることのできる力がついていたのだ。

 イントロは低音で始めて、ふっと高音の短いフレーズを加え、和音をかぶせていく。ペダルは長めに踏んで、バラード調の曲の入り。

 マイナーではじめたメロディが、サビへ向かって明るい響きをまじえ、メジャーへ転調してゆく。


 かたときも忘れたことはない

 ぬくもりを離したこともない

 木漏れ日の向こう

 茜雲がかえりゆく山なみ

 あのビルのてっぺんにも

 またたく星があると

 おしえてくれたあなたへ


 歌いきった。

 やったよ、シュウちゃん。

 都会の夜空は明るくて、でもそこに、確かに星が見えた。




「みっちゃん」

 背中がぞくり、とした。顎がガクガクするばかりで悲鳴にもならない。

「すごいステージだったよ。圧倒されちゃった。こっそり見てたの」

 どうしてここにいるの。生きてるの。まさか幽霊なの。

 口がうまく動かないのが幸いだった。

「ステージに穴あけちゃった。私もう、脩一さんに顔向けできない」

 いつになく真剣な声でそう言う紗奈の手首に、みちこの視線が向かう。

 その視線に気づいたのか、包帯の巻かれた手をひらひら振ってみせる。声のトーンが一変して、いつものゆらゆら天然に戻る。

「やっちゃいましたー」

「だいじょうぶ、なの」

「血がたくさん出てびっくりした」

 金魚のように口をパクパクさせていると、やっと声が出た。

「あのね、私、実は見てたんだ」

 見た。紗奈は見ていた。あのとき意識があったということなのか。

「救急車も呼ばずに逃げたの」

 地面が揺れて崩れ落ちていく。私が何もせずに去ったのを、知っているのね。息ができない。

「みっちゃん、気づいてなかった?」

 そう、あんたは死にかけているとばかり思っていたもの。

 私は、もうおしまい。これからどうなるんだろう。

 死んでくれてたら良かったのに。帰りに、車に撥ねられて、本当に死んじゃえばいいのに。

 例えば、今、あそこに落ちているコンクリートブロックを拾い上げたなら、そうしたら。


「立原とね、私、不倫してたんだよ」

「あ」

「月曜日も、休みを合わせてお出かけしたの。そこで、キミはちっとも僕と目を合わせて話をしてくれないとか言い出して。何よ、奥さんと別れてもくれないくせによくそんなこと言えるね、そこから、別れてよ、別れない、って大喧嘩して」

「あ、ああ」

「ずっとむしゃくしゃしてて。次の日、シュウ・オンに行ったら気晴らしになるかと思ったんだけど」

「火曜日?」

「そう。どうして私がトリじゃないの、どうしてみっちゃんなの、って突っかかってしまったの」

(どうして私じゃダメなの)

(一人しか選べないよ)

(脩一さんのバカ、大嫌い)

 ああ、そうか。そういうことだったのか。

「そしたら脩一さんが怒って、大喧嘩になって。あんな脩一さん、はじめて見た」

 夜、部屋でチューハイ飲んでたら、もう全部、どうでもよくなってしまったのね。

「死んでやるから、ってメッセージ送って、カッターでやったの。そしたら様子見に来たんだよ、立原のやつ。なのに、意識が無いふりをしてたら、私に触りもしないで出ていった」

 醒めたわ。あんなやつだとは思わなかった。こっちから願い下げよ。

 酔ってたから、そのうち寝ちゃったみたいなの。夜中に起きて自分で病院へ行ったのよ、ウケる。しばらくの間、体をくねらせて笑っていた紗奈が、すっと真顔になる。

「あのさ、みっちゃん。私の曲アレンジしてくれるでしょ。コーラスだってつけるでしょ。でも私にはね、どうしてそんなことができるのか、さっぱりわからないのよ」

「あんなにいい曲を作れるのに」

「自分の思うようにやってるだけなの。正直、さなみちで、みっちゃんの曲に合わせて弾く、っていうのがよくわからなくて。でもわからない、って言えなかった」

「紗奈ちゃん」

「今夜、思い知ったの。みっちゃんは、私なんかより全然すごい。ステージの外から見たら本当によくわかった。私、こんな人とやってたんだと思ったら打ちのめされちゃった」

 紗奈と視線が交叉したような気がする。

「さなみちでね。みっちゃんが歌ってるのに、お客さんがチラチラこっちを見るの。気づいてた? 最初は喜んでたんだけど、冷めてるなあ、ファンの表情じゃないなあって。あれは残念な人を見る目だったんだ。ショックだな」

 これからもがんばってね、バイバイ。

 別れたあと、しばらくの間動けなかった。

 何もかも、大丈夫だった。

 そしてはじめて、ほんの一瞬だったけど目が合った。

 

 胸元のペンダントを握りしめる。それは、中学生の頃に失った愛犬の鑑札に革紐をとおしたものだ。

 シュウちゃんが助けてくれたんだね。

 

<最終回へ続く>

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