第9話 スライドチェック(十一月二十五日木曜)
火曜も、水曜もよく眠れなかった。目を閉じると蘇ってくるアパートの光景。
「紗奈ちゃんはしばらく休みだから」
木曜の朝出勤してくると、課長はそれだけを告げて部屋から出ていった。
「どうしちゃったのかしら」
小山さんは、好奇心を隠そうともしない。
「須田さん、何か知ってる?」
知りません、と強い調子で言いそうになるのをグッと抑えた。
「さあ、どうしたんでしょうね」
会社としては、社員が自殺したとは発表しにくいのだろうか。課長の顔も青白いようだったが。
「あの二人、なんだか訳ありだと思わない?」
みちこは黙っている。いつものように。
「二人して月曜有給とってたもの」
小山さんが喋り、谷くんが相手をしている。
「でもって、火曜は祝日、水曜は紗奈さん無断欠勤」
お願いだから火曜の話をしないで。みちこは黙ったままだ。
「ねえ」
「いや、俺、なんも言ってないですよ」
「やだなー、谷くんったら」
「やだなー、小山さんったら」
谷くんがまぜっ返して、二人は大笑いしている。
こんな疲れている日には、簡単な作業をこなすに限る。紗奈が作った会議用のスライドをチェックすることにしよう。いつも誤字や脱字が多いので、そのままでは出せないのだ。
ファイルを開く。白地に真っ赤なタイトル文字。なんだってこんな配色にしたのかしら。だからチェックが要るのよ。文字を紺色に変える。
しかも、名前が間違っている。
「担当 野々山紗奈、須田道子」
まさか、私の名前をちゃんと覚えてくれていなかったのだろうか。今更、もういいけどね。
打ち直す。
『み血こ』
馬鹿な。
ややあって、眼鏡を外すと眉間を親指と人差し指で揉みほぐした。気を取り直して次のスライドに移る。
「平均律は約80パーセント」
平均値、のつもりだったのだろう。tiのはずが隣のrのキーをミスタッチしてri。そこから律が自動変換されたというわけで。分析して納得する。
いや、納得したからって誤字を放置したことを許したわけじゃないのよ、紗奈。
打ち直す。
『へいきん血』
そんな。
手が震えているのを感じる。呼吸が浅くなる。息を吐いて、吸って、もっとゆっくり吐いて、吸って、落ち着かないと。
なんとか、次のスライドへ移る。
「この地外の原因について」
違い、だろう。一枚に一字ずつ誤字、さすがに多すぎる。みちこはちょっと冷静になる。
『血がい』
思わず目を閉じたのがいけなかった。瞼の裏に白い腕、広がる赤い血。
とっさにスライドを閉じ、手洗いへ向かう。個室に鍵をかけると同時に、すうっと目の前が霞みうずくまった。
どのくらいそうしていただろう。
戻らなくては。様子がおかしいと思われるわけにはいかない。
給湯室へ寄って、コーヒーを淹れた。ドリップが落ちていくのを見ながら考える。目の前で死にかけている人を見捨てて逃げたら、罪に問われるのかな。扉のノブには私の指紋がついていて、あ、インターホンだって押したし、スマホを拾った時に床にもついたかもしれない。
どうしよう。
席に戻って、温かいマグカップを両手で抱えていると、少し落ち着いてきた。紗奈の部屋には遊びに行ったことがあります、って言えばいい。うん、それならおかしくない。
恐る恐る、もう一度スライドを開く。
白地に、真っ赤に塗りつぶされた棒グラフ。
マウスを握った指がうまく動かない。やっと赤を緑に変えられた。真っ赤な部屋、白い腕、転がっているカッターナイフ。
血に染まった犬の白い毛。泣くことしかできなかった、助けてあげられなかった、たいせつな、たいせつな、あのこ。みちこは胸の奥のペンダントを握りしめる。
「位置外には言えない」
ちだ、また、ち。
歯をくいしばって修正する。
一概には
大きくため息をつく。
「あら、どうしたの須田さん、ため息なんてついちゃって」
小山さん、いちいち気にしないでくれますか。
「え、あの、紗奈さんのスライドを直してて、誤字がひどくて、つい」
「メールとかも誤字多いですよね。この間なんか、両方、の両の字が『猟』だったですよ、ほらあの『猟奇殺人』の『猟』」
尻馬に乗る谷くん。
「あの子いい加減だからね。ま、そういうところが、課長にしてみたらかわいい、ってなるのかもしれないわね」
下世話な話のおかげで、みちこはかえって落ち着いてくる。そうだわ、やましいと思うから、気になるだけなのよ。手をくだしたわけじゃない。ひとごろしした訳じゃない。
私は何もしなかった。
そう、聞かれたらそう言うんだ、嘘じゃない。
何もしていません。
あれは、罰。
<続く>
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