第8話 ターコイズブルー(十一月二十三日火曜まで)

 翌日仕事を終えたみちこはすぐに帰ることはせず、駅のそばにある本屋に入る。店内を歩き回るが、書棚を見てはいない。

 紗奈と二人きりで話したいことがある。今回ばかりは、ちゃんと。昨晩は、ライブの興奮と、その考えとでほとんど眠れなかった。

 なおも、ぐずぐずとうろつく。

 そうだ、ケーキを買おう。あの風見鶏の店に行って、近くまで来たから寄った、って言えばいい。

 やっと心を決めて到着するともう閉店間際で、そろそろ二十時になろうとしていた。

 あれ。

 心臓が早鐘のように打ち始める。その二人組はケーキを選ぶのに夢中で、ドアの外にみちこがいることに気付いていない。ゆっくりと店から離れ、電柱の陰に身を隠し、出てきた男女のあとをつけるように歩く。足音が聞こえませんように。ヒールじゃなくて、ぺたんこの靴で良かった。

 男の方が周りを見回すようなそぶりを見せると、二人は手を繋いだままアパートの敷地へ入っていく。

 やっぱり、そうだったんだ。

 課長は何が好きなんだろう、イチゴののったやつ、それともチョコレートのやつ。

 ちょっと離れているけど、撮れるかな。

 みちこは満足げにスマホの画面を見直すと、きびすを返した。店にはもう閉店の札がかかっていた。

 

 シュウ・オンは改装を終え、再オープンする運びとなった。

 さかみち亭からはもう一回やってもいいよと言われたが、みちこは今まで見せたことのない果断さでもって、これを断った。

「えー、やらないの」

 紗奈は不満そうだったけれど、新しい曲を書きたいからといってかわしたのである。

「正式には十二月のはじめにオープンするけど、その前の週にプレのミニライブをしたい。十一月二十六日、みっちゃんトリで出てくれる」

 金曜日。それを自分にと言ってくれた脩一に応えたい。それには、ふさわしい新曲を作るのが一番だ。

 それに、さなみちで演りたくない。あの晩、部屋に乗り込み損ねてしまったけれど、紗奈とちゃんと話をしてみるまでは、できない。

 黙々と仕事をこなし、帰宅すれば曲を練り上げて練習を重ねた。

 犬のからだのやわらかさ。

 脩一の背中のあたたかさ。

 見えないけれど、そこにあるはずの星。

 核となり自分の世界を作っていくもの。みちこが揺らがずに前に進んでいくために必要なもの。寄り添って、広がって、膨れあがる想い。

 シュウちゃん、いい曲ができたよ。

  

 勤労感謝の日、火曜。金曜日のライブを目前に、穏やかな休日になるはずだったのだが。

 もう、このままにはしておけない。

 みちこは夜道を紗奈のアパートへと向かう。確かめてやる、全部。

 昼間の光景が頭を離れない。美容院の帰りに、シュウ・オンを覗いてみようと、ふらりと寄ったのだった。

 扉が開いている。

 踏み入れようとした足が止まった。

「どうして。どうして私じゃダメなの」

「一人しか選べないよ、わかってるだろう」

「そんなの嫌」

「紗奈ちゃん」

「バカ、脩一さんのバカ、大嫌い」

 慌ててその場を離れて雑踏に紛れ込んだ。涙があふれて、どうしようもなかった。この街を、脩一と出会った街を歩いてただ歩いて、電車にも乗らずに歩き通してマンションまで帰ってきた。

 けれども、今までならそのまま泣きながら夜を過ごしていたのに、身体の中でパーンとはじける音がしたのだった。

 アパートの前に着くと深呼吸する。共有玄関はロックされているが、ちょうどいい具合に中から人が出てくる。何食わぬ顔で入り込む。

 ずんずんと紗奈の部屋まで進む。扉の横にあるインターホンを押す、しばらく待って、もう一度。

 出ないつもりなの。

 ノブに手をかけると、思いがけず玄関の扉が開いた。

「紗奈ちゃん」

 返事が無い。しずまりかえっているが、奥の方から灯りがもれている。

「ねえ、いるんでしょ」

 たまりかねて中へ入り、短い廊下の突き当たりにある扉を開けた。

 八畳ほどの部屋。桜色のカーテン、ベッドの脇には見慣れたギター。

 小さな白いコーヒーテーブル、

 その天板に突っ伏した紗奈、


 投げ出された細くて白い腕、


 赤、赤、赤、

 動かなくなった白を覆い尽くす赤。


 みちこの荒い息が部屋の中に響く。大ぶりのカッターナイフが転がっていて、紗奈が自分でやったらしい、ということはわかった。

 救急車を、呼ばないと。

 手が震えて、スマホを取り落としてしまう。拾い上げようとして、壁際に目がいく。

 白い棚板の上にある、これは。

 ターコイズブルーの、これは。

 脩一さんと二人で話した、あのときの、あの。

 紗奈、あんた。

 息はまだ荒いが、恐怖とは別のものに変化していた。

 あんたなんか。

 あんたなんか、罰を受けるがいい。

 スマホをしまい、その場を後にした。祝日の夜は静かで、住宅街に人通りはなかった。


<続く>

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