第7話 白い小犬
さなみち二回目のライブは人の入りが良かった。木曜の晩だったが、さかみち亭の底力だろう。
何より嬉しいことに、脩一が来てくれた。
「前回のライブ、評判良かったそうじゃない。今夜、楽しみにしているね」
「がんばります。ありがとう、脩一さん」
自分でも最上の笑顔になっていると思う。
「きゃー脩一さん。うれしい」
「相変わらずだな、紗奈ちゃん」
「最後にあの盛り上がるやつ演りますよ。お楽しみに」
紗奈はやけに馴れ馴れしい。みちこは黒々しくなりそうな心に、静まれ、と一喝する。いいステージをする、それだけ。
そうでしょ、シュウちゃん。
その晩、打ち上げと称して脩一が二人に
手と鍵盤とが一体となって踊った。脩一がいる、その感情のうねりが大きく跳ね上がって、アドリブのフレーズを生んだ。音に身を委ねていく心地良さ。それは自分の曲だろうと、紗奈の曲であろうと関係なかった。
けれども興奮が冷めてくるにつれ、どうも紗奈の方が受けていたように思えてくる。みちこが歌っていた時ですら、客の視線はあちらに集まっていたのではなかったか。
紗奈はいつも通りだった。つまり、何も変わらないということ。やっぱり練習してこなかったということ。
「なかなかいいデュオでしょ、私たち」
紗奈がグラスを持ち上げ、ゆらゆらと振る。ほんのりと酔った目元に漂う色気。
どうして、何にもしてくれないの。私の曲が好きじゃないんでしょ。私とはやりたくないんでしょ。アルコールが入っていてなお、それを口に出すことができない。
「うん、良かったよ。でも紗奈ちゃんのアルペジオも聴きたかったなあ」
「ええー」
二人がじゃれているように見えてきて、みちこは黙ったまま残りのハイボールを飲み干した。
「みっちゃん、もう一杯飲む?」
そう言ってくれた脩一に微笑み返す。
「そろそろ帰ります、明日も仕事だし」
「そうか。じゃ、これでお開きにしよう」
脩一を真ん中に、三人で駅に向かう。二人はとりとめもない話をしていて、みちこは微妙な距離を開けて歩く。元々、口数が少ないからきっと不自然ではないはず。不機嫌を顔に出さないのはお手のものだ。
突然、紗奈が悲鳴をあげて脩一にしがみついた。脇道から白いものが飛び出してきて、三人の前を横切っていく。
季節はずれの大きなたんぽぽの綿毛。
犬だ。ポメラニアンが小走りに通り過ぎて行ったのだ。
向こうの車道から音が押し寄せて、みちこは我にかえる。あっちに出る前に捕まえないと。いけない、そんなの絶対にいけない。助けてやらないと。
驚かせないように、すばやく犬が歩いているのとは反対側の端へ回る。大通りと交わるところまで走ると姿勢を低くして両手を広げた。
おいで、こっちだよ。
とびこんできた小さな体はあたたかだった。
飼い主夫婦は目を潤ませながら何度も礼を言った。散歩の途中で、リード(引き紐)が外れてしまったのを懸命に追いかけてきたのだという。
「あなたが捕まえてくださらなかったら、車に撥ねられていたかもしれません」
七十代とおぼしき奥さんはそう言うと、犬の体に顔を寄せて泣き出してしまった。
可愛がっていた犬によく似ているんです、とみちこが言うと、白い小犬は尾を振り、差し出した手を舐めた。
あのこを、助けて、やれなくて、私は。
灯りがなければ、星が見えただろう。
酔っていたのに走ったものだから、ふらふらになった。脩一がおぶって、ベンチのあるところまで連れてきてくれる。
「すみません。もう大丈夫です」
ポケットからハンカチを差し出してくれようとする手を押しとどめた。ターコイズブルーのハンカチ、ごめんなさい、その色はダメなんです、とみちこは心の中で呟く。
「みっちゃん、カッコよかったよ」
「子供の頃、うちにいたんです。犬が大好きで」
「そう。僕も、猫より犬派。いつか飼いたいな」
ささやかな共通点。
「紗奈ちゃんはね」
せっかく脩一と二人きりなのに、名前だけでも邪魔されたくない。
「犬が怖いらしい」
それであんな大仰な悲鳴を。
「子供の頃、お兄さんの自転車を勝手に持ち出して乗っていて、犬を撥ねちゃったんだって。その時のことを思い出すから、犬を見ると体がすくむんだそうだ」
えっ。
「犬を、撥ねた?」
そんな、まさか。大きな鉄の塊を呑み込んでしまったように、みちこは声を出すのに難儀した。
「その犬どうなったの、って聞いたら、知らない、って言うんだ」
「助け、なかった?」
「やけに取り乱してね、私のせいでお兄ちゃんが、とか何とか、泣きじゃくって手がつけられなかった」
白い犬の輪郭が脳裏に広がっていく。
「要領を得なかったけれど、どうやら犬のことは放ったらかして帰ったようだよ」
寒かった、ひどく。
ひどく。
<続く>
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