第6話 ザマアミロ

 少し大きなハコでやってみないか、と脩一が言った。ハコとはライブハウスのことである。

「もうすぐ、子供が生まれるんだよね。しばらくうちのことで手一杯になるから、ひと月ほど閉めるわ、ごめん。ちょうど良いから、その間にここ、少し改装しようかと思って」

 眉間の奥から胸にかけてぎゅっと固くなる。いい歳をして三年間片想い、高校生じゃあるまいしばかみたい。

 みちこはかろうじて、おめでとうございます、と絞り出す。

「脩一さん、結婚したの、いつだったんですか」

 紗奈の間伸びしたような声。

「そろそろ十年かなあ。二十六の時だったから」

 脩一さんと出逢った時にはすでに奥さんがいた。私の出番なんてどこにもなくて。

「私いま二十六だし、やだー、早く結婚しなくちゃ」

 ああ無神経。私が三十なの知ってるよね。

 でも紗奈なら、奥さんがいようがいまいが関係なくいくんだろうな。課長に対する態度だって、結構あからさまだし。

 いやいや、課長だって満更でもなさそうだし、もしかしたらもしかするかも。

「それでね、紹介するから『さかみち亭』出てみないか」

「えっ、さかみち亭ですか」

 一瞬、切なさもどろどろも消え去った。シュウ・オンの二倍は集客する人気店だ。

「うん。試しておいでよ、二人のデュオってことで」

 やった、シュウちゃん。心の中でみちこはガッツポーズをきめた。


 さかみち亭だから、というわけでもないが、デュオに「さなみち」という名をつけた。

 さなみちライブは、まずまず成功だったと思う。月末にもう一度出てもいいよ、と言われたのはその証拠だろう。それなのに毛虫が這い回るようなこの感情は何だ。

 気温のせいかな。みちこはグレーのカーディガンの袖を肘の手前までまくりあげてみる。十月はまだまだ暑い日がある。

「紗奈ちゃん、出張申請書がまだだけど」

「すいませーん、課長」

「期限は今朝だったでしょ。気をつけてね」

「はーい」

 この二人のせいかもしれない。

「課長、今メールで送りました」

 わざわざ席を立って、行ってまで言うことだろうか。スカートの裾が翻され、オレンジがかった茶色のシフォン地が揺れる。アイボリーホワイトのブラウスの襟元から覗く鎖骨に、ゆるくウエーブのかかった髪がまとわりつく。髪、茶色に赤を入れたのかな、秋色に変えたんだ。

 みちこは、といえばカーディガンの下は白地に黒いドットの入ったブラウス、それにネイビーのパンツ。黒髪を後ろで一つに結んで、落ち着きのある服装を心がけている。というと聞こえはいいが、無難というやつだ。

 会社ではライブの話はもちろん、雑談もあまりしない。人の輪に入ると、自分の話はつまらないのではないか、こんなことを言ってはいけないのではないか、考えたり遠慮したりの繰り返しで疲れてしまう。だから黙ったままでモニター画面に向かっている方が楽だ。真面目で物静かで几帳面な須田さん、でいる方が。

「須田さんは何でも、正確に仕上げてくれるから安心できる」

 小山さんはそう評してくれた。うまく口に出せないことがあって、心の中では大波がうねる日があって、でも真っ直ぐに歩いているつもり。特に、音楽を得てからというもの、波間には道標が見え隠れして、迷子にはならない気がする。

 意識は仕事から遠ざかり、さなみちライブの記憶にとんでいく。二人で二曲ずつ、交互に演ったのだったが。

 せっかくさかみち亭のステージだったのに。いつものお客さんたちも来て、盛り上げてくれたのに。やはりと言うべきだろうか、みちこの曲に合わせるはずのアルペジオを、紗奈はとばしてしまった。ハモリだってやろうって言っていたのに。

「みっちゃん、上手くできなくてごめんね」

 終わった後、楽屋で謝ってきたのは本心なのだろうか。

 紗奈は私の曲が好きではないのかもしれない。脩一の店では頑ななまでに、ジョイントしてくれなかった。

「だって私、下手だから」

 できないはずはないのに。

 今回のデュオも、本当は嫌々やっているのだろうか。

『次は一曲増やしてみて。全部で五曲。最後の曲は、この前盛り上がったやつでお願い』

 さかみち亭のオーナーからのメール。最後の曲とは、みちこがアレンジを弾いた紗奈の曲。

「じゃあ、私、みっちゃん、私、みっちゃん、私、その曲順でいいよね」

 えっ、自分の曲が三曲っていうわけ。はしゃぐ紗奈、それ以上は言えないみちこ。

 立原課長がいつの間にか「紗奈ちゃん」と呼ぶようになって。「はーい」と答える、甘えたような仕草。衿ぐりの開いた服、白い首すじ、長い指で奏でるギター、妖しげにステージを包み込む歌声。

 ぐるぐる考えていると前の席の小山さんと目が合って、飛び上がりそうになった。こちらに向かって目配せしている。

「須田くん、君がぼんやりしているなんて珍しいな」

「すみません、課長」

「谷くんの評価シートはできたけど、紗奈ちゃんの分は訂正が必要なんだ。頼めるか?」

「承知しました」

「小山さん、十五時からの姫路のアポ、紗奈ちゃんも連れて行きます。そのまま直帰するんで、あとよろしく頼みます」

 ああそうですか。お二人で、直帰ね。

「わかりました」

 そう答えた小山さんと、もう一度目が合った。小山さんの口が無音のままでゆっくり「ちょっき」と動く。ニヤニヤするその顔がとても醜くてみちこは目を逸らしてしまったのだけれど、でもこうも思ったのだ。

 ザマアミロ。


<続く>

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