第2話 異常なし(十一月二十四日水曜)

 水曜日の午前中のこと。手洗いから戻ったみちこは、部屋の入り口で立原たちはら課長に呼び止められた。

須田すだくん、紗奈ちゃんから何か聞いてる?」

 もうすぐ十一時になるが野々山紗奈ののやまさなのデスクは空だ。彼女が四月に転勤してきてからというもの、面倒をみている。

 いや、みてきた。

「いえ、知らないです」

「また休み明けの遅刻か」

 課長は大袈裟に左右に首を振っている。紗奈を怒るなんてできないくせに、なんてわざとらしい。

 紗奈は先週末の土曜日から四連休。月曜は有給、昨日火曜は祝日だった。あ、課長も月曜は有給だった。

 そもそも、みちこは須田くんで、紗奈は紗奈ちゃん。それはどうよ、といい返せるほどのあっけらかんとしたものがみちこにはない。あたかも気にしていないように振る舞うよりない。それに、みちこは三十歳、あちらは二十六歳。二十代に対する嫉妬だと思われるのはごめんだ。

 みちこはため息をつきそうになるのをこらえる。紗奈のことは、もう考えたくない、でないとどうにかなってしまいそうだ。でも、それは誰にも悟られないようにしなくては。さっきの課長への返事、おかしくなかっただろうか。知りませんと、普通に言えただろうか。

 席に戻り、外していたパソコン用眼鏡をかけ直す。午前中のうちに、仕上げてしまおう。大した仕事じゃないし。


 何よこれ。


 モニターに表れているのは立ち上げたはずのないウィルス対策ソフトの画面。喉の奥に込み上げてきた苦いものを、ハンカチで塞ぐ。


 『スキャンは終了しました。異常な死』


 ハンカチを口に当てたまま、みちこは目だけを動かす。デスクの左は通路でその向こうは立原課長席。右は紗奈で空席。向かいは小山こやま係長。一番の古株で、賑やかな女性。部署のムードメーカーと言えなくもないが、要するにおしゃべり。その隣は、今年入社したばかりのたにくん。若いのに優秀だけど、上の顔色を伺うのが上手すぎるのはちょっとどうかと思う。これは出張中で空席。そこから衝立を隔てて、もう四席。

 誰が、こんなことを。

「須田くん、聞いてる?」

 はっとして振り返ると、まだ入り口にいた課長と目が合う。

「どうした、具合でも悪い?」

「いえ、そんなことありません。あの、ちょっとしゃっくりが出そうで」

「なら、いいけど。午後になっても紗奈ちゃんが来なかったら、領収書まとめて出しといて」

 いつもは温厚な課長の口調が、暗くこもって何だか投げやりだ。顔色も良くなくて疲れているように見える。

「小山さん、僕、急に子供の学校へ面談に行くことになって。早退するので、あとよろしく頼みます」

「まあ」

 小山さんは課長の方を見ると物分かり良さげに頷く。

「わかりました。お任せください」

 課長の姿が見えなくなると、こちらへ身を乗り出してくる。

「小学校で急に面談だなんて、何があったのかしらねえ」

 いつもならこの手の噂話のお相手になってくれる谷くんがいないので、みちこと話したくてたまらないようだ。

「面談に行くのにあのシャツ。まあ抑えめの赤だし、柄のパターンはシンプルな感じだから、いいのかしらねえ」

 正直どうでもいい。みちこはいつものように、笑いかえすだけにとどめる。そう、いつものようにしていなくちゃ。今日は愛想がいいとか、やけによくしゃべるとか、思われたら大変だから。自分に言い聞かせながら、無難な対応を心がける。

 目を戻すと、モニターにはさっきまで作成していた出張報告書が表示されているだけなのだった。

 疲れているんだ、私。ゆうべは眠れなかったし。

 眼鏡を外し、クロスでレンズを拭く。集中、集中。静かな部屋にキーボードを叩く音だけが響く。この手の報告書なら慣れたものだ。あっという間に最終段落に差し掛かる。

「…サダ精密機器の展示によれば、画像再構成のスループットを上げるためには圧縮方式を変更するのが最も安価であるという結果が得られた。つまり費用対効果は、従来から多用されてきたちい紗奈ステップによる、」

 

 『ちい紗奈』


 打ち間違えてなどいない。

 今までこんな変換が出たことなんてなかった。

 小さな、と打ち直すと目元がじわっとして、不意に号泣しそうな気がしてきたので保存のタブを押した。

 午後一番で仕上げればいい。お弁当の袋に手を伸ばす。

「小山さん、お先にお昼失礼します」

 社員食堂へ行く気にはなれなかった。会社の玄関から左斜め向こう、横断歩道を渡って公園へ向かう。曇り空の下のベンチは冷えていて、膝掛けを持って来れば良かったと思った。


 <続く>

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