ターコイズブルーの罰

穂音いづみ

第1話 プロローグ・深呼吸(十一月二十六日金曜)

 ひどい顔をしている。

 鏡の前でみちこは俯いた。元々、自分の顔はとりたてて好きでも嫌いでもない。でもこれはあんまりだ。今日はいよいよの日だというのに。

 金曜や土曜の晩にライブを演らせてもらえるのは、人気のあるアーティストに限られている。どうしても経営側としては、人出が多く、いつもより一杯二杯多目に飲んでもらえる週末に一人でも多くのお客を取り込みたいからだ。みちこのような名も無いシンガーソングライターは、ずっと平日枠。それが今回初めて金曜をもらえた。そんな記念すべき日に、この惨めなまでの顔色。

 頭の奥で赤と白のモザイクが点滅しつづける。押し込めても沈めても浮かび上がってくるあの女の姿がみちこにつきまとって離れない。そう、この三日というもの、まともに眠れずにいる。息の吸い方もわからなくなっていて、鎖骨のあたりで澱んで濁っていく。

 のろのろと会社で着ていた服を脱ぎ、薄紫色のワンピースに袖をとおすと、メイクを直す。このクマをコンシーラーで隠したら、少しはマシかな。最寄り駅まで歩くが、どこに足があるのか良くわからなくて地面がはるか遠くにあるように思える。吊り革の向こうに流れていく山は、コンクリートの建物と同じ色合いみたいだ。

 いつもの改札から出て、いつものベーカリーショップで、いつものあんぱんを一つ買う。そのルーティンが少し落ち着きをくれる。

「シュウちゃん」

 ワンピースの上からペンダントをキュッとつかむ。大切な存在に大丈夫だよと言ってもらいたくて。

 すると、くぐもっていた耳に、街の喧騒がドラムのようにリズムを刻むのが流れ込んでくる。ワン、ツー、スリー、フォー、吐いて、ファイブ、シックス、セブン、エイト、吸って。深呼吸を繰り返すうちに、すっとお腹に通り道ができて、足の裏が、いま確かに地面を踏んだ。

 ライブハウス「シュウ・オン」への階段を一段ずつ降りる。大丈夫、できる。結んでいた髪をほどくと、両手に力をこめて重めの扉を押し開けた。ステージの上から、キーボードがこちらを見ている。ここに来るようになってから、ずっと弾き続けてきた大切なパートナー。もう一度、深く息を吐いて、吸う。よし。


 リハーサルまでの間、誰もいない楽屋で腰をおろしてあんぱんを食べる。程なく眠気が押し寄せた。

 こうなったのは、全部あの女のせい。


<続く>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る