第3話 夏の風が吹く

 神戸の街にはライブハウスが多い。みちこの声を最初にほめてくれたのは、そのうちの一つ「シュウ・オン」のオーナー、佐古脩一さこしゅういちだった。

「透明感があって、その中に芯があるね。もっと歌ってみたらいいんじゃない」

 それは何事にもつい一歩引いてしまうみちこが、自分でもびっくりするほどの衝動でもって、弾き語りイベントに参加した日のことであった。

 主催者の脩一はグレーのメッシュを入れた髪を後ろで結んでいて、癖っ毛なのかくるりと丸まったお団子がかわいらしい。

「みちこさんの曲、僕はなかなか好きだな」

 小さな声でありがとうございます、というのが精一杯だった。きっと、真っ赤になっていたことだろう。

 神戸支社に配属されて良かった、としみじみ思う。少し古いけれど駅から歩いて十分ほどのところに1LDKのマンションを借りられた。

 このスペースがあれば、電子ピアノを置けるかも。それはとてもいい思いつきだった。ボーナスをはたいて新品を買うと、中学受験の折にやめてしまったピアノを弾き始めた。

 習い事としてではなく独りで気ままにやっていると、楽譜にはないフレーズが浮かんでくる。細切れな音の並びが、つながったりまたはなれてみたり、それを繰り返しているうちに曲のかたちになって。メロディーがしっかりすると詞を連れてくる。パズルのピースのようにはまる言葉、つくりあげられていく景色。

 夢中になって曲作りをするようになり、思い切ってイベントで演奏したのが三年前のことだった。

 今では月に二回くらいの割でシュウ・オンのステージに上がっている。少しずつ応援してくれる人ができて、ファンと言っても良いのだろうか、面はゆいけれど嬉しい。

 脩一が自分のことを「みっちゃん」と呼んでくれるようになったことも、とても嬉しい。

 

 街路に辛夷こぶしの白やピンクがこぼれている。桜よりも辛夷のどっしりした花びらの方が、ちょっと霞んだ春の空には似合うように思う。そんな三月末の日曜日、シュウ・オンの扉を開けると、見慣れない顔があった。

「おはよう、みっちゃん。こちら紗奈さん。東京からきたばかりだって。今夜、歌ってもらうので、よろしく」

 脩一が紹介してくれる。

「あ、みちこです。はじめまして」

「紗奈です。よろしくお願いします」

 自分より少し若いかな。アコースティックギターを抱えた彼女のたたずまいは桜の若木のようで。

 きれいに手入れされた桜色の爪。すらりと背の高い紗奈の、白くて長い指が弦をすべっていく。その音までが、曲の一部としてしっくり馴染んでいる。少し息の多い声が高音部で掠れ、世の中を斜に見ているような歌詞にピタリとはまる。

「紗奈さんの曲、全部よかったけど特に二曲目、コードの展開、すごくいいですね」

 本当に心を動かされたのだ、あのとき。だから何度か顔を合わせているうちに、自然とリハーサルでアレンジを弾いた。

「みちこさん、すごい。私の曲が生まれ変わったみたい」

 開演の準備をしながら聴いていた脩一が、切れ長の目を細めながら、それ、今度演ってみてよ、と言ってくれる。

 ふいに浮かび上がる遠い昔のひとこま。

「その犬、今度連れてきてよ」

 脩一とは顔かたちも、背格好も、まるで似ていないのに、思い出したのは何故だろう。中学一年のみちこ、同級生の宮崎みやざきくん。声変わりが始まって、ちょっとかすれがちなのに湿度が含まれて抑揚が柔らかい感じ。その度合いが似ているのだ。記憶が波立つ。

 いいよ、あのこを連れていくからね。約束したその日に、あんなことになって、それきり宮崎くんと会うことはなかった。

 体が丈夫でなくて、学校も休みがちだった彼は、遠くの病院に入院したと聞かされた。

 淡い恋。

 

 ステージでは紗奈がシャウトし、みちこが裏メロディを寄せる。ハスキーボイスと、透明感の組み合わせは意外なほどしっくり溶けた。緊張感のあるコードを使ったアレンジは、みちこならでは。紗奈はスラム奏法と呼ばれる、弾きながらギターのボディを打つテクニックをマスターしていて、ドラムが加わっているような厚みをもたらした。

 いつもより拍手が多いのがはっきりとわかった。多いだけじゃない、今まで聞いたことのない響きを含んだ拍手だった。シュウ・オンを出ると、七月になったばかりの風が、火照った頬をなでて港へ向かっていく。からだが鳴るような感覚を、一生忘れないだろうとみちこは思った。


<続く>

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