ばいばい

祐里

パステルカラー

 遠くの芝刈り機のモーター音、近くの蝉の鳴き声、高原のテニスコート。

「ばいばい」と彼女は言った。

 蒸し暑い空気にほんの少しだけ涼しい風が混ざる夏の終わりに。

 真っ白なワンピースの裾を気にしながら。


 僕は子供の頃からかわいいものが好きで、文房具なども優しい色調のものを選ぶことが多かった。しかし口さがない級友たちに「いくら姉ちゃんの影響だからって、男だろ?」と笑われることもあり、年齢が上がるごとにお気に入りのファンシーグッズを学校に持っていくことはなくなっていった。

「それ、どこで買ったの?」

 高校二年生の夏休みが始まったばかりのある日、テニスコートのフェンス越しに知らない女の子から話しかけられた。僕がタオルを額に当てている時だった。

 まずい、と思った。彼女は僕と同じ年頃に見えた。学校では見かけない顔だけれど、なるべく同年代の人には見せないように使ってきたのだ。テニススクールでは十以上離れている大人ばかりだから、油断していた。

「……これ?」

「うん」

 タオルを肩のあたりまで上げてみせると、白いワンピース姿の彼女は言った。「それ、かわいいから」

「……あ、これ、は、姉ちゃんが……どこで買ったかは……」

 縁部分に小花柄があしらわれた淡いパステルピンクのタオルから、彼女は目を離さない。

「そう、残念。……また見に来ていい?」

「見に来て、って?」

「あなたがテニスするところ。私、カナっていうの」

 自分が何と答えたか覚えていない。その華奢な指と細い肩が支える淡いラベンダー色のフリル付き日傘のことしか。

 それからカナは毎日のようにフェンスの向こうに現れ、僕はパステルピンクのタオルを持っていくことが多くなった。


 テニスの練習を終えてシャワーを浴びたというのに、夏の暑さがシャツを濡らす。運ばれてきたアイスミントティーでカラカラに乾いた喉を潤し、僕は小さく息を吐いた。

 目の前に座る白いスクエアネックの向こう側の肌は、汗をかいているように見えない。体が弱いとそういう体質になるのだろうかと思い始めた頃、彼女が口を開いた。

「アオくん、古民家カフェ好きなの?」

「内装がかわいいからね」

 テーブルの脇の小窓にはフリルの付いたカフェカーテンがぶら下がっている。自然なアイボリー色は、年季の入った太めの木枠によく合っていてかわいらしい。僕のお気に入りのカフェだ。

「うん、かわいいカフェだよね。何飲む? おごり。何でもいいよ」

「いや、自分で出すって。この間臨時収入あったし」

 ふふっと軽い笑いを漏らす口は、アプリコットで彩られている。

「これ、かわいいでしょう」

 自分の唇を指差し、彼女が笑った。

「ジェルグロスっていうの。臨時収入で買ってつけてみたら?」

「……いいかもね」

 その唇が僕の視線を離さないなんて、カナは知らない。

「夏はね、苦手なの。でもここは過ごしやすくて好き。あと二週間で帰らないといけないけど」

「来年も来る?」と聞きたいのに、言葉が出てこない。

 ジェルグロスの具合を確かめるように、彼女は指先を唇に当てた。

「ね、うち来ない? 親が仕事で帰ってこないから寂しいの」

「えっ……?」

「かわいいグッズいっぱいあるから、あげる」

 突然の誘いに驚きながらも、僕は迷った末にうなずいた。


 カナの親が所有する別荘はかわいらしい作りをしていた。ロッジ風の建物全体がクリーム色に塗られ、玄関ドアだけがライトグリーン。大きめのドアベルはマットな質感で、ドアを開けるとからんころんと客の訪問を知らせる。

 カナは僕を招き入れると、自室のソファに座らせた。そうして様々なグッズをクローゼットや机の引き出しから取り出した。

「このシャーペン、かわいいだけじゃなくて書きやすいのよ。このペットボトルカバーとマグカップはね、通販で見つけてママにおねだりしたら買ってもらえたの。あと、これは……」

「こんなにもらっちゃっていいの?」

「うん」

「どうして」と聞きたいのに、怖くて言葉が出てこない。

「……ありがとう。でもお返しが何も……」

「お返しかぁ。……じゃあ、しよ?」

「……しよ、って」

「セックス」

「本当に?」と聞きたいのに、やっぱり言葉なんか出てこない。僕の口は出来が悪い。それでも口吻をしないわけにはいかない。おいしそうなアプリコットは、僕を受け入れる。カナの細い首が、白い肌が、僕の指先や唇や吐息に反応し骨張った背中を反らせる。やがて滲んできた彼女の汗は、僕を高みへと連れていった。


 彼女は予定どおり、その二週間後に別荘から家へ帰っていった。「ばいばい」と言い残して。

 かさかさと乾いた葉擦れの音が辺りに満ちてくる頃、「あそこの子、亡くなったらしいわ。肺炎で」と姉ちゃんが言った。まるであまりよく知らない芸能人が亡くなった時のように。


 マグカップに口を付ける。アプリコットの唇を、ラベンダー色の日傘を、白いワンピースを思い出す。


「ばいばい」


 もう聞くことのできないカナの声が、僕の耳に蘇った。

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ばいばい 祐里 @yukie_miumiu

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