第29話
私は放心状態で帰りの馬車に乗っていた。
「エミーリア、大丈夫か?」と兄が茫然としている私の顔を覗き込む。
「はい、お兄様。だ、大丈夫です。ですが、とても疲れました」
途轍もなく神経を擦り減らされた気分だった。あれからメイナードはダンスを踊り終わると暫く手を放してくれず、手を引っ張られながら会場の中の飲み物を取りに行ったり、軽食を取りに行ったりと振り回された。兄と言えば、他の令嬢たちから次から次とダンスの申し込みがあり、私の所まで戻ってくるのに時間が掛かってしまったようだった。
「俺がすぐにエミーリアの元に戻れれば良かったのに。いつもなら、あんなにダンスの申し込みはないはずなんだが……まさか、アイツが手を回していたんじゃ……」
まさか兄がいると邪魔だからといって、そこまでメイナードが手を回していたとかはないわよね、と考えてみたけれど、今日の衣装の出来事を思えば、ありえる話なのかもしれない。
はああ、と二人で体に溜まった疲れを吐き出すかのように大きな溜息を吐いた。
「アイツはなんか言ってなかったのか?」
「婚約してほしいって軽く言われたわ。もちろん『お断りします』って言ったけれど、明日中に我が家に挨拶に行くって」
「国王が許可をくれないだろう?」
「私もそれを言ったわ。でも『許可をもらう』って自身満々で答えていたわ」
「まずいな。本当に取ってくる可能性が大きいな」
はあ!? と私は素っ頓狂な声を上げた。それを聞いた兄は、「その淑女らしからぬ声を聴くのももう最後かな?」としみじみ言った。
いえいえ、今生の別れじゃあるまいし、そんなことはありません!
「エミーリアはどうしたい? やっぱり留学するかい? それともメイナードと婚約するかい?」
私は思いっきり首を横にブンブンと振った。
「留学します。暫くは誰にも気兼ねなく生活をしてみたいのです」
「わかった。寂しいけれど明日は早朝から出れるようにしよう」
「ありがとうございます」
我が家に帰ってくると、玄関ホールで父と母が出迎えてくれた。
「おかえり、二人とも。お疲れだったね、楽しかったかい?」
父が私を抱きしめてくれて、次は母に抱きしめられる。私は一度自分の部屋に向かい着替えてくる。侍女に手伝ってもらいながら、髪飾り、ネックレス、イヤリングと外していき、最後にドレスを脱ぐ。
「お嬢様、湯あみの準備も出来ております。どうされますか?」
「じゃあ、お願いしますわ」
温かいお湯に浸かる。何か途轍もない呪縛から解き放たれた気分になった。髪も丁寧に優しく洗ってもらい、体も心も癒される。
「どうですか? 明日からはお嬢様の今日のお疲れを癒すためにカモミールローマンの香油を用意しました」
「ええ、いい香りだわ。ありがとう」
甘くてフルーティーな香りで心も体も癒され、パーティでの緊張がほぐれるようだった。体がフワフワした感じで心地よい。このまま眠ってしまいそうになる。
「お嬢様。いくら気持ちよくても寝ないでください」
「あ、はい!」
侍女の声で一気に目が覚める。ああ、寝てはいけない。そう寝てしまってはいけないわ。明日には出発するのだから、父や母、兄との夜を楽しまないと。私の我が儘を聞いてくれるのだから。
簡易なドレスを着てみんなが待つ食堂に向かう。パーティーから帰る時は、沈みかける夕日を見て帰ってきたけれど、今はすっかり陽も沈み暗闇が広がっていた。窓から外を見れば、大小の無数の星が瞬いている。
これなら、早朝からも天気がよさそうだわ。
食堂に入ると、三人が待っていてくれた。兄が私をエスコートしてテーブル席に座らせてくれる。
「お兄様、ありがとう」と少し照れながら言うと、兄は「どういたしまして」と微笑みと一緒に返しの言葉を言った。兄のこういう所作が紳士的だ。元婚約者にこのような扱いを受けたことがなかったから、実妹に対しても出来る事がすごいと関心する。
「さあ、エミーリアが来たから始めようか」
父の一言に皆が目の前のグラスを持つ。父と母、兄はワインが入っているけれど、私のグラスにはグレープジュースが入っている。この国ではお酒を飲めるのは18歳から、私はまだ飲めない。
「エミーリア、卒業おめでとう!」
「「おめでとう!」」
「ありがとうございます!」
乾杯をして皆が一口飲むはずが……父と母は一気に飲み、グラスの中を空にした。父はある程度の予想はしていたけれど、母までもが飲み干すとは思いもしなかった。
「お、お母様? だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ……」
母は給士係を呼ぶとグラスにワインを注ぐよう告げたけれど、給士係も一気に飲んでしまった母は初めて見たらしく狼狽えていた。「早く注ぎなさない」と言われて慌ててグラスに注ぐ。
大丈夫? 本当に? なんだか目が座っているのだけれど。
母はまたすぐにワインを飲んでしまった。それを見た父は、負けるものか! というかのように、一緒に飲み始めてしまった。
「お、お母様。もうそこまでにしてください!」
「はああ!?」
母の素っ頓狂な声が聞こえた。いつものおっとりとした母は何処かに行ってしまった。もう怖すぎる。何かあったのだろうかと思ってしまう。
「エミーリア!! 聞いたわよ! あの第二おうこ殿下から婚約者になってよっていわれたんですって!」
え? 誰に婚約者になってよって言われたって? 第二おうこ殿下?
「お母様!? もう酔っ払ってますよね?
なんて言う呼び方をするのかしら! これ以上飲ますと大変なことになりかねないわ。
私は母のグラスを取り上げ、代わりにグレープジュースの入ったグラスを手渡す。
「そんなのどうでもいいわ! 『だいにおうこ』でも『だいにたまご』でも……そんなもの割ってしまいなさい!!」
「そうだ! そうだ! 割ってしまええー!」と父も一緒に叫ぶ。
「お、お母様!? お父様!? 何を割るっていうんですか!?」
父は、第二王子だー! と叫び、母は手渡されたグラスを勢いよく空にしてしまった。「あら、甘いわね。でも美味しいわ」と言いながら続ける。甘いのは当然だわ。ジュースに替えたのだから。それより一体どうしたと言うのかしら。
私は兄の方を見た。もちろんこの状況をどうにかしてほしくて見たのだけれど、兄は何事も無いようにフォークとナイフを持って料理を食べていた。
「お兄様! この状況を……」
そう言いかけると、兄は「面白いから、もっと飲ませたら?」と微笑みながら言う。ああ、これは兄も当てにならないのね、と私は頭を抱え込んだ。
「エミーリア! 了承してないわよね!?」と母は私を睨みつけて急に叫んだ。
「は、はい、しておりません。お断りしました」
「そう……それなら良いんだけど……話が複雑になるから辞めてよね……」
母はそう言うと大人しくなった。話が複雑になるってどういう事かしら、と思い兄に尋ねた。
「ああ、そうだね。エミーリアはハンシェミント国の王位継承の話を覚えているかい?」
私は頷く。確か私が8番目で結婚して子供が出来たら私の継承権はなくなり、子に受け継ぐ。その場合は同じ順位ではなく、新たな順位で与えられることになる。だから、余程のことが無い限り順位が上になることはない。
「この国、ドルーニア国は王太子夫妻がおられるが、まだ子がいない。だから現在の王位継承順位はアイツが2位だ。この意味わかるか? もし王太子夫妻に子が出来なかった場合、順位は変わらずそのままと言う事になる」
なんだか嫌な汗が流れてくる。そして兄はそのまま話を続けた。
「仮にその状態でエミーリアとアイツが結婚し、子が出来たら王位継承順位はどうなると思う?」
「……その子にドルーニア国の王位継承3位」と兄の問いに私は呟く。それくらいの事は私も理解出来る。理解出来るけど……ま、まさか……
「そしてハンシェミント国の王位継承権も同時に与えられる。どうだ? 面倒だろ?」
面倒だろ? って他人事だと思って簡単に言ってないですか?
兄の言う通りだけど、確かに面倒な事になると言えばそうだと思う。けれど、メイナードと結婚しなければ良いわけで。それより疑問に思ったことがあった。
「王位継承権を破棄することは出来ないのですか?」
傍系の自分達にも王位継承権があるのは分かるが、直系だけで十分なのではないのだろうか。それなら継承権を破棄することが出来ると思ったのだけれど。
「ハンシェミント国は出来ない。直系に何かあった場合、傍系に回ってくるようになっている。まあ、万が一にもそんなことはないだろうけどな」
万が一にもそんな事はないだろうけど、一人の人間が二国の王位継承権を持っているのって政治的にもまずいんじゃないかしら?
「どのみちー、たまごとのー結婚は……認めません!」
「そーだ! そーだ!」
人が真剣に考えている所に酔っぱらいの声が聞こえた。
「キャー! お母様! またワインを飲んでいたのね!? お父様も、もう辞めてー!」
私は慌てて給士係にワインを下げさせた。最後の晩餐ではないけれど、暫くは家族との食事が出来ない。まあ、これはこれで思い出になるわね。
翌日早朝、父と母は頭を押さえながら起きてきた。ワインの飲み過ぎで、頭が痛いらしい。当然だわ、あれだけ飲んだんだもの。結局は忘れられない門出になったわね。
「エミーリア、昨夜はごめんなさいね」
母が申し訳なさそうに言う。二日酔いさえなければいつもの母だ。
「いいえ、お母様。それなりに衝撃的でいい思い出になりました」
「それは、嫌味で言っているのかしら?」
「そうですね。少し嫌味も入ってはいますが、本当に楽しかったです」
私は母に抱き着く。
「エミーリア、体には十分に気を付けるんだぞ」
「はい、お父様。お父様も気を付けてください」
父にも抱き着く。父は頭を撫でてくれた。
「エミーリア……兄は寂しい……変な虫を寄せ付けるなよ」
「……」
兄は何を言い出すかと思えば、私だってモテないという自覚はある。私に好意を抱く人はかなりの物好きなのでは? あ、だから変な虫なのかもしれない。
兄はふうと溜息を吐くと、エミーリアは分かってないよね、と言った。
分かってます。分っていますとも。安心してくださいお兄様、と心の中で呟く。
兄はそっと抱きしめてくれた。辛くなったらいつでも帰っておいで、と言いながら。
「さあ、もうそろそろ出ないとアイツが来てしまうよ」
「そうね。お父様、お母様、お兄様。行ってまいります」
私がそう言うと一斉に三人が泣きだした。後ろ髪を引かれる思いで私は馬車に乗る。窓から手を振ると、三人も手を振ってくれた。馬車がゴトゴトと動き出す。
「さあ、悲しんでばかりいられないわ! 新しい生活が待っているんですもの!」
私は慣れ親しんだ道を眺めた。
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