1-3

 上階のカフェテリアに行くと、テーブルは課題に追われる学生グループで七割方埋まっていて、どこの席もぼんやり灯るモニタを囲んで、侃々諤々と賑やかだった。

 カウンターでいつもより糖分多目のラテを受け取り、窓際の席へ向かうと、テューケンから着信。

 椅子に掛けながらポートを開けると、相変わらず無駄に上機嫌な声が脳内に響いた。

―― よう。忙しそうだな。休日出勤?

『いや。ちょっと調べ物』

―― ここを離れる前に一回ぐらいは職場に顔出すんだろ? 室長が送別会したいとさ。

『えぇ……何か帰って来れなくなりそうで嫌だなぁそれ』

―― 何を弱気な。

『まぁ、送別会は遠慮しとくよ。クソ有難いことに、管理局がスケジュールをギリギリまで詰め込んでくれてさ』

―― しょうがねぇなぁ。じゃぁ今から室長に会って来い。

『はぁ? 何で』

 やれやれ、こいつの提案はいつでも唐突で突拍子も無い。今までも何度振り回された事か。

 だけど、こいつとの腐れ縁も、あと僅かでおさらばかと思うと、そんな日々でも妙に懐かしく思い出された。

―― いいから行って来い。行って何でもいいから話をして、出来れば何か約束して来い。

『だから何で』

―― 絶対無事に帰って来るための儀式と思えよ。住所録ぐらい入れてるだろ?

『ンな無茶な……。用も無いのにいきなり行ったって迷惑なだけだろうよ』

―― 用が無いなら今すぐ作れよ。じれったいなぁ。

 こっちの戸惑いをよそに奴は面白そうに笑ってやがる。それに少しばかりの苛立ちを覚えながらも、気付けば室長のデータを開いていた。

 地図上の輝点は、ここから程近い高級住宅地にあるマンションの一室を示している。いや、止めておこう。彼女に迷惑は掛けたくない。

『帰るわ俺。疲れたし』

―― え? ちょっと待てよランジャ!

 奴の言葉を遮ってポートを閉じると、ぬるくなったラテを飲み干して席を立った。

 伸びをしつつ窓から遥か上空を見上げれば、所々欠けてるパネルに投影された空はすっかり暮れ時で、一斉に灯った街灯やネオンの明かりが、道行く人々を照らしていた。

 今週末にはこの見慣れた景色ともお別れかと思うと、何だか急に全てが愛おしく思えてきて、いつもは黙ってカウンターに置く空のタンブラーも、奥で立ち働くおばちゃんに「ご馳走さん」の一言と共に返した。

 もっともおばちゃんは忙しそうで、「あーはいはいお粗末さま」といった具合にさらりと受け流すばかりだったが。

 外に出ると、一ブロック先の停車場では、丁度シャトルが発車したところだった。仕方ない。次の停車場まで歩くとするか。

 ふと、踏み出した足元を見下ろせば、手入れは行き届いてはいるものの、歩道の石畳もかなり磨り減っていることに気付く。

 商店街のビルも、補修に補修を重ねて使っているようで、落ち着いた風情と言えば聞こえは良いかもしれないが、例のプレゼン動画で見たような輝きは既に無い。

 行政区画のあるこの一帯はいつでも賑やかだが、内殻に近い外周街区などは、人口が減って閉鎖された所も多いと聞いた。

 何も出て行かない代わりに、何も入ってこない楽園の缶詰……。

 完全に閉じた高度な循環社会とは言うが、要は収縮する一方の共食い整備だ。確かに限界なのかもしれないが、ここから進んで出たがる奴は居ないだろう。

 それこそ大昔は毎年のように連絡員を派遣し、その都度大々的に報道されもしたらしいけど、結局誰も帰って来やしなかったし、今となっては熱が冷めたようにみんな地上には無関心で、誰もが他愛ない平穏な日々が、このままずっと続くと信じて疑わない。

 もっとも、先週までは俺もその中の一人だったのだけど。




 気が付くと、停車場どころか行政区画もとっくに通り過ぎていて、いつの間にか豪邸が立ち並ぶ高級住宅街の真ん中に突っ立っていた。すぐそこには室長の住む瀟洒なマンションも見える。

 まったく、何やってんだろ俺。表通りを通過するシャトルに気づき、慌てて戻ろうかとも思ったが、何故だか俺の足は勝手に件の建物に向かっていた。

 エントランスで逡巡すること暫し。だが不審者として摘み出されるのも不本意なので、意を決してフロントに面会を申し出ると、取次ぎに応じた室長は、意外にもあっさり許可してくれた。

 ここまで来たらもう行くしかない。目を瞑って深呼吸してからエレベータに乗り込み、さっさと用件を済ませて帰ろうと通路を急いだが……用件て何だっけ。

 畜生、考えてなかった。ええぃ儘よ。とばかりに決死の覚悟で呼び鈴を鳴らすと、程なくして静かにドアが開いた。

「いらっしゃい。どうしたの急に」

「あ、こ、今晩は」

 急な訪問に驚いた様子ではあったが、上ずった声で間抜けな挨拶をする俺に、室長はいつもの儚げな微笑で迎えてくれると、中へ入るように促した。

 趣味の良い家具が設えられた広いリビング。大きな窓からはレースのカーテン越しに夕暮れの街が一望出来た。

「あ……えーと、考え事してたらシャトルを逃しちまって、それで、次の停車場まで歩こうと思ったら、そこまで歩いて来ちまって、それで……」

 あぁ、とことん間抜けだ俺。頭が回らない状態とは言え、何を正直に白状してるんだ。

 こんな時、女誑しのテューケンだったら、どんな気の利いた科白を並べるんだろう。冷や汗はダラダラ出て来るし、彼女にはクスと笑われる始末。最悪だ。

「あぁ笑っちゃ駄目ね。御免なさい。そこに掛けてて。今、お茶を淹れるから」

「あ、いえ。すぐ帰るんで」

「そうなの? 遠慮しなくてもいいのよ」

 キッチンに向かおうとするところを呼び止めると、彼女は優雅に振り返り、静かに歩み寄る。

 細い肩先で柔らかく波打つプラチナブロンド。いつもは綺麗に結い上げているけど、家に居る時は下ろしてるんだな。

「でも、出発前に会えてよかったわ。さっきテューケン君から連絡があって、送別会は遠慮したいなんて聞いたから」

「あぁ、すんません。管理局に死ぬほどスケジュール詰め込まれてて……」

 こうしてファッショングラスも外してると、益々チゼル女史に瓜二つだ。じっと見上げる長い睫毛に縁取られた真紅の瞳に俺が映ってる。

「そうだったの……。ちょっと寂しいけど仕方ないわね」

 しなやかな肢体を包むシンプルなワンピースから、すらりと伸びた手足の、白磁の肌。

「何だか疲れてるみたいだけど、ちゃんと食事してる? 睡眠は……?」

 目の前に佇む女神の、形のいい艶やかな唇をぼんやり見詰めている俺に、彼女は他にも色々と体調を気遣う言葉を掛けてくれていたようだったけど、勿体無い事に頭の中が真っ白で半分も聴いてなかった。

 あぁ、今更だけど何で連絡員が俺なんだ。ここから離れたくない。彼女の居るこの場所から。

 週末なんか永遠に来なけりゃいいのに。ここを出ちまったが最後、何だかもう二度と逢えないような気がする。

 そう思うと自然に手が伸びて、いつの間にか抱き寄せていた。

 さすがにちょっと驚いた様子ではあったけど、彼女は抵抗するでもなく、微かに微笑んで小さな溜息をつくと、俺の胸に柔らかな頬を押し付けた。

 密かに抱いていた思いを告げた事すら無い。いつも遠くから眺めていただけの女神が、今、俺の腕の中にいる。

 壊れそうでいて確かに伝わる体温と鼓動。頬を撫でる細い髪。滑らかな肌が甘く香って、くらくらと眩暈がしそうだ。

 まさか、彼女も俺の事を? だとしたら、今夜はこのまま……。

 思わず生唾を飲み込んだ俺の背中に回る、か細い腕の感触に体の芯が熱くなる。それに応えて抱き締める腕に力を込めようとした時だ。

 彼女の掌が、俺の背中を優しく叩いていることに気が付いた。丸で駄々っ子をあやす母親のように、ゆっくりとしたリズムで。

「大丈夫よ」

 過熱寸前ですっかり宥められ、いきなり正気に戻った気恥ずかしさからおずおずと離れると、彼女は頭を掻こうとした俺の手を取り、両手で包むように握り締めた。

「大丈夫。ランジャ君なら出来るわ」

 拍子抜けするほどいつも通りの、職場で励ましてくれる室長の笑顔だ。お蔭でなけなしの毒気もすっかり抜かれてしまった。

「待ってるから。みんなで」

 みんなで……か。満面の笑顔で屈託無く返された言葉に、贅沢にも物足りなさを感じている自分に呆れた。

 でも折角彼女が期待してくれてるんだ。それにに応えるには腹を括るしかないだろ。この期に及んでじたばたしても仕方ない。

 俺は未だに未練たらたらな自分を叱咤すべく、握られたままの手を握り返すと、出来る限り力強くこう言った。

「俺、帰って来ます。必ず」

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