第8話

 シクランは大きさは標準的な人間サイズだし、派手な攻撃魔法を使いそうにもないから、今回はそれほど大きな土俵ではない。岩に立つ俺と、柳の傍に立つシクランがギリギリ入るくらいだ。

 だが、土俵の半分くらい湖にかかっているから、足場はほぼない状態だ。


 ルールを説明すれば、シクランはすっかりしわがれた老婆の声で不気味な笑い声をあげた。


「くっくっくっく、追い出す必要もなくおまえは負けを認めるだろう」


 シクランの声と共に霧が濃くなったように見えた。実際は何も変わっていないだろう。

 ただ、彼女を中心に魔力が一気に俺の喉元を掴み上げた。

「我が精神魔法に抗えるものなし、悲しき過去を晒すがいい」

 どうやら精神干渉系の魔法らしい。確かに、参りましたと言わせても勝ちだから心を挫くのも有効だ。


 喉元をひやりと氷に包まれたような気がしたが、物理的な接触はまったくない。首から頭へ、冷気が沁み込んでくる。身体もじわじわと熱を奪われて、さっきから鳥肌が治まらない。

 大抵の生き物は寒いだけで大分気分が落ち込むし、薄暗い霧の中というのも気が滅入る。成程、ここは幽霊のためのフィールドだ。


 呑気に魔法の分析をしていたら、寒気だけじゃなく、脳味噌の中を探られているような、怖気の走る感覚が強くなってくる。

 悲しい過去を晒す、とは本当に過去の悲劇やトラウマをほじくり出して、精神的に戦意を挫くつもりだ。

 だが、俺はこの世に生まれて生後一日、思い出らしい思い出もないから、この魔法は効かないのではないだろうか。

 と思ったけど、記憶があるならどこまでもほじくり返せるらしい。頭の中を虫が這い回るような不快感はいただけないが、このままいけば薄らぼんやりした前世の記憶が掘り出せるかもしれない。


 俺は不快感を我慢して、好きに探らせていたが、そのうち耐えきれなくなって膝をついた。


「ギルバンドラ様!!」

「まさか精神魔法が効くなんて……!?」

 離れたところから驚愕の声が上がる。あいつら一応観戦はしてたんだな。

 しかし、これしきで魔王の勝利を疑うなよ。

 俺は薄情な子分どもの薄情な声援にもガックリ項垂れた。


「……近所の、野良猫が壊した壺、俺のせいにされて怒られたの悲しい……」


「え? そんな落ち込むほどのこと?」


 精神魔法でほじくり返されて暴露してしまった俺の悲劇に、観戦していた子分たちはポカンとした。

 そりゃそうだろうけど、そう言うことは思っても表情に出さないのが上司への配慮だぞ。後で教育してやる。

「俺、前世含めてこんな悲劇しかないのか? ショックなんだけど……」

「あ、そっちのショックね」

 ルビィの納得の声にも呆れた雰囲気が滲んでいる。

 悲しい出来事はないに越したことはないけれど、しかしまったくないというのも、なんだか薄っぺらい人生だったみたいで遣る瀬無い。


「待って、きっともう少し探したら出てくるから、もう少し強めにかけてみろ」


 俺は気を取り直して立ち上がり、相撲のことも忘れてシクランに命令した。

 本物の相撲ならば俺が膝をついた時点で負けだが、どうせルールらしいルールもない魔界流相撲だ。俺はまだ戦意は失っていない。ちょっとショックを受けただけだ。

 シクランは戸惑いながらも、もう一度さっきと同じ魔法をかけてくれた。たぶん、彼女は良いやつだ。俺の浅い悲劇に若干引き気味だが、黙っているだけ俺の子分たちよりは配慮もできる性格のようだ。


 再度、脳味噌の中をゾワゾワする感覚が這い回る。慣れれば物理的な被害がないから、気持ち悪いくらいどうってことない。

 いいや、これ俺じゃないやつにかけたら廃人になるレベルの精神干渉受けてるな。俺の要望通り、さっきよりも強めにかけてくれたらしい。

 強い魔法に脳細胞が壊された端から、不死身級の自己治癒が自動的に始まり脳を再生していくのがわかる。

 脳細胞が作り変えられているが、再生がされるまで記憶は魂に保存されるから記憶障害も起きない。魂に記憶を保存する理論はわからないけれど、俺は魔王なので感覚でわかる。考えるな感じろだ。


 だがしかし、え? 嘘だろ、これだけほじくり回されているのにこれと言った悲劇が浮かんでこない。

 まさか、さっきの暴露が俺の前世最大の悲劇だったというのか。

「……えっと……あのぉ~……子供のころ、じいちゃんの家の金魚が死んで悲しかった……」

 俺は再び膝をついた。


 絞り出してもこれしか出なかった。どれだけ能天気な人生を送っていたんだ俺。

「負けなしの人生だったんっすよ!」

「輝かしき一生だったんですよ!」

「流石魔王様!」

「生涯に一点の曇りなし!」

 後ろの方から子分たちの声援が上がった。流石に俺の落ち込みようを見かねたのか、雑魚たちが初めて役に立った。


 そうだな、前世のことはうろ覚えだが、死んだ時はそこまで歳取ってなかったと思うし、まだ結婚もしていなかったと思うし、平和な時代の独身若造の人生にそうそう語るほどの悲劇など起こるまい。

「そう言うことにしておこう!」

 子分たちの前でこれ以上無様な姿は晒せない。俺は立ち上がりシクランに向き直った。


「俺に膝をつかせるとはやるな」

「あなたが勝手に落ち込んだだけ」

「うるせー! 精神魔法をひっくり返して十倍返しだ!」

 俺は半分以上八つ当たりで、今しがた受けたばかりの精神魔法をさっそく使ってみた。

 シクランの魔法をそのまま返してもきっと対策されるだろうから、悲劇を掘り返す魔法を喜劇を掘り返す魔法にひっくり返した。どうせ相手は幽霊だから廃人になる心配もせず威力を強めた。


「ひぃ――ひっひっひっ!! アハハハハハハハヒヒヒッ、ひっひぃい、アーハッハッハッハッハ!!」


 シクランはさっきまでの静謐な雰囲気が吹き飛んで、大笑いを始めた。ここまで強力にすると、喜劇を思い出すというよりもとにかく愉快な気分になってしまうようだ。

「ハハハハ、ひぇ、も、もう、許して、フフフハハハハ、アハ、もう死ぬ、ひひひ、酸欠で死ぬぅふふっふふふ」

「幽霊が酸欠で死ぬのか?」

 確かに今のシクランは笑い過ぎの酸欠でヒイヒイ言っているけれど、そもそも死んでいるし、実際は呼吸もしていないはずだ。


「幽霊は愉快になり過ぎると死んでしまいます」

 そこへ観戦していた黒魔導士から解説が入った。あいつは黒魔導士たちのリーダーで蜥蜴男のシングーだ。野心家で調子に乗りやすい性格なだけのヘタレだが、リーダーをやっているくらいだから魔法の知識は随一だ。


 曰く、幽霊は陰の気の塊であり、負の感情でこの世に留まっているから、笑うなどの陽の気が強くなることをし続けると消滅してしまうらしい。

「アハハハまいった、ハハ、まいりました、私の負けだフヘヘヘヘ」

 締まりのない降参の声を聞いたので、俺は魔法を解いてやる。ついでに、すっかり弱り切っているシクランに、ひっくり返した精神魔法を更にひっくり返してかけてやる。つまり悲劇をほじくり返す魔法だ。


「結婚を約束した王に魔女と呼ばれて処刑されて悲しい……ふう、生き返った」

 むしろ目は死んでいるし、暴露した悲劇が重過ぎるけれど、彼女はこれが通常運行なのだろう。さっきまでの馬鹿笑いをなかったことにして、すんっと居住まいを整えた。

「御見それいたしました、沼地に住まう者一同ギルバンドラ様のもとへ下ります」

 シクランは恭しく俺の前に跪いた。

 俺はまた一匹切り替えの早さが素晴らしい子分を手に入れた。

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