第33話 頑張れって感じの春佳

 だが、暫くして。


「動け……動けよ……っ!」


 わたしは自らを叱咤した。糸の切れた操り人形みたいになっていた身体に力を込め、机に突っ伏していた上体を起こす。


「お前は何だ? 百合絵師だろ……! だったら描けよ、百合を! それがお前の役目で、存在意義だろ……!」


 身体に熱が走る。だが、それは先ほどのものとは性質が異なるものだった。わたしの動作を阻害するのではなく、わたしを突き動かす。


 パソコンの電源を点ける。絵を描く為の準備をてきぱきと行ってゆく。


 画面に表示される白いキャンバス。右手にはペン。


 わたしは左手でスマホを操作した。先ほどの動画を再生する。音はミュートにしたまま。いや、絵描くのに音聞く必要は無いんで。


 スマホの画面に映し出されるキスをするわたしたち。わたしを動かす熱の中に別の熱が混ざってゆく。あまりにも恥ずかしすぎる。後悔がわたしを苛む。


「それでも!」


 わたしは自らを奮い立たせ、パソコンの画面へと視線を移す。そして、ペンを板タブへと押し付ける。


 百合を描くんだ。


 目的を真っ直ぐに見据え、わたしはペンを握る手を動かそうとした。


 けれど、動かなかった。


「なん、で……」


 突如として自らを襲った異常にわたしは愕然とした。


 まるで凍り付いてしまったかのように手が動かない。


 仕方無いので一旦ペンを置いた。それから再度ペンを持ち、描画しようとする。しかし、絵を描く段階に至ると、手はわたしの意思を跳ね除け、固まり付いてしまう。右手がストライキをしている。


 描けない。百合を描かないといけないのに。わたしの中で焦燥が膨らむ。今までこんな事は無かった。百合なんて好きじゃないけど、それでも百合を描いてきた。


 それから一〇分ほど、パソコンの前でわたしは固まり付いていた。いや、端から見れば硬直していただけなのだが、わたしは試行錯誤をしていたのだ。根性を振り絞り、手を動かそうとした。百合を描こうとした。それでも駄目だった。


 結果、根性ではどうにもならないという事を理解した。


 なので仕方無く、わたしは一旦ベッドに横になる事にした。そして、天井を見上げる。


 わたしの頭の中を占めているのは、は当然一つの事。


 急に百合が描けなくなった。一体どうして?


 わたしは、百合を描く為に今日百合をしたんだ。その結果として、百合が描けなくなった。本末転倒にもほどがある。


 何故そのような事が起こってしまったのか。


「あの百合を、客観視出来ないから……わたしのものでしかないから」


 不意に口をついて出た言葉が、本質を捉えているように思えた。


 そうだ。あのキスをわたしは第三者のものにする事が出来ない。わたしの経験でしかないのだ。先ほどわたしがあの動画を見た時に、その時の感覚を鮮明に蘇らせた。それがあの経験を主観的にしか捉えられていない裏付けだ。スマホのカメラという第三者の視点を通しても尚、それは自己の経験以外のものになり得なかった。


 百合を描く為には、その百合を客観視する必要がある。そのプロセスを経なければ、わたしは自らが行った百合から百合を創り出す事が出来ないのだ。わたしと美景の百合をスニミアの百合に変換する事が出来ない。


 突飛ではあるが論理的な破綻はない。この異常事態はそう解釈するしかないだろう。


「くそっ……」


 わたしは小さく吐き捨てた。胸の中が悔しい思いでいっぱいだった。


 でも悔しく思いつつも順当な事だとも思った。


 わたしは今回の百合で確かに力を手に入れた。あまりにも大きな力だ。

 だが、突然大きな力を手に入れたとして、それをすぐに使いこなす事は出来ない。それが道理だ。


 緑谷出久もそうだったじゃないか。オールマイトからワン・フォー・オールの力を授かったけど、はじめのうちは全然使いこなす事が出来なかった。無理に力を使って大きな怪我をする事も多々あった。長く厳しい鍛錬を経てようやくその力の真価を発揮させる事が出来た。

 今のわたしの身には有り余る力。四肢がもげて爆散してしまいそうだ。わたしも海浜公園でゴミ拾いして身体を鍛え上げておくべきだったかもしれない。


「わたしは、弱い……」


 虚ろな響きの言葉がぽつりと零れた。


「でも、だから頑張んなきゃいけないんだよ。そうでしょ? それなのに……」


 ベッドに仰向けになり、天井に向かって伸ばした手は何も掴む事が出来なかった。ゆっくりとその手を下ろす。


 わたしは唇を強く噛んだ。

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