第29話 はじめてのチュウ

 それから一分強、嫌な湿度の沈黙があった。


 息が詰まるような沈黙だ。漫画でも取ってこようかな。折角ネカフェに来てる事だし。そんな事を考えていると、不意に美景の言葉がその沈黙を破った。


「お姉さま、『これから先誰かを好きになる事は無い』と仰いましたよね?」


「……だったら何? それが悪いの?」


 苛ついて、わたしの返答はぶっきらぼうになる。


「いえ、そういうわけではなく」

「じゃあ何なの」


 わたしが眉間に皺を寄せて言うと、美景は僅かな間の後に告げる。


「誰かを好きになる事は無い――

 それならば、使?」


 わたしは言葉を失った。大きな動揺でわたしの上体が揺れる。


「だって、そうじゃありません? 好きな人にファーストキスを捧げるというのなら、それを温存する意義はありますが、誰も好きにならないのなら、温存をする意味なんて無いではありませんの」


「そっ、それはっ……」


 短い言葉が早口になる。美景の論理に対しての反論を必死に見付け出そうとする。だが、美景の追い打ちがそれの邪魔をする。


「『ラストエリクサー症候群』という言葉をご存知でしょう?

 RPGにおいて万能の回復アイテムを希少なものだからと使わないで取っておいて、結局それを使わないままゲームをクリアしてしまうというものですわ。それと似たようなものですのよ。

 ファーストキスが大事だからと取っておいて、でも結局使わないのでしょう? それって勿体無い事じゃありませんの?

 だったら、今使うべきですわ。

 お姉さまの百合を洗練させる為に、ひいては神絵師になる為の糧として、ファーストキスをここで使うべきですわ。今がその価値を最大限に発揮出来る時なのですわ」


 淡々と言葉を紡いでゆく美景。


「……! ……、……!!」


 対するわたしは何も言えないでいた。


 何も言い返せない。


 美景の主張は極めて単純な論理によって構成されている。だからこそ、破綻を見付け出す事が出来ない。それがもっと複雑な構造の論理だったならば、必死になって探せばどこかに小さな破綻を見付け出す事が出来たかもしれないが、シンプル故に、ぱっと見てそこに破綻が無いのなら、これ以上目を凝らしてもそれは見付からないのだ。「異議あり!」って叫ぶポイントが無い。逆転不可能だった。


「どうなんですの? お姉さま」


 こちらに少し近付き、問う美景。


「うっ、んぐぅっ……!」


「お姉さま」


 さらに、ずい、と来る美景。彼女の青い瞳がわたしを責め立てる。


「……ま」

「ま?」

「参りました……ッ」


 花嵐九段、投了宣言。


 深く頭を下げてから、小さく上げると勝ち誇ったような美景の顔が見えた。悔しいが何も出来ない。わたしは自らの敗北を受け入れるしかない。


「ではお姉さま」


 美景がわたしの耳元に口を近付けて、囁くように言った。


「キスを、するとしましょうか」


 その言葉にわたしは自らの平衡感覚が奪われるような感覚を覚えた。


「キス、を……」


 そうだ。わたしは美景の主張に対して何も言い返せなかった。敗北した。それは即ち、美景の意向に従わなければならないという事だ。


「ええ。お姉さまはわたくしとキスをするのですわ。もう拒否権なんて無いのだと分かっているのでしょう?」


 美景の言葉はどこか艶めかしい。わたしの中の熱が掻き立てられる。身体の末端まで熱くなってゆく。


「それ、は」


 顔を合わせられない。美景を視界に入れないようにする。それでも、すぐ側の美景の体温を、彼女の存在を、明瞭に感じ取ってしまう。


「『百合の為だから仕方無い』、ですわよね?」


 はっとするような感覚。


 そうだ、百合の為にやるんだ。だから仕方無い事なんだ。そう割り切ってさっさと彼女とキスを済ませてしまえば良い。


 でも、何かが引っ掛かっている。


 彼女とキスをしたくないから? 嫌いな女との肉体的接触を拒絶しているから?


 それだけじゃない気がする。


 じゃあ何なんだ。それは分からない。――単に分からないだけじゃなくて、分かってはいけない気がする。


 わたしの感情はパソコンの配線よりもごちゃごちゃになっていた。自分でも何が何だか分からない。


「――さあ、百合をしましょう? お姉さま」


 そう呟いて、美景が手をわたしの手に重ねた。


 ひんやり冷たいような。でもそれはわたしの身体が熱くなっているからで、その事を差し引いて考えればそうでもないような。


「……わ、分かった」


 そう了承を告げる以外に道は無かった。


「するよ、百合をする――」


 身体の中で熱が加速するのを感じながら、わたしは言葉を続ける。


「――あんたと、き、キス、を、する……っ」


 そのたった二文字。その単語を口にする事はわたしにとってあまりにも高い障壁だった。それを乗り越えたら乗り越えたで、わたしは羞恥の為に溺死しそうになっていた。


 美景はわたしの宣言に対して返事をしなかった。

 彼女はすっと立ち上がり、それからわたしに背を向けた。わたしははじめ、キスをするんじゃないのかよと彼女のその動作を訝しく思ったのだが、彼女が鞄からスマホとスマホスタンドを取り出した所で合点がいった。


 撮るんだ。


 録画されちゃうんだ。わたしと美景のキスが。

 作画資料の為だ。そんな事は分かってる。その理由は正当なものだ。でも……本当にいいのか? という感覚がどうしても拭えない。何だか、物凄くいけない事のような気がする。


 スマホをセットし終わった美景はわたしの方に近づいて来て、腰を下ろした。わたしがちらりとスマホの方を見ると、画面の中にわたしたち二人の姿が収まっている。

 寒空の下に放り出されたように身体が震え始めた。それを美景に悟られまいと必死に震えを抑える事に努めるのだが、限界があった。


 すぐ目の前に美景の顔があった。青い瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。けれど、わたしはその視線に迎え撃つのではなく、彼女の唇を見遣った。


 わたしは、これから彼女とキスをするんだ。


 初めてのキスをこの女にあげちゃうんだ。


 その事が頭の中を占めてしまって、他の事はロクに考えられなかった。


 キスなんて概念、今までに沢山の百合作品に触れてきたわたしにとっては熟知しているものの筈。

 けれど、今わたしはキスについて何も分からなくなってしまっていた。それが、他者の行為でなく、自分の行為になってしまった――それだけの事で。わたしが美景と唇を重ねている光景を想像する事さえかなわなかった。


 一体どうして?


 心臓の音が激しく鼓膜を叩いている。


 美景の顔がゆっくりとこちらに近付いて来る。わたしの唇と、彼女の唇の距離が縮まってゆく。え? もうキスをしちゃうの? わたしが乗るジェットコースターが何の合図も無く発車してしまったような気分だった。


 待って。待って。全然心の準備が出来てない。このままキスをするなんて――。


 その時、わたしは、はっと思い至った。


「ま、待った!」


 わたしのその言葉で律儀に美景が止まってくれたのは幸いだった。わたしの制止に関わらず強引にキスをするくらいの事はしそうなやつだったから。


「あんたは、いいの?」


 わたしが問うと美景は小さく首を傾げた。


「わたしは誰かを好きになる事は無い――でも、あんたは違うんじゃないの? それなのに、わたしなんかとキスをしちゃって、本当にいいの?」


 微妙に呂律が回らなくなっていたのでわたしはたどたどしく問うた。


 少しの沈黙の後に美景が答える。


「……わたくしは、別に、構いませんのよ」


 そう告げる時、美景は少しだけ目を逸らした。けれど、すぐにこちらへと視線を戻して、再びゆっくりと顔を近付けてくる。


 いいんだ。美景が構わないなら……それなら、もうキスするしかないじゃん。


 美景の瞼がゆっくりと下りてゆく。そうだ、キスをする時って目を閉じるんだ。何でか知らないけど、とにかくそういうものだった。


 わたしもそれに倣ってゆっくりと目を閉じながら、美景へと顔を近付けてゆく。このまま目を閉じて美景がわたしにキスしてくれるのを待てば良いとも思ったけど、それだと何となく悪い気がしたし。


 それに、百合の為だから。


 受け身じゃだめだ。わたしから能動的に百合をした方が百合に対しての理解はより深まる筈だ。


 全部、百合で勝つ為。本当にそれだけ。


 不意に、何かの花みたいな香りがした。


 これって美景の? 良い匂い――。

 そんな事を頭の片隅で考えた時だった。


 わたしの唇に柔らかさと熱が触れた。


「ん……っ」


 目は閉じたまま。それでも理解した。だってそれ以外に考えられなかった。


 わたしは美景とキスをした。

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