第4話 なにが悪い

 四時限目。世界史の授業。


 そこそこの偏差値を誇る菜乃笛高校では授業中に居眠りをしている生徒の姿は見受けられなかった。ましてや今は三年生の春。来たるべき受験に備えて自らの学力を培う大切な期間だった。


 だから皆、授業に真摯に取り組んでいる――ただ一人を除いて。


 わたしは広げられたノートの上にシャーペンを走らせていた。

 だがそこに書いているのは偉人の名前とか年号とかうんたら事件とかではなかった。


 スニットとミアリム。スニミア。

 わたしは授業中に百合を描いていた。


 もっとも、そんな事この教室の誰一人として知らないだろう。わたしが百合を描いている事はノートを覗き込まなければ分からない。端から見ればわたしは熱心に板書を写している生徒と何も変わらない。ASMRみたいに眠くなる声で授業をしている世界史のおばさん教師もわたしが百合を描いているなんて露ほども思わない筈だ。


 授業中に百合を描いて何が悪い。


 第一、世界史の授業なんて一体何の役に立つんだ? 偉人の名前や年号を覚えている事は将来になってわたしにどんな恩恵を齎してくれるというんだ? 何か知りたい歴史上の事があればその時にネットで調べたら良い。わざわざ暗記をする必要なんて無い筈だ。


 何の役にも立たない。社会の貢献には一切寄与しない事だ。


 だから、わたしは百合を描く。こちらの方が遥かに重要だ。それはわたしにとって大切なものであるというだけではない。全世界の何千何万――いや、もっとだ。とにかく、大勢のオタクがスニミアを求めている。わたしは彼らにスニミアを齎す。彼らは笑顔になる。こっちの方がよっぽど社会貢献じゃないか。わたしがスニミアを描き続ければ、いずれ世界から愚かな戦争は根絶される筈だ。


 不意に、わたしの中の理性が小声で主張をする。一年もしないうちに受験の時はやって来る。わたしは文系で受験をするつもりだから世界史の授業を真面目に受ける事は重要だ――うるさい。分かってる。分かっててわたしはスニミアを描いているんだ。


 受験よりも、将来よりも、今わたしがスニミアを描く事が重要なんだ。だからわたしはスニミアを描いている。これがわたしの選択だ。わたしの主張は間違ってる? だったらわたしを論破してみせろ。わたしは論破王が相手でも勝つぞ。百合がわたしにその為の力をくれる。


 時計の針が回る。黒板が文字で埋め尽くされて、先生は一回それを消した後また文字を書き始める。わたしはノートの上のスニミアのディティールを書き込んでゆく。服の皺や髪の細い毛束。ノートの上でスニミアの二人が生命を獲得してゆくのをわたしは感じていた。


 そうこうしているうちに世界史の授業は終わりを迎えた。わたしはスニミアの絵を満足のいくレベルまで描く事が出来た。


 再び時計を見る。と――わたしに緊張が走る。


 時計は一二時過ぎを示している。当たり前の事だったが、それがわたしにとっては大きな意味を持つ事だった。だからわたしの身体は強張った。


「起立、礼!」

「「ありがとうございました!」」


 日直の号令によってクラスの皆が授業の終わりの挨拶をする。その瞬間にクラスの空気は弛緩を始める。教室のあちこちから談笑の声が聞こえてくる。四時限目の授業が終わり、昼休みの時間となった。


 だが、わたしは皆の談笑に混ざるよりも先にすべき事があった。

 わたしはポケットからスマホを取り出す。心臓が早鐘を打っていた。スマホを持つ手には汗が滲む。


 スマホの画面を点ける。わたしは祈るような気持ちを抱えていた。


 そこには、何の通知も表示されていなかった。


「う、そ……」


 わたしは力の無い声で呟いた。恐らくはこの教室の誰の耳にも入らなかった呟き。

 スマホをスリープ状態にする。黒くなった液晶画面に映るのはわたし自身の虚ろな瞳。


 わたしは絶望していた。


 動く事が出来なかった。スマホが手の中から滑り落ちそうになる。


「春佳ー、ごはん食べよ」


 わたしの名を呼ぶ声。そちらを見れば、弁当箱を手にしたすみれが居た。


「すみ、れ……」


 油が切れたようにぎこちなく首を回し、彼女の方を見る。


「どしたの春佳、体調悪い?」


 わたしの異変に気付いたのか、心配そうな表情を向けるすみれ。


「ちょっとお腹が痛くて……ごめん」

「あ、そう? 行ってらっしゃい。じゃあ私が席くっつけとくね」

「うん……ありがと」


 すみれの横を通り過ぎる。


 覚束無い足取りでわたしは教室を後にした。

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